リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

高橋由一VSフェノロサ?! 絵筆を選んだサムライ高橋由一⑥

今日も生きてます。

 

高橋由一シリーズが続いています。

刀より絵筆を選んだサムライー高橋由一(たかはしゆいち)ー - リアル絵描き日記

絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生② - リアル絵描き日記

絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生③ - リアル絵描き日記

絵筆を選んだサムライ。高橋由一④ - リアル絵描き日記

日本一の「鮭」を知る。絵筆を選んだサムライ高橋由一⑤ - リアル絵描き日記

 

 

今日は、洋画を日本に普及させたいと願う高橋由一に立ちはだかった巨大な壁についてお話ししたいと思います。

 

それは…

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フェノロサです。

 

フェノロサお雇い外国人として有名ですね。

日本の伝統的な美術のすばらしさを訴えた外国人です。

 

日本文化の価値を見いだしてくれたという点でありがたいお方です。教科書でも紹介されるときはその面を強調されると思います。フェノロサは日本中に日本美術尊い旋風を巻き起こしました。

 

しかし…それは洋画を普及させたい高橋由一にとっては、逆風以外の何物でもありませんでした。

 

 

 

〇由一とフェノロサ

 

まずフェノロサ明治11年、お雇い外国人として来日します。東京大学で哲学を教えていました。もともと美術が好きで、日本に来てからは日本美術に魅入られました。

 

明治12年高橋由一は画塾を拡張し、名前も「天絵社」から「天絵学舎」に改名します。高橋由一はこの画塾をゆくゆくは公的な機関にしたいという思いがありました。

 

由一は各府県に対して、画学科を教える先生を雇うときには、天絵学舎の卒業生を採用してほしいという手紙も出しています。生徒が卒業後の就職先にまで眼を配っている高橋由一はわかってます。

 

そして「天絵学舎」には、あのお雇い外国人フェノロサもちょくちょく来ていました。

 

美術愛好家であったフェノロサは、最初高橋由一とも交流を深め、天絵学舎で講演をする約束をするまでになりました。

 

しかし、フェノロサが日本美術の良さにとりつかれた後、フェノロサは洋画排斥論者になってしまいます。結局講演の約束は果たされないままでした。

 

そしてこのフェノロサの行動力がすごい。

 

 

フェノロサ明治15年に伝統美術保護を訴える半官半民の美術団体である籠池会にて洋画を排斥し、日本画の優位を論じます。

 

その内容が「美術真説」として翻訳出版されると、フェノロサは日本の美術専門家、批評家、パトロンとして確固たる地位を築きます。

 

フェノロサの息がかかった日本画家、狩野芳崖、橋本雅邦を中心に日本画革新の道をあゆみあはじめます。その活動に岡倉天心も加わり、東京美術大学日本画科というアカデミーを創立します。

 

日本画盛り上がっていこうぜ!という運動が盛り上がっていました。

 

 そして日本初の東京美術学校には洋画科がありませんでした

 

明治20年の第一回内国絵画共進会では、油絵の出品は拒否されました。

 

洋画がとにかく冷遇されていたことがわかりますね。

 

その後日本の洋画ブームは、黒田清輝が登場するまで待たなければいけません。

 

 

 

 

高橋由一の夢「螺旋展画閣構想」

 

由一はただ絵を描いていただけではなく、洋画拡張計画の夢を抱いていたので、いろいろなところに洋画関係の企画書を提出しています。

 

 

その中の一つには今の美術館にあたる構想もありました。

 

そもそも日本には美術館がありませんでした。展示会をするときは(大きな料亭などの)場所を借りて展示していたようです。今の貸しギャラリーのようなイメージでしょうか。

 

由一が考えた油絵常設展示場の図↓

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趣のある建物でなかなかいいですね。

天井は展望台になるようです。

 

しかしこの企画に賛同してくれるものは現れず…悲しいですね。

たくさんの企画書やお願い(嘆願書?)を権力者や要人に送ったのですが、ほとんどは叶わずだったようです。

 

 

 

〇由一の金策

 

高橋由一の作品は神奈川県にある金刀比羅宮に27点所蔵されています。

 

理由は由一の働きかけ(営業ともいう)があったためです。

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高橋由一二見ヶ浦

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://www.konpira.or.jp/museum/yuichi/takahashi-yuichi-house_2015.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46681462により引用

 

↑は由一が最初金刀比羅宮に送りつけた作品です。これが気に入られ、翌年に金刀比羅宮で開催された展覧会「琴平山博覧会」にて由一が37点という大量出品することにつながります。

 

そのうち35点を奉納し、由一は資金援助として200円をゲットします。しかし由一の計画では500円以上の資金をここで稼ぎ、画塾のリニューアルにあてる予定でした…。

 

新校舎を建築したかった由一は金策に走ります。お金を借用したいという手紙や、資金援助を貴族に頼む手紙が残されています。

 

もちろん金刀比羅宮にも資金援助のため助けてくれないか?という手紙を出していますが、承諾できないというそっけない返事が返ってきてしまいます。

 

ちなみに金刀比羅宮のホームページには由一の作品と200円の資金援助をしたことが記されていますが、その後追加の資金援助を断ったことは記されていません。(笑)

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高橋由一「豆腐」

Takahashi Yuichi; died in 1894 - Scanned from a book, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25020746により引用

 

 

 

その後いろいろお金を得ようと頑張りますが、うまくいかず、結局「天絵学舎」は明治17年に廃校になってしまいます。

 

 

悲しいですね。

 

 

ちなみに今高橋由一の作品は数千万らしいので、あのころ由一に何匹も鮭を描かせておけばものすごい投資になっていたのに…

 

 

 

次回、最終回。

このままでは報われないよ高橋由一

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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日本一の「鮭」を知る。絵筆を選んだサムライ高橋由一⑤

今日も生きてます。

 

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図録をゲットだぜ。

(古本ですが…)

 

クノップフもバーンジョーンズも好きな作家です。(むふふ)

 

これからゆるーり読んでいきたいと思います。

 

 

 

さて、高橋由一の人生についてみていきました。参考にしている本は高橋由一ー日本洋画の父」(古田亮著、中公新書)です。

 

今日は代表作である鮭について見ていきましょう。

教科書にのっているこの鮭。

 

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高橋由一「鮭」明治10年(1877)頃 重要文化財

 高橋由一 - https://web.archive.org/web/20080222053001/http://www.nichiro.co.jp/salmon/culture/02.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=901005による

 

細部の細部まで描き込まれていて、見ているとつばが出てきそう…(ごくり)

 

実は鮭の作品は他にもあります。

このような乾きもの?を描いた作品は他にもあり、展覧会にも出品していたようです。来場者は、西洋の模写ばかりの中で、この高橋由一の鮭の作品を新鮮に感じました。

 

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高橋由一「鮭図」1879~80年頃 タグには「日本橋中洲町美妙館よる出」とある

 Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-1429.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46687252による

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高橋由一


 Creator:Takahashi Yuichi - http://www.yamagata-art-museum.or.jp, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31511776による

鮭はどうやら年末に描かれており、理由はお歳暮の時期になると贈答品として鮭がちまたに出回るからということもあったようです。

この画題が評判がよかったのもあり、お歳暮のノリで描いていたのかもしれません。

 

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Takahashi Yuichi (1828-1894) - はがき, scanned by Fraxinus2, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18628935による

 

 

 

 

明治10年に第一回内国勧業博覧会が開催され、由一は「甲冑図 」「東京十二景」「不二山遠望の図」を出品します。

 

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高橋由一「甲冑図」

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://salonofvertigo.blogspot.co.uk/2012/06/blog-post_30.html http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/takahashi/kaisetsu.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33564947による

 

侍の出自である由一が、当時滅びゆく武士の鎧である「甲冑」をモチーフにするのは、なんだかエモいですね。

 

この展覧会の様子は新聞に掲載され、その中で由一の甲冑図が取り上げられています。

 

今日世に残っている甲冑武具はやがて朽ち果てて散逸するだろうが、油絵は数百年保存されるのであるから、後世の学者たちはこの絵が参考となるであろう

 

 

高橋由一が日本の特有の画題を選んでいるのは、堅牢な油絵に消えゆく運命にある日本文化と伝統を残しておきたかったのかなと思います。演出した姿ではなく、見えたままの姿を。

 

また、日本に油絵を普及させたいため、日本人になじみが深い日本の物を画題にしたのかもしれません。

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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絵筆を選んだサムライ。高橋由一④

今日も生きてます。

 

私は高校・大学と、美術系学校を卒業しました。美術好きの私にとって、その環境は天国。

 

おそらく一般の大学と比べ個性に開放的な風潮があると思うので、のびのびといきてしまいました~。(いつでもどこでもマイペース!)

 

しかし日本で美術専門の学校や、授業の中に油画が入るまでは相当な道のりがありました。

 


今日は、高橋由一の美術教育を普及させた面を見ていきます。

 

 

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 不明 - [1] Mie Prefectural Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8904234による

〇由一、画塾創設

 

 

明治6年、日本で油絵の第一人者として地位を確立させた由一は画塾を開きます。
理由は、大学南校での美術の授業が、絵を専門としない一般学生に対するものであったことです。

 

由一の画塾「天絵社」からは、日本画の大家となるものもでてきます。

 

今までの日本だと、どこかの流派の絵の師匠へ弟子入りをすると、他の流派で学ぶことは出来ない風潮でしたが、由一はどんな流派の人でも受け入れました。

 

油絵以外は認めないというような狭い考えは持っていませんでした。

 

また、女性の教養には美術が必要と考え、女性の弟子も積極的にとりました。

 

 

 

 

〇由一、国産画材をつくる

 

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高橋由一不忍池図」 1880年愛知県美術館

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://artnews.blog.so-net.ne.jp/2012-10-06-1, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33565821による

 

由一48歳前後の頃、画塾を創設したものの、深刻な問題が一つありました。それは画材不足です。

 

しかもその不足している油絵の画材がびっくりするほど高かったのです。

 

ちなみに今油絵具一式(絵の具・パレット・筆・オイル)をそろえようと思えば一万円あれば全てそろえることができます。

 

高橋由一の生きていた時代は5号チューブの絵の具が一本、二分金一枚でした。

(5号チューブは15ml入りの絵の具で、手のひらサイズの大きさです。)

 

二分金一枚というと50銭。当時木村屋のアンパンが一つ一銭。ここから一銭200円程度と考えると、油絵具一色のチューブが一万円程度したという事になります。

 

これを絵を描ける分だけそろえようとすると莫大なお金がかかります。

 

西洋画材を頼りにしているばかりでは埒が明かないと考えた高橋由一は国産の画材を生産することを考えます。

 

ゴムと桐油の製造経験のある人間にキャンバスの製造を依頼します。そして出来上がったものを学生の常用としました。

 

そして由一の元に油絵の製造方法を聞きに来た絵具染料問屋には、あらゆる知識と舶来品を渡しました。また、製造法に詳しい科学者にも手伝ってくれるよう手紙を書いています。

 

 

明治9年の「仮名読新聞」には、「西洋模様 白人形 油絵具ならび水彩絵の具、艶油、筆刷類」を売り出したという広告が掲載されました。とうとう国産の画材が開発されたのです。アツい展開です。

 

そしてその後由一の画塾生の中からも、画材をつくりたいというものがでてき、実際に売り出し始めました。

 

 

 

言い方悪いですが、油絵の第一人者としてその知識を日本で独占しようと思えばできたと思うんです。門外不出の秘伝のタレの配合的な感じで。

そうではなく、日本全国、そして庶民にまで洋画が普及してほしいと願っていたからこそ知識をおしみなく共有していたところがすごいところです。

 

自分さえよければいいという利己的な考えではなく、由一が抱いていた夢はスケールの大きさが違いました。

(なんやかんやで絵の制作方法を本には絶対に書かなかった司馬江漢とは全く違う)

 

 

 

◯由一、展覧会を開催する

由一は画塾「天絵社」の展覧会である月例展

を毎月開くようになります。これには由一も三点をめどに出品を続けていました。

 

広くいろんな人に見てほしいため、拝観料はとらなかったそうです。新聞で宣伝し始めると、来場する人が100~150人になりました。

 

また、天絵社の門人が絵画の競売を目的とした会社「開誘社」を開きます。明治9年の初回には数百枚売りました。この活動も由一は支援します。

 

由一の画塾から画家だけではなく、日本の絵画・洋画を普及させようとする人間が出てきていますね。

生徒さんは、絵の技術だけではなく、洋画を普及させたい熱い思いを由一から学んでいたのかなあ。

 

 

 

 

ところで義務教育では美術の単位がだんだん減っているようです。
小中学校の図画工作や美術の授業を思い出すと、確かにあってもなくてもいいような内容でした。


色々な画材で表現を学ばせることよりも、鉛筆デッサンと日本・世界の美術史のテストをした方が人生の役にたつのにと思います。個人的には教科書が変わらないなら美術の単位は必要なしですね。

 

今の日本の教育の流れを見たら高橋由一が泣きますよ…

 

 

次回は高橋由一の代表作「鮭」について触れたいと思います。

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生③

今日も生きてます。

 

最近のばしていた髪を切ってさっぱりしました。長い髪で色々な結びかたをして楽しもうと思っていたのですが、なかなか自分で自分の髪をセットするのは難しく、断念しました…。

 

 

高橋由一が生きていた時代、明治維新の影響で西洋の文化が日本に入ってきて、美的価値観も大分変わったそうです。

 

 

女性の髪型もその一つ。


1872年2月25日の「東京日日新聞」には、当時の女性たちが黒い髪を切り落とし、文明の姿ぞとすましている様子を、万国未開の醜態であると書いています。

 

昔は髪を切るというと出家するようなイメージの方が強かったのかな。受け入れられない人もいたのかもしれませんね。

 

(というか新聞がこんな価値観押し付けてくる辺り、時代を感じますね。多分女性には伝統的な美しさを守ってほしいという保守的な男性の願いがこの表現に繋がったんでしょう。)


伝統が失われていくと感じる人もいたのでしょう。

 

そこで高橋由一のもとに、新しい時代に生き残るかわからない花魁の姿を油絵として残してほしいという依頼が来ます。

 

モデルになった小稲は下髷を結い、これ以上差せないという程の簪を差し、豪華な打ち掛けを着て由一の前に座りました。


そして完成した作品が↓

 

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高橋由一「花魁」 1872年 

Takahashi Yuichi - Catalogue, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28998713による


現代の私たちが花魁に抱いているきらびやかなイメージをパリーンと砕くような花魁の姿ですよね。

 

なんか疲れてるようにみえるし、すごい美人にも見えない…私たちと同じような人が、すごい衣装を着込んでいるように感じます。

 

錦絵やこの頃の写真では絶対伝わらないリアルな花魁の姿です。高橋由一の表現力がきらりです。由一の作品の良さって、おそらくこういうところなんだと思います。


ちなみに有名な話ですが、モデルとなった小稲は自分が描かれた作品を見て私はこんなんじゃないと泣いて怒ったそうです。


(ですが、重要文化財のモデルとなった小稲という花魁として、日本国が続く限り後世に名が残る存在になりました。)


この花魁を描いた年、由一は関西方面へ取材旅行へでかけます。
なのんためかというと、次の年のウィーン万博出品の依頼があったためです。

江ノ島由比ヶ浜、大磯、箱根、滋賀県三井寺

東海道を14日間で移動しました。

高橋由一は小さな洋紙のスケッチブックに鉛筆でたくさんスケッチしたようです。

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柏原でのスケッチ↑



この出張にはもうひとつの目的がありました。
明治四年に日本で初めて文化財保護関連法である「古器旧物保存方」ができました。
そこで太政官である蜷川式胤や文部省の役人たちと共に関西の古い社寺の宝物調査に参加しました。


高橋由一京都御所に何度か通い、建物内の撮影に参加しています。

 

なぜ高橋由一がこのような仕事にありついたかというと、以前蜷川式胤が旧江戸城を写真に残すというプロジェクトをしていたときに写真への彩色する仕事をしたからだと思われます。由一はこの仕事で式胤から信頼されていたようです。


旅行のスケッチをもとに「旧江戸城之図」「国府台真景図」「富岳大図」等を書きました。

 

ウィーン万博には「旧江戸城之図」「国府台真景図」が出品されます。


その後、油絵の第一人者として認知され、たくさんの仕事が舞い込むようになります。

経済的にも安定してきました。

 

 

 

そして由一は洋画を日本に普及させるため、教育の分野にも目を向けていきます。

このことについては次回~

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生②

今日も生きてます。

 

とそまえんが今日で閉園だそうですね。

 

実は以前世界最古のカルーセルが見たくて取材もかねて行ったことがあります。(独りでですが…)

 

全体的にレトロな雰囲気の遊園地でなかなか楽しかったです。ミラーハウスも入ったのですが、迷い過ぎてなかなか出ることができませんでした。目の前の鏡に自分の後ろ姿が映っていて混乱しました。

 

小さな頃からとしまえんで遊んでいた人々にとっては悲しいですよね。都会の子供はこんなに遊びの設備が身近に整っていて遊ぶのに不自由が無いんだな。

(秋田生まれの私は子供の頃は神社の裏でドングリ拾って遊んでいましたし、ビー玉が友達だった記憶しかない。笑)

 

個人的にはとしまえんの後にできるハリーポッターの施設が楽しみです。

 

 

 

 

さて、前回から高橋由一について取り上げています。

akashiaya.hatenadiary.jp

 

参考にしている本は高橋由一ー日本洋画の父」(古田亮著、中公新書)です。高橋由一の生涯だけではなく、周辺の関わり深い人物との背後関係もそれとなく説明してあるので、仕事の流れなど理解しやすいです。

 

前回のブログでは下級武士として働いていた高橋由一が、幕府が設立した「洋書調所画学局」に入局し、洋画を学び始めたが、油絵の具に触れる機会すら巡ってこない…ということを書きました。

 

今日は運命の出会いとなるワーグマンについてとりあげます。

 

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ワーグマン「第一次東禅寺事件。乗馬用の鞭で反撃する一等書記官オリファント1861年

不明 - The Illustrated London News, 1861., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2183464による

 

洋画を学びたい高橋由一は横浜で記者兼画家のチャールズ・ワーグマンに出会います。ワーグマンの作品に感銘を受けた由一は、ワーグマンに油絵を習うことになります。

 

ワーグマンはロンドン生まれのイギリス人です。イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社で記者兼画家として働いており、日本では取材のために滞在していました。
日本人と結婚し、日本には30年滞在します。

 

イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社とは?

イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社とは、世界初のイラスト入りの週刊誌を発行した会社です。色々な場所に特派員として記者兼画家を派遣していたようです。

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The Illustrated London News staff - Here, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1012725による

Illustrated London News - http://www.iranian.com/Pictory/2005/June/q3.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=989089による

 



ワーグマンが来日した頃、日本では攘夷運動が盛り上がっていました。幕末の攘夷テロにたまたま遭遇したワーグマンは、その様子を絵として残しています。

 


日本の日常をネタとした「ジャパン・パンチ」という漫画雑誌も創刊しています。

 

由一はワーグマンの元で念願の油絵を勉強していきます。

 

 

 

 

 


1869年、高橋由一は上海使節団に参加するため船に乗ります。この頃さまざまな目的で、日本から上海を視察することがあったようです。


あんまり関係ないのですが、写真が発達していなかった頃、パスポートはどうしていたのでしょうか?

当時、パスポートには、顔写真の代わりに言葉で人間の特徴を記載していたそうです。

高橋由一旅券
第三拾三号
限六拾日
堀田摂津守家来 高橋佁之助

年齢 三拾九歳
身丈五尺三寸
眼 常体
鼻常体
口大キ方
面長キ方
黒痣
右眼尾 一
右瞼 一
鼻右側 一
左髷 一


書面之者、学科修業として支那香港へ相越度旨願に因り此證書を与へ候間、途中何れの国に何時而も無故障通行せしめ、危急之節は相当の保護有之候様、其国官吏へ頼入候

慶応二年?寅十二月四日

日本外国事務局

 

ちなみにこの頃の高橋由一の自画像は↓

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丁髷姿の自画像(慶応2.3年)

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://artnews.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/EFBC95E38080E4B881E9ABB7E5A7BFE381AEE887AAE794BBE5838F20(653x800).jpg.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46687341による


上海にいった高橋由一は中国人の写生画家に会ったり、風景をスケッチしたりしていますが、目的であった洋風画についてはあまり学べなかったようです。


ちなみに旅券の中で高橋由一の名前が高橋佁之助とあります。

高橋由一という名前は改名した後の名前です。


明治維新の後、高橋由一は脱藩し、武士の身分から平民の身分へ転身します。

そしてその時に自らの名前も高橋由一に改名しました。

 

武士としてではなく、画家として生きようという気概が込められていそうですね。

 

しかしその道は険しく、生活できるほどのお金がない(涙)

しかもこの頃由一には妻と小さな子供3人を支えていました。
できるだけつてを頼ってお金を借りたり、借金をしていたようです。

 

どうなってしまうんだ由一の人生…!!!

 

由一のみならず、明治維新後の武士の生活は困窮していたものが多くいたそうです。

そんな困りはてた由一に知人が紹介状を書いてくれます。


そして民部省吏生になり、民部省寺院小属という役職をゲットします。

ですが、何と高橋由一はこの職を三ヶ月で退職してしまいました。

その後母校での先生としての職に就きますが、この仕事も翌年には辞めてしまいます。


いまのところ教科書に載りそうな事はしていない!どころか生活すら大丈夫か?高橋由一!という感じです。

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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刀より絵筆を選んだサムライー高橋由一(たかはしゆいち)ー

今日も生きてます。

 

玄関のドアを開けるとむわ~んと暑い日が続いてますね。

先日ウォーホルの作品をブログで取り上げたのでウォーホルの代表作のモチーフにもなっているキャンベルスープ缶購入してみました。何作ろうかなあ…

 

 

 

 

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高橋由一「鮭」

高橋由一 - https://web.archive.org/web/20080222053001/http://www.nichiro.co.jp/salmon/culture/02.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=901005による

 

↑の画像は、日本初の鮭です。

(なんかしょっぱそうな鮭だよね。じゅるり。)


何が日本初か?というと、油絵で描かれた日本初の鮭です。

歴史の教科書にもこの鮭が日本初として掲載されているはずです。

この鮭の絵を描いたのは高橋由一です。

黒田清輝がクローズアップされがちですが、日本で最初に洋画を普及させるように尽力したのは高橋由一です。


実はこの鮭の作品、見たことあるのですが、その時教養不足で(爆)あまり良く見てなかったんですよね…。(オーマイガー)


またいつ鮭と出会ってもいいように、高橋由一の作品と人生を取り上げます。

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不明 - [1] Mie Prefectural Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8904234により引用

 

今回ブログを書くにあたって読んだ本は「高橋由一 ー日本絵画の父」(吉田亮著、中公新書)です。

高橋由一が日本に洋画を普及させようと四苦八苦している様子が記されており、由一に挫折がある度に胸が痛くなりました。

 

 

 

高橋由―は下野国佐野藩士の父である高橋源十郎の元に生まれます。父親は江戸詰めの身分であったため、由一は江戸で生まれ育ちます。

 

日本洋画の父と呼ばれる高橋由一は武士のおうちの子供だったんですねー。

 

 

9歳で藩主の堀田正衝に仕えます。

藩では公務を勤め、家では祖父から厳しく武術を習いました。

 

 

絵は、12.13歳から、狩野派について絵を習います。小さな頃から絵は得意でありました。20歳では広尾稲荷拝殿の天井墨龍図を描いています。

 

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高橋由一「広尾稲荷拝殿天井墨龍図」

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/muse/j/bunkazai/bunkazai.cgi?id=5125, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33562824による

 

 

絵を学びたい気持ちはあったようですが、下級武士として忙しく勤務していた高橋由一にはそのような暇はありませんでした。この頃は武士を廃業してまで絵を生業にする気持ちはなかったようです。

 

 

そして高橋由―は人生を左右する衝撃的出会いをします。
それは洋風の石版画でした。

 

高橋由一の口伝を息子がまとめた「高橋由一履歴」の中では、このときの様子を次のように記しています。


「喜永年間、或る友人より洋製石板を拝観せし、悉皆真に迫りたるが上に一の趣味のあることを発見し」


しかしその後洋画を学べるところを探しても見つからず、むなしい日々を続けることになります。

 

 

 

 

35歳、そんな由一に転機が訪れます。
幕府が洋書調所画学局を設立したのです。


つてをたどって入局を果たした由一でしたが、幕府の公的研究機関である科学局でも、当時油彩画材や、洋紙や鉛筆を用意することはできませんでした。

 

 

油絵用のオイル密陀僧油で代用。(みつだそうゆ:荏胡麻の種子からとる油に鉛の酸化物質である銀密陀(ぎんみつだ)を混ぜたもの)

絵の具を練るナイフ→漆で使用するへらを代用。

パレットナイフ→竹やクジラの骨を加工したもので代用

顔料は日本画と同じものを使い

パレット→刺身皿の古いの

 

 

色々と工夫して代用していました。以前ブログでも取り上げた司馬江漢が描いたとされる油絵も、上のようなもので制作していたようです。

司馬江漢を知るー日本初の銅版画家ー - リアル絵描き日記

 

 

洋書調所画学局では油絵を描く機会はなかなか恵まれなかったようですが、博物学者が博物図鑑を制作するということで、画学局の局員たちは様々な動植物を描きました。

高橋由一も描きました。

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画材は紙に墨ですが、描き方は日本画とは違い、観察によった精密なものでした。

 

 

 

 

 

高橋由一の希望としては油絵を描きたいとずっと思っていたのですが、油絵を学ぶどころか、画材に触れる機会すら巡ってきません。もう30代も半ば…どうなる 高橋由一

そんな由一に運命の出会いが訪れます。

 

 

ということで今日はここまで。

次回に続きます、

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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「ツナ缶の惨劇」-アンディ・ウォーホルの闇-

今日も生きてます。

 

「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」(宮下規久朗著、光文社新書)を読みましたが、今までわからなかったなかった西洋美術史を理解できて楽しいです。

 

本の中ではアンディ・ウォーホルの作品を一番最後に取り上げています。興味深かったので、今日はアンディウォーホルの「ツナ缶の惨劇」という作品について取り上げたいと思います。

 

 

昨日はキャンベルスープ缶について取り上げました。↓

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キャンベル・スープ缶の作品で、大量生産や、大衆文化の賛美描いたウォーホルですが、その闇の部分を表現した作品も翌年発表しています。

 


「ツナ缶の惨劇」1963年

 

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ある事件が元となり制作された作品です。

 

ある事件とは、スーパーのツナ缶に含まれていたボツリヌス菌にあたって主婦二人が死亡したというものです。

 

作品には警察が押収したツナ缶の写真と、新聞に掲載された被害者である主婦二人の写真が組み合わされて使用されています。

 

当時たくさん販売されていたパッケージ食品(今も販売されている)の安全性の神話が崩れたということが読み取ることがでるそうです。飢餓を克服した人類ですが、現代では「食べる」ということが死と隣り合っていることを意識させられる作品です。

 

ウォーホルは交通事故や自殺など、新聞で報道される現代における死を主題にした「死と惨事」のシリーズの作品も制作しています。何度も画像を反復するアンディ・ウォーホルの表現は、人間の「死」すらも、今の情報化社会の中では消費されていることを表現しているかのようです。現代版ヴァニタスです。

 

 

 

 

 

 

 

 

今までブログでは、備忘録的に「食べる西洋美術史ー最後の晩餐を読むー」をまとめてきました。

 

最後の晩餐って何を食べてるんだろうか。 - リアル絵描き日記

いただきますの風景 - リアル絵描き日記

楽しい宴会風景の中世絵画ーどの時代でも楽しい皆での食事ー - リアル絵描き日記

キッチンの風景ー料理する人々を描いた絵画ー - リアル絵描き日記

儚さを描く「ヴァニタス」の深読み - リアル絵描き日記

禁断の食事風景 - リアル絵描き日記

巨匠たちの描くピクニック絵画を楽しむ - リアル絵描き日記

おしゃれなだけじゃない!ポップアートを理解するーアンディ・ウォーホルのキャンベル・スープ缶ー - リアル絵描き日記

 

本は最初のレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐から始まり、アンディ・ウォーホルの最後の晩餐で終わります。

 

この画題に対する考え方が本を読む前と読んだ後では変わります。

 

西洋美術史の中の「食べる」絵画は、他の画題と同じように宗教的な意味合いが強いものから始まり、人類の食料事情に影響されながら変化していきました。

 

絵画の社会的な背景だけではなく、食べ物の絵画的な表現まで触れられていて新しい発見の連続でした。

 

随所随所に作者の食べ物に対する執着があって面白い。「食べる」ってほぼ万人に興味のあることですよね。

 

 

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本に最後に取り上げられているのは↑のアンディ・ウォーホルの作品です。

本を読んでいて特に思ったのは西洋美術の作品はキリスト教と聖書の理解が無いとほぼ解読不可能なんだなーということ。それだけではなく、作品から何を感じ取るかも文化の差で全く違うと思う。というより根本的に感動することができないのではと思った。

 

上のウォーホルの作品も、「最後の晩餐」が赤く染まっているだけではなく、赤という色がキリストの血であるワインの色を想像させるらしい。

パンをみてすぐに聖体をイメージできるような文化なら理解できるが、私は理解はできるが、作品から感じることは、その文化に育った人と同じようには無理だと思います 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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