リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

絵筆を選んだサムライ。高橋由一④

今日も生きてます。

 

私は高校・大学と、美術系学校を卒業しました。美術好きの私にとって、その環境は天国。

 

おそらく一般の大学と比べ個性に開放的な風潮があると思うので、のびのびといきてしまいました~。(いつでもどこでもマイペース!)

 

しかし日本で美術専門の学校や、授業の中に油画が入るまでは相当な道のりがありました。

 


今日は、高橋由一の美術教育を普及させた面を見ていきます。

 

 

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 不明 - [1] Mie Prefectural Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8904234による

〇由一、画塾創設

 

 

明治6年、日本で油絵の第一人者として地位を確立させた由一は画塾を開きます。
理由は、大学南校での美術の授業が、絵を専門としない一般学生に対するものであったことです。

 

由一の画塾「天絵社」からは、日本画の大家となるものもでてきます。

 

今までの日本だと、どこかの流派の絵の師匠へ弟子入りをすると、他の流派で学ぶことは出来ない風潮でしたが、由一はどんな流派の人でも受け入れました。

 

油絵以外は認めないというような狭い考えは持っていませんでした。

 

また、女性の教養には美術が必要と考え、女性の弟子も積極的にとりました。

 

 

 

 

〇由一、国産画材をつくる

 

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高橋由一不忍池図」 1880年愛知県美術館

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://artnews.blog.so-net.ne.jp/2012-10-06-1, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33565821による

 

由一48歳前後の頃、画塾を創設したものの、深刻な問題が一つありました。それは画材不足です。

 

しかもその不足している油絵の画材がびっくりするほど高かったのです。

 

ちなみに今油絵具一式(絵の具・パレット・筆・オイル)をそろえようと思えば一万円あれば全てそろえることができます。

 

高橋由一の生きていた時代は5号チューブの絵の具が一本、二分金一枚でした。

(5号チューブは15ml入りの絵の具で、手のひらサイズの大きさです。)

 

二分金一枚というと50銭。当時木村屋のアンパンが一つ一銭。ここから一銭200円程度と考えると、油絵具一色のチューブが一万円程度したという事になります。

 

これを絵を描ける分だけそろえようとすると莫大なお金がかかります。

 

西洋画材を頼りにしているばかりでは埒が明かないと考えた高橋由一は国産の画材を生産することを考えます。

 

ゴムと桐油の製造経験のある人間にキャンバスの製造を依頼します。そして出来上がったものを学生の常用としました。

 

そして由一の元に油絵の製造方法を聞きに来た絵具染料問屋には、あらゆる知識と舶来品を渡しました。また、製造法に詳しい科学者にも手伝ってくれるよう手紙を書いています。

 

 

明治9年の「仮名読新聞」には、「西洋模様 白人形 油絵具ならび水彩絵の具、艶油、筆刷類」を売り出したという広告が掲載されました。とうとう国産の画材が開発されたのです。アツい展開です。

 

そしてその後由一の画塾生の中からも、画材をつくりたいというものがでてき、実際に売り出し始めました。

 

 

 

言い方悪いですが、油絵の第一人者としてその知識を日本で独占しようと思えばできたと思うんです。門外不出の秘伝のタレの配合的な感じで。

そうではなく、日本全国、そして庶民にまで洋画が普及してほしいと願っていたからこそ知識をおしみなく共有していたところがすごいところです。

 

自分さえよければいいという利己的な考えではなく、由一が抱いていた夢はスケールの大きさが違いました。

(なんやかんやで絵の制作方法を本には絶対に書かなかった司馬江漢とは全く違う)

 

 

 

◯由一、展覧会を開催する

由一は画塾「天絵社」の展覧会である月例展

を毎月開くようになります。これには由一も三点をめどに出品を続けていました。

 

広くいろんな人に見てほしいため、拝観料はとらなかったそうです。新聞で宣伝し始めると、来場する人が100~150人になりました。

 

また、天絵社の門人が絵画の競売を目的とした会社「開誘社」を開きます。明治9年の初回には数百枚売りました。この活動も由一は支援します。

 

由一の画塾から画家だけではなく、日本の絵画・洋画を普及させようとする人間が出てきていますね。

生徒さんは、絵の技術だけではなく、洋画を普及させたい熱い思いを由一から学んでいたのかなあ。

 

 

 

 

ところで義務教育では美術の単位がだんだん減っているようです。
小中学校の図画工作や美術の授業を思い出すと、確かにあってもなくてもいいような内容でした。


色々な画材で表現を学ばせることよりも、鉛筆デッサンと日本・世界の美術史のテストをした方が人生の役にたつのにと思います。個人的には教科書が変わらないなら美術の単位は必要なしですね。

 

今の日本の教育の流れを見たら高橋由一が泣きますよ…

 

 

次回は高橋由一の代表作「鮭」について触れたいと思います。

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com