リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生②

今日も生きてます。

 

とそまえんが今日で閉園だそうですね。

 

実は以前世界最古のカルーセルが見たくて取材もかねて行ったことがあります。(独りでですが…)

 

全体的にレトロな雰囲気の遊園地でなかなか楽しかったです。ミラーハウスも入ったのですが、迷い過ぎてなかなか出ることができませんでした。目の前の鏡に自分の後ろ姿が映っていて混乱しました。

 

小さな頃からとしまえんで遊んでいた人々にとっては悲しいですよね。都会の子供はこんなに遊びの設備が身近に整っていて遊ぶのに不自由が無いんだな。

(秋田生まれの私は子供の頃は神社の裏でドングリ拾って遊んでいましたし、ビー玉が友達だった記憶しかない。笑)

 

個人的にはとしまえんの後にできるハリーポッターの施設が楽しみです。

 

 

 

 

さて、前回から高橋由一について取り上げています。

akashiaya.hatenadiary.jp

 

参考にしている本は高橋由一ー日本洋画の父」(古田亮著、中公新書)です。高橋由一の生涯だけではなく、周辺の関わり深い人物との背後関係もそれとなく説明してあるので、仕事の流れなど理解しやすいです。

 

前回のブログでは下級武士として働いていた高橋由一が、幕府が設立した「洋書調所画学局」に入局し、洋画を学び始めたが、油絵の具に触れる機会すら巡ってこない…ということを書きました。

 

今日は運命の出会いとなるワーグマンについてとりあげます。

 

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ワーグマン「第一次東禅寺事件。乗馬用の鞭で反撃する一等書記官オリファント1861年

不明 - The Illustrated London News, 1861., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2183464による

 

洋画を学びたい高橋由一は横浜で記者兼画家のチャールズ・ワーグマンに出会います。ワーグマンの作品に感銘を受けた由一は、ワーグマンに油絵を習うことになります。

 

ワーグマンはロンドン生まれのイギリス人です。イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社で記者兼画家として働いており、日本では取材のために滞在していました。
日本人と結婚し、日本には30年滞在します。

 

イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社とは?

イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社とは、世界初のイラスト入りの週刊誌を発行した会社です。色々な場所に特派員として記者兼画家を派遣していたようです。

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The Illustrated London News staff - Here, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1012725による

Illustrated London News - http://www.iranian.com/Pictory/2005/June/q3.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=989089による

 



ワーグマンが来日した頃、日本では攘夷運動が盛り上がっていました。幕末の攘夷テロにたまたま遭遇したワーグマンは、その様子を絵として残しています。

 


日本の日常をネタとした「ジャパン・パンチ」という漫画雑誌も創刊しています。

 

由一はワーグマンの元で念願の油絵を勉強していきます。

 

 

 

 

 


1869年、高橋由一は上海使節団に参加するため船に乗ります。この頃さまざまな目的で、日本から上海を視察することがあったようです。


あんまり関係ないのですが、写真が発達していなかった頃、パスポートはどうしていたのでしょうか?

当時、パスポートには、顔写真の代わりに言葉で人間の特徴を記載していたそうです。

高橋由一旅券
第三拾三号
限六拾日
堀田摂津守家来 高橋佁之助

年齢 三拾九歳
身丈五尺三寸
眼 常体
鼻常体
口大キ方
面長キ方
黒痣
右眼尾 一
右瞼 一
鼻右側 一
左髷 一


書面之者、学科修業として支那香港へ相越度旨願に因り此證書を与へ候間、途中何れの国に何時而も無故障通行せしめ、危急之節は相当の保護有之候様、其国官吏へ頼入候

慶応二年?寅十二月四日

日本外国事務局

 

ちなみにこの頃の高橋由一の自画像は↓

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丁髷姿の自画像(慶応2.3年)

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://artnews.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/EFBC95E38080E4B881E9ABB7E5A7BFE381AEE887AAE794BBE5838F20(653x800).jpg.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46687341による


上海にいった高橋由一は中国人の写生画家に会ったり、風景をスケッチしたりしていますが、目的であった洋風画についてはあまり学べなかったようです。


ちなみに旅券の中で高橋由一の名前が高橋佁之助とあります。

高橋由一という名前は改名した後の名前です。


明治維新の後、高橋由一は脱藩し、武士の身分から平民の身分へ転身します。

そしてその時に自らの名前も高橋由一に改名しました。

 

武士としてではなく、画家として生きようという気概が込められていそうですね。

 

しかしその道は険しく、生活できるほどのお金がない(涙)

しかもこの頃由一には妻と小さな子供3人を支えていました。
できるだけつてを頼ってお金を借りたり、借金をしていたようです。

 

どうなってしまうんだ由一の人生…!!!

 

由一のみならず、明治維新後の武士の生活は困窮していたものが多くいたそうです。

そんな困りはてた由一に知人が紹介状を書いてくれます。


そして民部省吏生になり、民部省寺院小属という役職をゲットします。

ですが、何と高橋由一はこの職を三ヶ月で退職してしまいました。

その後母校での先生としての職に就きますが、この仕事も翌年には辞めてしまいます。


いまのところ教科書に載りそうな事はしていない!どころか生活すら大丈夫か?高橋由一!という感じです。

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

akashiaya.jimdofree.com