リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

高橋由一VSフェノロサ?! 絵筆を選んだサムライ高橋由一⑥

今日も生きてます。

 

高橋由一シリーズが続いています。

刀より絵筆を選んだサムライー高橋由一(たかはしゆいち)ー - リアル絵描き日記

絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生② - リアル絵描き日記

絵筆を選んだサムライ高橋由一の人生③ - リアル絵描き日記

絵筆を選んだサムライ。高橋由一④ - リアル絵描き日記

日本一の「鮭」を知る。絵筆を選んだサムライ高橋由一⑤ - リアル絵描き日記

 

 

今日は、洋画を日本に普及させたいと願う高橋由一に立ちはだかった巨大な壁についてお話ししたいと思います。

 

それは…

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フェノロサです。

 

フェノロサお雇い外国人として有名ですね。

日本の伝統的な美術のすばらしさを訴えた外国人です。

 

日本文化の価値を見いだしてくれたという点でありがたいお方です。教科書でも紹介されるときはその面を強調されると思います。フェノロサは日本中に日本美術尊い旋風を巻き起こしました。

 

しかし…それは洋画を普及させたい高橋由一にとっては、逆風以外の何物でもありませんでした。

 

 

 

〇由一とフェノロサ

 

まずフェノロサ明治11年、お雇い外国人として来日します。東京大学で哲学を教えていました。もともと美術が好きで、日本に来てからは日本美術に魅入られました。

 

明治12年高橋由一は画塾を拡張し、名前も「天絵社」から「天絵学舎」に改名します。高橋由一はこの画塾をゆくゆくは公的な機関にしたいという思いがありました。

 

由一は各府県に対して、画学科を教える先生を雇うときには、天絵学舎の卒業生を採用してほしいという手紙も出しています。生徒が卒業後の就職先にまで眼を配っている高橋由一はわかってます。

 

そして「天絵学舎」には、あのお雇い外国人フェノロサもちょくちょく来ていました。

 

美術愛好家であったフェノロサは、最初高橋由一とも交流を深め、天絵学舎で講演をする約束をするまでになりました。

 

しかし、フェノロサが日本美術の良さにとりつかれた後、フェノロサは洋画排斥論者になってしまいます。結局講演の約束は果たされないままでした。

 

そしてこのフェノロサの行動力がすごい。

 

 

フェノロサ明治15年に伝統美術保護を訴える半官半民の美術団体である籠池会にて洋画を排斥し、日本画の優位を論じます。

 

その内容が「美術真説」として翻訳出版されると、フェノロサは日本の美術専門家、批評家、パトロンとして確固たる地位を築きます。

 

フェノロサの息がかかった日本画家、狩野芳崖、橋本雅邦を中心に日本画革新の道をあゆみあはじめます。その活動に岡倉天心も加わり、東京美術大学日本画科というアカデミーを創立します。

 

日本画盛り上がっていこうぜ!という運動が盛り上がっていました。

 

 そして日本初の東京美術学校には洋画科がありませんでした

 

明治20年の第一回内国絵画共進会では、油絵の出品は拒否されました。

 

洋画がとにかく冷遇されていたことがわかりますね。

 

その後日本の洋画ブームは、黒田清輝が登場するまで待たなければいけません。

 

 

 

 

高橋由一の夢「螺旋展画閣構想」

 

由一はただ絵を描いていただけではなく、洋画拡張計画の夢を抱いていたので、いろいろなところに洋画関係の企画書を提出しています。

 

 

その中の一つには今の美術館にあたる構想もありました。

 

そもそも日本には美術館がありませんでした。展示会をするときは(大きな料亭などの)場所を借りて展示していたようです。今の貸しギャラリーのようなイメージでしょうか。

 

由一が考えた油絵常設展示場の図↓

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趣のある建物でなかなかいいですね。

天井は展望台になるようです。

 

しかしこの企画に賛同してくれるものは現れず…悲しいですね。

たくさんの企画書やお願い(嘆願書?)を権力者や要人に送ったのですが、ほとんどは叶わずだったようです。

 

 

 

〇由一の金策

 

高橋由一の作品は神奈川県にある金刀比羅宮に27点所蔵されています。

 

理由は由一の働きかけ(営業ともいう)があったためです。

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高橋由一二見ヶ浦

Takahashi Yuichi (1828-1894) - http://www.konpira.or.jp/museum/yuichi/takahashi-yuichi-house_2015.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46681462により引用

 

↑は由一が最初金刀比羅宮に送りつけた作品です。これが気に入られ、翌年に金刀比羅宮で開催された展覧会「琴平山博覧会」にて由一が37点という大量出品することにつながります。

 

そのうち35点を奉納し、由一は資金援助として200円をゲットします。しかし由一の計画では500円以上の資金をここで稼ぎ、画塾のリニューアルにあてる予定でした…。

 

新校舎を建築したかった由一は金策に走ります。お金を借用したいという手紙や、資金援助を貴族に頼む手紙が残されています。

 

もちろん金刀比羅宮にも資金援助のため助けてくれないか?という手紙を出していますが、承諾できないというそっけない返事が返ってきてしまいます。

 

ちなみに金刀比羅宮のホームページには由一の作品と200円の資金援助をしたことが記されていますが、その後追加の資金援助を断ったことは記されていません。(笑)

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高橋由一「豆腐」

Takahashi Yuichi; died in 1894 - Scanned from a book, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25020746により引用

 

 

 

その後いろいろお金を得ようと頑張りますが、うまくいかず、結局「天絵学舎」は明治17年に廃校になってしまいます。

 

 

悲しいですね。

 

 

ちなみに今高橋由一の作品は数千万らしいので、あのころ由一に何匹も鮭を描かせておけばものすごい投資になっていたのに…

 

 

 

次回、最終回。

このままでは報われないよ高橋由一

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com