リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

おしゃれなだけじゃない!ポップアートを理解するーアンディ・ウォーホルのキャンベル・スープ缶ー

今日も生きてます。

 

高校生の頃に購入した本にアンディ・ウォーホルの「ぼくの哲学」というものがあります。内容は一通り読んだもののほぼ全部忘れました。(爆)

 

アンディウォーホルは、ポップアートの巨匠。

↓の作品は有名すぎて誰もが一度はどこかで見たことあるはず。

 

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アンディ・ウォーホル「ワンハンドレッド・カンズ」油彩、カンバス、1962年。 

 

欧州のTHE絵画のようなこってり油絵ではなく、明るい色彩で描かれた身近なテーマ。私の中のアメリカのイメージはウォーホルの作品です。

 

正直何がすごいかよくわからんけど…おしゃれ!

 

昔はその程度の認識でした。

何冊か美術史の本を読んでもよくわからなったし、実物見ても感動は無かった。(有名すぎる西洋絵画作品あるある。おしゃんとは思った。)

 

 

しかし宮下規久朗さんの著作『食べる西洋美術史ー「最後の晩餐」から読むー』を読んで少し理解しました。

 

ということで今日はウォーホルの作品「キャンベル・スープ缶」についてみていきます。

 

 

 この作品を制作したのはアンディ・ウォーホル(1928年ー1987年)

ポップ・アートの巨匠として有名です。

 

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Unknown (Mondadori Publishers) - http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/portrait-of-the-american-artist-andy-warhol-at-his-news-photo/141553292, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=43361035による 

 

 

代表作の一つとして知られるのは「キャンベル・スープの缶」(1962年)です。

この作品は連作で32点あります。

 

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「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」(宮下規久朗著、光文社新書)より引用

 

モチーフとなっている「キャンベル・スープ缶」は、日本でも販売されているスープの缶詰です。連作の32という数はその時に販売されていた味(種類)の数です。

 

 

 

食べ方は、小鍋に缶の中身を空けて、空いた缶にそのまま水(または牛乳)を入れてそれを鍋に入れて煮ると、スープが簡単にできるというものです。アンディ・ウォーホルは日常的にこの缶詰をよく食べていたそうです。

 

 

 

 

 〇西洋美術史の中でのキャンベルスープ

 

この作品が描かれるまで、「絵画作品」の認識が変わるような作品が発表されていました。

 

 

 

マルセル・デュシャンの作品「泉」

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マルセル・デュシャン「泉」

マルセル・デュシャン - src Original picture by Stieglitz, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8648377による

 

既製品の男性用便器を反対にし、サインをした作品。

 

美術館に展示されたらそれは美術作品なのか?美しいとは何なのか?美術とは何なのか?作品とは作者が作ったものでないとダメなのか?…などなど、美術作品に対して哲学的な問いを多くした作品。

君のおかげで美術史がややこしくなったんだぜ。と高校生の頃思いました。

 

ジャスパー・ジョーンズの作品

バランタイン・エール」

 

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 「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」(宮下規久朗著、光文社新書)より引用

 

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当時アメリカで身近な缶ビールをモチーフに、ブロンズ彫刻を作りました。また、星条旗や標的といった元々平面のものをキャンバスに絵画として描きます。

 

絵画・彫刻とは何か?絵画は旗と同じ平面であるし、彫刻も缶と同じような物体ではないか?現代社会のイメージも作品になるのではないか?…などなど、様々な問を投げ掛ける作品を多く制作しました。

 

 

 

それまでの絵画は、その中に描かれた虚構の現実を見せるものでした。しかし、絵画作品の認識が変わったことにより、絵画は描かれたイメージを見せるものでは無く、一つの物体として捉えられるようになります。

(ここら辺は美術畑以外には興味があまりないところかもしれません。)

 

絵画作品の存在や、美しさの意味を問い直す流れがあったということですね。

 

 

そのような流れのなかで、ウォーホルのキャンベルスープ缶はどのように受け止められたかというと…

 

 

〇絵画作品だってスーパーで並んでるものと同じ「商品」に過ぎない?

 


アンディ・ウォーホルのキャンベル・スープ缶の展示方法は、まるでモチーフにした缶詰の小品ように並べて展示されました。

 

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「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」(宮下規久朗著、光文社新書)より引用

 

さらに今までは貴族が工房や作家に注文して絵画を制作していたものが、大きな市場で取引されるようになると、絵画は何か特別なものでは無く、スーパーやデパートで並んでいるものと同様の「商品」になったということも作品から読み取れます。

 

 

 

 

〇時代の表現としてのモチーフ「キャンベル・スープ缶」

 

アメリカは世界最大の缶詰生産国でした。

 

大量生産された缶詰は、民主主義の平等な社会の中で、人種も貴賤も関係なく同じものを食べているという事を示すモチーフでした。

 

そういえば「ぼくの哲学」の中で、「アメリカではセレブも貧乏人も同じコーラを飲んでるんだぜ!イエーイ!」というような一文があったような気がします。アンディ・ウォーホルはこの缶詰に対してもコーラと同じような思いを持っていたのかもしれません。

 

 

 

 

静物画としての「キャンベル・スープ缶」

 

静物画というのは、人類の食べ物の歴史とリンクしています。

 

いつ飢饉が起こり、飢餓になるかわからない時代、人々は静物画に描かれたみずみずしい果物や美味しそう食べ物に、不安を乗り越える勇気をもらいました。

 

人類が食材を生産・保管・輸送するシステムを開発し、飢餓を克服すると、スーパーでいつでも食料を手に入れることができるようになります。

 

缶詰めにされ備蓄に適した腐りにくい食べ物は、先進国の飽食の時代を示すモチーフです。ウォーホルは、直接スープを描くことなく、缶を描くことで食べ物を描きました。

 

西洋の静物画はキリスト教的な意味合いの強いものや、貴族の食べ物がモチーフになる傾向が古来よりあったので、ウォーホルの「キャンベル・スープ缶」の作品は、静物画史の中でも目新しいモチーフでした。

 

 

 

 

 

 

 

現代は「消費」という言葉に否定的な感覚がありますが、一昔前は違ったのかもしれませんね。ポップアートは、大衆消費社会、商品やイメージを題材にする人類の進歩を称賛するアートであったようです。

 

 

 

明るいポップアートを取り上げましたが、次回は闇の側面を取り上げた作品の回にします。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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巨匠たちの描くピクニック絵画を楽しむ

今日も生きてます。

 

暑いですね。

危険な暑さが連日続いてます。

 

ということで、エアコンが効いた部屋で「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」(宮下規久朗著、光文社新書)を読んでいます。

 

「食べる」に着目して新鮮な視点から絵画を読み解いている本ですが、中には屋外での食事「ピクニック」風景を描いた作品も取り上げられています。

 

外出は危険なので、今日は巨匠の描いたピクニック風景の作品を見てお出かけ気分を味わいたいと思います。

 

 

 

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アントワーヌ・ヴァトー『シテール島への巡礼』

18世紀のフランスでは、上層市民が自然の中で集っている場所を描いた絵画「雅宴画」(フェート・ギャラント)が流行しました。

 

雅宴画の創始者ヴァトーという作家です。ヴァトーは屋外で戯れる貴族を描いていますが、飲食の風景は描いていません。

 

 

 

後継者のニコラ・ランクレは田園での宴会風景を描いています。

 

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ニコラ・ランクレ「ハムのある昼食パーティ」ボストン美術館、1735年

はめをはずした貴族の様子なんでしょうか?真ん中の男性はテーブルに足をかけて酒を注いでます。真ん中の大きなハムがメインディッシュのようです。

 

手前の地面では犬が残飯を漁っています。食器も割れてますし、全体的にとり乱れています。

 

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カルル・ヴァン・ロー「狩猟の合間の昼食」パリ、ルーヴル美術館

上の作品は狩の合間に食事をとる男女です。

テーブルの上には大きな肉のパイ、ローストしたたくさんの肉、ワインなど…。

なんと豪華なピクニック!(参加希望!)

 

画面左には別荘のような建物から使用人が出入りしており、料理はそこで調理されているのがわかります。

 

こうした雅宴画は、当時の貴族のありのままの姿というより、理想化されたイメージでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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マネ「草上の昼食」

↑は超有名な作品ですね。マネの「草上の昼食」です。

マネは近代絵画の父と呼ばれる作家の一人です。

現代の人間の目から見ても、「?」と思う状況設定です。ピクニックにきたと思われる男女ですが、男性はきちんと正装しているのに対して女性は水浴後という設定で裸です。

 

ランチをチェックすると、左手前にクシャっとされた敷物と一緒にパンと果物があります。食べたいとは思わない。

 

この作品はサロンには落選し、スキャンダルになりました。

制作者のマネの意図は、当時流行っていたピクニックを、昔の神話風絵画になぞらえて表現しようというものでした。

 

↓はマネが意識したと思われるジョルジョーネの「田園奏楽」

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ジョルジョーネ「田園奏楽」

女性は何かの寓意として描かれているのか?男性二人は全く女性を見ていないため、見えていないかのようにも思える。

 

 

 

 

 

 

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モネ「草上の昼食」

↑はモネの「草上の昼食」の習作です。

マネとモネ。どちらも印象派という区分に入っているし、ややこしいですよね。

 

モネの「草上の昼食」は森の木漏れ日の中にピクニックを楽しむ男女か描かれています。

 

何を食べているのかな~?とランチをチェックしてみると、りんごや西洋梨、葡萄、鶏肉、フランスパンやワイン瓶が並んでいます。この人数に対してちょいとワインが少ないようにも感じます。

 

モネは美味しいものを描きたいというよりも、別のテーマ(木漏れ日の光など)があるようです。

 

 

 

 

 

 

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ピエール=オーギュスト・ルノワール 『舟遊びをする人々の昼食』1880-81年

↑はルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』です。この作品も有名ですね。

 

賑やかな雰囲気が伝わってきます。食卓の上には果物などのデザートがあり、ワインとワイングラスも並んでいます。しかし食後なのか、テーブルを囲んでいる割には飲食をしている人は少ないです。

 

ルノワールは食事の内容よりも陽光に照らされた人々の華やかな雰囲気に関心があったのかと思われます。

 

 

 

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ジーン・フレイザーの「天上の身体、冒涜/聖体拝領」

マネの作品を引用した「天上の身体、冒涜/聖体拝領」という写真の作品があるそうです。

 

制作者はアメリカの写真家ジーン・フレイザーで、マネの「草上の昼食」と同じような設定で、レズビアンである作者が裸でポーズしています。

草上の昼食の中の男性たちは修道女の二人になっています。

 

カトリックは同性愛を厳しく攻撃していた歴史があるようです。日本に住んでいるとわかりませんが、その差別はそれを理由に暴行事件があったほどひどいものです。

(その割にはカトリックの司祭が少年に性行為を強要するようなセクハラの事件もありますよね。ひどいですね。)

 

この作品は、マネの草上の昼食が女性蔑視であることや、異性愛しか認めないモラルへの反発のメッセージが含まれています。

 

 

フェミニズムジェンダーレスの観点で美術史を見るとそれもまた面白いです。

 

 

 

 

ピクニックの作品でも最初の頃は、食べているものにも作家の熱が入っていましたが、時代が進むにつれて、食料はただテーブルの上に載っているだけのような役割になります。

 

食料の供給率が低く、飢餓と隣り合わせだった時代は、美味しそうな食べ物や食料に関心のある絵画が制作されましたが、飢餓の心配が失くなり、食材のベストな姿を残せる写真が登場すると、絵画のなかで食料そのものへの関心は薄くなり、食事をとりまくものの中に作家がそれぞれテーマを見つけて作品を制作するようになったのかな?と理解しました。

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

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禁断の食事風景

今日も生きてます。

 

漫画の「進撃の巨人」ってそろそろ終わりが見えてきたそうですね。アニメ化も実写映画化もされ、大人気という感じです。

 

私がUSJに行ったときに、巨人のオブジェ(?)に遭遇したときは本当に驚きでした。完成度の高いコスプレした人も目撃したし(ラッキー!)、アツいですね。

 

私も最初の数冊読んで面白いな~と思っていました。続きをドキドキしながら待つのが苦手なので、物語が完結したら一気に読みたいぜ。

 

巨人に人が食べられてしまうは非常にショッキングで、それゆえに作品に惹き付けられますよね。

 

今読んでいる「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」(宮下規久朗著光文社新書)の中には、禁断の人食(!?)を画題とした絵画も取り上げられていました。

 

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ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」1822-23年

フランシスコ・デ・ゴヤ - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4221233による

 

↑はゴヤの「我が子を食うサトゥルヌス」(マドリードプラド美術館、1822-23年)です。 衝撃的な作品ですね。異常性を強く感じます。

 

描かれているのは、ローマ神話の農耕神「サトゥルヌス」です。将来自分の子に殺されるという予言を恐れ、5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承をモチーフにしています。

 

 目がとにかく怖い…。1870年代に撮影されたX線写真から、制作当時はサトゥルヌスの性器が勃起した状態で描かれていたそうです。

 

この画題はルーベンスも描いています。

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ルーベンス『我が子を食らうサトゥルヌス』

ピーテル・パウルルーベンス - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1723595による

 

こちらはリアルで怖いですね。サトゥルヌスの口元や、子供の涙にハイライトが当てられ、ルーベンスはドラマティックな演出がうまい気がする。

 

 

 

ゴヤは他にも食人の作品を残しています。

↓はゴヤの「二人のイエズス会士の殉教」(部分)

 

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実際の事件ではなく、ゴヤのイメージです。二人のイエズス会士が先住民に拷問の末殺害されて食べられるというもの。ゴヤは人間の負の深みを覗き込んだ作品残してますね。

 

 

 

 

 

 

 

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ジェリコーメデューズ号の筏」パリ、ルーブル美術館、1818-19年。

↑はジェリコーの「メデューズ号の筏」です。西洋美術史の本によく載っている気がします。

 

この作品は何を描いたものかというと、1816年にフランスで起きた実際の事件をモチーフにしています。

 

題名にもあるメデューズ号という船が、フランスの新植民地セネガルに向かう途中にモロッコ沖で座礁してしまいます。

 

破損したメデューズ号の用材で臨時の筏を造り、149名が乗り移ります。最初は救命ボートが筏を牽引していたが、ボートの乗組員が筏をつないでいたロープを切断してしまい、牽引船と保存食を失った筏はあてもなく荒海をさまようこととなります。

 

筏は12日間漂流しました。他の船によって発見されたときに生存者は149名から15名になっていました。12日間の漂流期間中、筏の上では殺人、食人を含む様々な非人間的行為が行われたことが後に明るみになります。

 

 

ジェリコーは実際に筏に乗っていた生存者の話を聞き、病院へ行って瀕死の病人の肌をスケッチしたり、刑場で処刑された犯罪者の首をスケッチするなどしてリアリティを追求しました。そして事件の三年後にこの作品を発表します。

 

胸が痛くなる事件ですが、作品の中ではあまり人間同士の残虐さは描かれていません。構図が良く練られているせいか、舞台の一場面を見ているような気分。ドラマチックです。

 

 

 

 

 

 

 

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↑はダリ「秋の人肉食」ロンドン、テートギャラリー、1936年

 

ダリ特有のぐにゃーんとした表現のためわかりにくいですが、二人の男がスプーン、ナイフ、フォークを握って互いの柔らかい身体を食べています。

 

ダリによると、スペイン市民戦争の「悲しい情念」が表現されているそうです。スペインの内戦の作品でいうとピカソゲルニカが有名ですが、ダリも作品にしていたんですね。二人とも癖のある人間だと思いますが、人間同士が争うことはショックだったんだろうな。

 

 

「食べる西洋美術史ー最後の晩餐から読むー」の著者である宮下規久朗さんによると、直接的にカニバリズムを描いた作品はダリやルーベンスの作品以外にはあまりないようです。

 

 

 

今日はここまで。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

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儚さを描く「ヴァニタス」の深読み

今日も生きてます。

 

さて、「食べる西洋美術史」(宮下規久郎さん著、光文新書)読んでます。

思ったよりも「食」の幅が広くて面白いです。

 


中に「ヴァニタス」について触れられています。

 

ヴァニタスについては有名な画題なので美術に関心がある方はご存じと思います。

ヴァニタスは、ラテン語で「空虚」「むなしさ」を意味する言葉で、人生のむなしさや無情観、死の不可避性を警告する絵の画題です。16-17世紀にかけてヨーロッパ北部でたくさん制作され、死を想起させるようなモチーフ「頭蓋骨、時計、消えたランプ…」などなどをモチーフにした静物画です。

 

 

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ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム「静物プラド美術館

ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム - Web Gallery of Art:   静止画  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15394926による

 

上の作品はひっくり返った杯や時計がモチーフとして描かれています。絵のメッセージの中には「ヴァニタス」も含まれていると思われます。

 

 

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ピーテル・クラース『ヴァニタス』、1630年

ピーテル・クラース, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4892401による

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エヴェルト・コリエ『ヴァニタス』、1669年。

Evert Collier - Berger Collection: id #118 (Denver, Colorado), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6436155による

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コルネリス・ド・ヘーム『ヴァニタス - 楽器のある静物画』、1661年頃

コルネリス・ド・ヘーム - Web Gallery of Art:   静止画  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6946533による

 

聖書には贅沢を戒めるイエスのたとえ話「金持ちとラザロ」というものがあります。

 

「金持ちとラザロ」のあらすじ

ぜいたく暮らしをしている金持と、その金持ちの残飯で飢えをしのいでいた貧乏人のラザロがいました。そして金持ちもラザロも亡くなってしまいます。

貧しい人は死後アブラハムの宴席に迎えられましたが、金持は陰府(キリストの地獄的なところかな?)炎の中で悶え苦しみました。

 

金持ちは周囲の貧者に施しをするべき(慈善行為)という話ですね。私はキリスト教の信者でも金持ちでも無いですが、脅迫のように感じます。でも慈善は良いことですね。

 

 

↓はオアシス・ベールトが描いた「金持とラザロ」です。

 

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前には豪華な食べ物がところ狭しと並んでいて、奥には宴席の前に裸で座り込むラザロが描き込まれています。

 

贅沢に固執すると死後に報いを受けるということを示しています。

 

しかし絵としては正直手前の贅沢な食べ物を鑑賞するのが楽しいですよね。

 

 

 

 

 

ヴァニタスの主題は旧約聖書を由来としているそうで、「コヘレト書」の中には、一切の労苦が空しいゆえに、限られた生における快楽を賛美する記述があるそうです。

 

「太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の快楽はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の苦労に添えられたものなのだ」

 

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。」

 

ヴァニタスにはもともと、この世の儚さだけではなく、人生が有限だからこそ貴重だとたたえる意味合いでもあったのでは?と著者である宮下規久朗さんは指摘しています。

 

ヴァニタスの画題の説明では虚しさばかりが全面に押し出されているように感じています。個人的には、そんな儚い美しさを素直に称えていこうよーと思います。

 

美しい静物を見るたびに、骸骨があるから・花が枯れてるから・時計があるから…これは戒めの絵なんだと、思うのが個人的にはやだなあ。

 

美しい世界の中でこの美しい静物画をみて、今日のこの出会いを神に感謝!ではダメですかね。

 

 

教訓や戒めのある絵に疲れを感じるときがあるので、宮下規久朗さんのヴァニタスの捉え方が好きです。

 

この本との出会いに感謝。

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

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キッチンの風景ー料理する人々を描いた絵画ー

 

今日も生きてます。

 

炊飯器で桃ケーキを作ってみました。ズボラな私でもホットケーキミックスでとても簡単になんとなくそれっぽいものが出来てうれしいです。(味はそこそこ!)

 

高品質なスイーツも安価で手に入る世の中ですが、自分で作るのもたまには楽しいです。

 

さて、「食べる西洋美術史」(宮下規久郎さん著、光文新書)読んでます。面白いです。

前回前々回辺りから気になる内容をブログに(備忘録的に)取り上げています。

 

最後の晩餐って何を食べてるんだろうか。 - リアル絵描き日記

②いただきますの風景 - リアル絵描き日記

③楽しい宴会風景の中世絵画ーどの時代でも楽しい皆での食事ー - リアル絵描き日記


本中には食事風景を描いた作品の歴史だけではなく、調理場で支度をする人々を描いた作品の解説もありました。

 

料理人の調理してるところとか、映像でも見てるの楽しいですよね。

 

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ブーケラール「マルタとマリアの家のキリスト」ブリュッセル王立美術館、1565年。


上の作品はキリスト教の聖書のエピソードをもとに描かれた作品です。

 

あらすじ
マルタとマリアの姉妹の家でキリストを迎えたときに、姉のマルタは主をいろいろともてなすために忙しく働いていましたが、妹のマリアはキリストの話に聞き入っていました。
マルタがマリアの態度に苛立ち、キリストにマリアを注意して手伝うように言ってくれと頼みます。
そうするとキリストは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただひとつだけである。マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない。」
といいました。


手前で調理をしている女性が姉のマルタ、奥に小さくキリストと妹のマリアが描かれています。

 

姉のマルタは鳥の羽をむしっています。そして少し奥では長い鉄の串に肉の塊(?)を刺しています。

グラスやパンも用意され、これは大宴会の予感…!!(参加希望!)

 

 

聖書のエピソードによると、姉よりも妹やキリストの様子を大きく描いた方が意味が通じそうなものですが、この画題は建前で、キッチンの様子を描きたかったのかな?と思うほど手前の描き込みに見ごたえかあります。

 

研究者によると、手前に描かれた食べ物などの物質は、マリアの精神的な価値と対比され、現世の儚い価値を表現しているという捉え方もあるそうです。(深読みですねー)

 

 

 

 

 

 

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ベラスケス「マルタとマリアの家のキリスト」ロンドン、ナショナル・ギャラリー

 

上は同じ画題をベラスケスが描いたものです。手前に描かれている姉・マルタの不服そうな顔が面白い。


マルタはにんにくをすりつぶしていて、台の上には魚と卵が用意されています。今日の晩御飯は何かなー?

 

魚はキリスト、卵はキリストの誕生と復活を象徴しているという見方もできます。

 

 

物語上ではキリストが何もしてないマリアを擁護して不条理にもとれますが、神学的には様々な解釈をされ、家事をするマルタもどちらも大事ととらえられたそうです。(深読みですねー)

 

 

 

 

 

 

 

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アールツェン「パンケーキ作り」ロッテルダム、ボイマンス=ファン・ビューニンゲン美術館、1560年頃。

 

上の作品は農民の調理風景が描かれています。奥では丸いフライパンでクレープのようなパンケーキを焼いている人がいます。

 

手前左側にはチーズやパン、ワッフルが乗っています。

 

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当時の農民ではこのようなミルクと卵、小麦粉のパンケーキはごちそうであったようです。

(現代の日本でもごちそうです!)

 

個人的にこの作品で気になる点ですが、皆パンケーキに超喜んでいるというよりは、リラックスしきった表情していませんか?心、ここにあらずという顔に見えるのは私だけでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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ブリューゲル「謝肉祭と四旬節の闘い」

これは、何を描いている様子なんでしょうか?初見ではパッと見わからないですよね。

 

絵の断片から食べ物に関係していることは何となく感じ取れます。

 

題名に戦いとあるので、とりあえず何かと何かが対立しているのです。その対立してる謝肉祭と四旬節について確認していきます。

 

⚫謝肉祭

肉をふんだんに食べ、飲み、踊って祝う三日間の祭典

四旬節

復活祭までキリストの受難をしのんで断食し、日曜日を除く36日はワインと肉を口にしてはいけない

 

どちらも初春の行事です。

中世から近世ては、粗食とごちそうは交互に食べるのが決まりでした。謝肉祭でたらふくものを食べた後には四旬節で断食をします。この作品は謝肉祭と四旬節の擬人像が戦いを繰り広げているのです。

 

絵の向かって左側が謝肉祭、右側が四旬節を表現しています。左側の謝肉祭側には居酒屋、右側には教会が建っています。対になっている箇所もあるのでそこを意識しながら見ても楽しいですね。

 

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 ↑は謝肉祭の部分。

見るからに食べて飲んで浮かれているようにみえます。奥でパンケーキを焼いています。謝肉祭の最後の火曜日には残った食材を使ってパンケーキを焼くのが決まりであったそうです。

 

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↑は四旬祭の部分

痩せこけた老婆が教会の椅子に座り、頭にははちみつ用の籠をかぶっています。手に持っているのはパンを焼くためのしゃもじで、にしんをのせています。足元にあるのはムール貝を入れるための容器です。プレッツェルや平たいパンもあります。

 

謝肉祭の方では身体が不自由な人が取り残されていますが、四旬節の方では施しを受けています。いろいろと見比べると面白いです。

 

 

 

 

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ブリューゲル「農民の婚宴」、ウィーン美術史美術館、1568年頃。

 

上の作品は食事の支度風景ですね。手前でたくさん運ばれているのはプディングです。

 

「ブライ」というフランドルの地域独自のミルクと、お米またはリンゴや梨などでつくられ、ハレの日によく食べられていたそうです。

お米のプリンって美味しいのかなー?

 

 

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カンピ「調理場」ミラノ、ブレラ美術館、1585年頃。

 

左端の子供は臓器に息を吹き込んでいます。

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右側には鳥をローストするためにさばく少女

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中央にチーズをすりおろす女

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バターをつくる老婆

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左には吊るされた牛をさばく男

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奥の女は小麦粉を練って引き伸ばしている

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さらに奥には宴会のためのテーブルがあります。

何か聖書の一場面を画題にしたものでは無く、ただ調理場を描いた作品です。でもなにやら騒がしくて楽しい場面ですね。そして大宴会の予感。

 

 

 

 

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アレハンドロ・デ・ロアルテ「料理人」アムステルダム国立美術館1622年


こちらの絵も何か聖書由来のものでは無く、ただ料理人とたくさんの食料が描かれています。中央の料理人のどや感が半端ないですね。


前回と同様に、何かを調理する場面も、最初は聖書の物語と関連付けて表現されていたものが、だんだん食材や、料理の魅力を全面に押し出すものになりました。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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楽しい宴会風景の中世絵画ーどの時代でも楽しい皆での食事ー

今日も生きてます。

 

「食べる西洋美術史」(宮下規久郎さん著、光文新書)読んでます。興味深いです。

 

 

「食事」をどう捉えるかというのはキリスト教が浸透する前と後ではだいぶ違うようです。七つの大罪の中に大食があるように、聖書の中には良いとされる食事と悪いとされる食事があります。

 

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ボッス「七つの大罪」の大食、マドリードプラド美術館、1485年

 

ボッスの七つの大罪の絵の中では、太った男性が鳥肉を食べています。そして左側の女性が追加の肉を運んできています。右側の痩せた男性は酒を瓶から直接飲んでいます。

 

汚い印象で表現されていてわかりやすいですがこのように過食と酩酊は悪い食事とされていたようです。キリスト教的な倫理観では、神のことを考え祈りながらパンを少しずついただくのがよい食事でした。

 

 

 

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ヘメッセン「放蕩息子」ブリュッセル王立美術館、1536年

 

食事の風景が描かれる画題の一つに、聖書のエピソード「放蕩息子」があります。

ざっくり放蕩息子のあらすじ

キリストが語ったたとえ話です。

あるお金持ちの父親が財産を二人の息子に分けます。弟の方は財産をもらうと家業を手伝う兄をしり目に家を出て、放蕩の限りをつくしてお金を使い果たしてしまいます。貧困に陥った弟は家に戻ります。そんな弟を父親は受け入れます。高価な服を着せ、宴会を開きました。その対応に怒り心頭の兄に向って、父親は死んでいたと思っていたものが生き返ったようなものだと諭しました。

 

この放蕩息子をテーマにした演劇などでは、贅沢三昧中、息子は女やら詐欺師やらに身ぐるみをはがされてたたき出されることになってしまいます。

 

このエピソードの中で描かれるのは息子が贅沢の限り放蕩している様子です。特に16世紀のフランドルでは淫蕩や大食、消費といった「悪」の要素てんこ盛りで描かれるのが好まれました。

 

上のヘメッセンの作品の中では男が着飾った女二人に囲まれて鼻の下を伸ばしています。若者の周りの人物は七人います。これがそれぞれ七つの大罪を示しているのでは?という見方もあるようです。

 

右側には何かがちいちゃく描かれています。

お金を巻き上げられて放逐される放蕩息子、父の家での宴会、豚の群れの中で回心する息子、が描かれています。

 

 

建前的には息子が身ぐるみはがされてとほほとなってしまうという教訓絵と捉えることもできますが、正直この作品をみると、何も知らない息子楽しそうです。このような場面が描かれたのは、悪と色に満ちた誘惑的な場面が魅力的であり人気であったと考えられるようです。

 

 

 

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ステーン「豆の王の祝宴(十二日節)」、カッセル州立美術館、1668年。

 

17世紀のフランドルやオランダでは放蕩息子の影響からか宴会の様子が描かれるようになりました。

↑のステーンの作品も宴会の風景が描かれています。

題名の豆の王とは、実際に行われたキリスト教由来の行事の名前です。豆を一粒だけ入れたケーキを焼き、豆入りのケーキを食べたものが王様になります。王様が王妃や侍従、侍医など役を振り分け、疑似宮廷をつくり、お酒を飲んで楽しむというものです。

 

こんな昔から王様ゲームがあったんですね。

 

絵画の中ではこの王様ゲームを楽しむ宴会の様子が描かれています。見ている方も楽しい気持ちになります。しかしこれも建前上はキリスト由来の行事を祝うという信仰に表向きの主題になっています。

 

 

 

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フランス・ハルス「聖ゲオルギウス市民隊幹部の会」、ハールレム、フランス・ハルス美術館、1624-27年

 

上の作品は市民の自衛団の肖像画です。画家のフランス・ハルスは集団の肖像画を描く際に作品のように宴会の情景をよく描いたそうです。

 

17世紀のフランドルやオランダでは、最初は教訓的な建前で描かれていた宴会を、明るい農民の生活の一部として描くようなります。当初あった否定的な意味合いは薄れました。

 

 

このようなものが描かれた背景には16-17世紀の中世で食料が常にあるわけでなく、飢饉が身近であったという事があります。食料も長くは貯蔵できず、いつ強奪されるかわからない、そのため食料があるとき、ハレの日には食べてしまおうというノリであったようです。

 

絵の中に描かれる人物はふくよかですが、実際にはありえない理想の姿で、このような宴会の絵画を自宅で飾ることで、飢えや欠乏の不安を描き消そうとしていました。

 

なんだか切なくなりますね…。

 

 

宴会図はイタリアやスペインでは少なかったようです。これはキリスト教が広まる以前の文化が影響しており、古代地中海世界では節食が良しとされていたことがあります。(それがキリスト教に受け継がれた。)

 

そして宴会図が多く描かれたフランドル・オランダの古代、ケルト・ゲルマン社会では、大食漢や暴飲暴食が良いもの(肉食が勇者にふさわしい)とされていことが影響されているのではと本中に書かれています。

 

 

 

 

日本でもともとの文化的にはどちらかというとたくさん食べる方が良いとされているように思います。もったいないとか食べ物を粗末にするなというような言葉がありますよね。でも今過食と肥満は敵ですよね~。

現代は世の中においしい食べ物があふれていて幸せです。

 悩ましい。

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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いただきますの風景

今日も生きてます。

 

今日も「食べる西洋美術史」宮下規久郎著、光文社新書を読んでいます。

 

西洋美術史の作品はキリスト教のテーマが多いですが、聖書の中には「食事」にまつわる記述が多いのだということを本から教わりました。なので西洋絵画も必然的に食事風景がよく描かれたそうです。

 

中でも日本でいうところの「いただきます」にあたる食前の祈りを描いた絵もあります。

 

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マース「祈る老婆」アムステルダム国立美術館、1656年

こちらの夕飯は、 パン・鮭の切り身・チーズ・バターです。ソースの壺もテーブルの上に並んでいます。

絵の端で食べ物を狙う猫に、ナイフが向かっています。これは祈る老婦人が信仰を示し、それに対し猫が信仰を妨害する悪徳を示しているそうです。

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コルネリス・バハ「食前の祈り」アムステルダム国立美術館、1663年

 こちらの夕飯はスープにチーズ、黒パンです。質素な食卓ですが、絵は感謝を欠かさない庶民の信仰心を表現しています。

 

 

 

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ヤンステーン「食前の祈り」レスターシャー、ビーバー城、1660年

こちらの夕飯は本中に記載されていないので個人的憶測になりますが、左手前にパンの塊のようなものがあり、婦人がテーブルに運んできたものは肉かパイの料理(?)、一番右にはなにか赤っぽくてぽろぽろしてそうな…スプーンで分けて食べるもの…豆やマカロニのような食べ物かな?

食卓を囲む幼い女の子はお祈りの仕方を教えてもらっています。

 

 

 

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シャルダン「食前の祈り」サンクトベテルブルク、エルミタージュ美術館、1744年

こちらの作品では夫人がほのかに湯気の立つ温かいスープを今運んできています。その夫人とお姉さんの目は一番幼い女の子に注がれていています。幼い女の子がしているのは食前のお祈りです。

このように食前のお祈りを小さなころから教えるのは教育の一環であり、小さな子供がお祈りをする姿は微笑ましい画題であったようです。

 

 

日本でキリスト教が広まると、この「お祈り」の習慣も行われるようになります。日本でこれを絵にした作品があります。

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林竹治郎「朝の祈り」札幌、北海道立近代美術館1906年

ちゃぶ台を囲んで家族でお祈りをする様子が描かれています。ちゃぶ台の上には小さなスプーンと茶碗、聖書以外はありません。(食後?)

 

 

 

ミサを重視したカトリックに対して、個人の信仰を重視したプロテスタントの国ではこの「食前の祈り」が画題として描かれました。

 

そして関係ありませんが、中世ヨーロッパで地面の下に生えるものは身分の低いものが食べるものとされ、貴族はあんまり野菜を積極的に食べなかったそうです。農民の食卓には野菜料理がよく並んだそうです。肉類は高価で貴族は食べましたが、農民は特別な日ぐらいしか食べなかったようです。

 

ナイフやフォークは比較的近代導入されたようで、基本各自が携帯したナイフで食べ物を切り、手掴みで食事していました。手が汚れた場合はテーブルクロスで拭ったり、フィンガーボールの水で洗ったりしました。

 

そういえばフォークは画中に見当たりませんよね。こういった視点で絵画を見るのも新鮮で楽しいかもしれません。いつの間にかマイ美術史ができるかも。

 

 

 今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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