今日も生きてます。
最近のばしていた髪を切ってさっぱりしました。長い髪で色々な結びかたをして楽しもうと思っていたのですが、なかなか自分で自分の髪をセットするのは難しく、断念しました…。
高橋由一が生きていた時代、明治維新の影響で西洋の文化が日本に入ってきて、美的価値観も大分変わったそうです。
女性の髪型もその一つ。
1872年2月25日の「東京日日新聞」には、当時の女性たちが黒い髪を切り落とし、文明の姿ぞとすましている様子を、万国未開の醜態であると書いています。
昔は髪を切るというと出家するようなイメージの方が強かったのかな。受け入れられない人もいたのかもしれませんね。
(というか新聞がこんな価値観押し付けてくる辺り、時代を感じますね。多分女性には伝統的な美しさを守ってほしいという保守的な男性の願いがこの表現に繋がったんでしょう。)
伝統が失われていくと感じる人もいたのでしょう。
そこで高橋由一のもとに、新しい時代に生き残るかわからない花魁の姿を油絵として残してほしいという依頼が来ます。
モデルになった小稲は下髷を結い、これ以上差せないという程の簪を差し、豪華な打ち掛けを着て由一の前に座りました。
そして完成した作品が↓
Takahashi Yuichi - Catalogue, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28998713による
現代の私たちが花魁に抱いているきらびやかなイメージをパリーンと砕くような花魁の姿ですよね。
なんか疲れてるようにみえるし、すごい美人にも見えない…私たちと同じような人が、すごい衣装を着込んでいるように感じます。
錦絵やこの頃の写真では絶対伝わらないリアルな花魁の姿です。高橋由一の表現力がきらりです。由一の作品の良さって、おそらくこういうところなんだと思います。
ちなみに有名な話ですが、モデルとなった小稲は自分が描かれた作品を見て私はこんなんじゃないと泣いて怒ったそうです。
(ですが、重要文化財のモデルとなった小稲という花魁として、日本国が続く限り後世に名が残る存在になりました。)
この花魁を描いた年、由一は関西方面へ取材旅行へでかけます。
なのんためかというと、次の年のウィーン万博出品の依頼があったためです。
東海道を14日間で移動しました。
高橋由一は小さな洋紙のスケッチブックに鉛筆でたくさんスケッチしたようです。
柏原でのスケッチ↑
この出張にはもうひとつの目的がありました。
明治四年に日本で初めて文化財保護関連法である「古器旧物保存方」ができました。
そこで太政官である蜷川式胤や文部省の役人たちと共に関西の古い社寺の宝物調査に参加しました。
高橋由一は京都御所に何度か通い、建物内の撮影に参加しています。
なぜ高橋由一がこのような仕事にありついたかというと、以前蜷川式胤が旧江戸城を写真に残すというプロジェクトをしていたときに写真への彩色する仕事をしたからだと思われます。由一はこの仕事で式胤から信頼されていたようです。
旅行のスケッチをもとに「旧江戸城之図」「国府台真景図」「富岳大図」等を書きました。
ウィーン万博には「旧江戸城之図」「国府台真景図」が出品されます。
その後、油絵の第一人者として認知され、たくさんの仕事が舞い込むようになります。
経済的にも安定してきました。
そして由一は洋画を日本に普及させるため、教育の分野にも目を向けていきます。
このことについては次回~
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。