リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

司馬江漢を知るー日本初の銅版画家ー

今日も生きてます。

 

雨ですね。

外を出回る日に雨は困ることもありますが、家にこもる日に雨は好きです。

心が落ち着いていいですね。

 

そういえば秋田に、「秋田音頭」という歌があります。

秋田の名産や良いところ自慢のような歌です。

おそらく秋田出身の方なら必ず知っているはず。

 

その歌詞の中に、

「秋田の国では 雨が降っても 唐傘などいらぬ(アーソレソレ)
手頃な蕗の葉 さらりとからげて サッサと出て行がえ…」

というものがあります。

 

秋田の昔の人って本当に傘を差さずに葉っぱで代用していたのかな?

トトロのようですね。

 

この秋田音頭はラップのようなもので、お酒の席などで即興で歌われていたようです。あまり知られていませんが、「裏秋田音頭」といううふーんなバージョンの歌詞もあります。うふーんというよりも性をネタにおおらかに楽しむような感じです。

 

「とんでも春画」(鈴木堅弘著、新潮社)という本を読み、江戸の春画ってみんなで見て楽しく笑っていたものもあったんだなあと思いました。性をモチーフにしている春画ですが、すべてうふーんなものでは無かったようです。

裏秋田音頭もですが、昔は現代よりも性的なものの見かたが多様ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今日は日本で初めて銅版画をはじめた司馬江漢(しばこうかん)についてとりあげます。

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司馬江漢 「三囲景 」銅版画



司馬江漢「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(池内了集英社新書)を参考にしています。読んでみて、司馬江漢の画業について深くは触れられていないかも…と感じたのですが、著者の池内了さんは美術史家ではなく、物理学が専門の方でした。

 

司馬江漢は絵を生業としていましたが、江戸時代で蘭学に大変興味を持ち、そこから得た知識を本として出版しています。

 

本の題名に江戸のダ・ヴィンチとありますが、美術だけではなく、科学や天文学など、様々なことに興味を持って活動していた点を重ねているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

司馬江漢の経歴

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高橋由一司馬江漢像」

高橋由一(1828-1894) - http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=4125, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28857681による

1747年

江戸で、陶磁器の商売を生業とする家に誕生する。

裕福な家であったらしい。

 

 

1761年

父が亡くなる

画家修業を始める

 

最初は狩野派の門下に入ったらしいが、詳細は不明。

その後美人画で人気を博していた鈴木春信に弟子入りする。

鈴木春信については以前取り上げました。

錦絵って何?カラフルな浮世絵を切り開いた絵師「鈴木春信」 - リアル絵描き日記

この絵どんな意味?鈴木春信の作品をみよう! - リアル絵描き日記

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春重という名前で浮世絵を制作していた。

 

1770年

鈴木春信が亡くなり、春信の贋作を制作するようになる。

 

1771年

唐画を描く宋紫石の元に弟子入りする。

 

1779年

秋田蘭画の一員である小野田直武から洋風画の指導を受ける。

蝋画(油絵)の技法を会得する。

 

1781年

母が亡くなる。

 

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司馬江漢「江漢母象」1781年

 

 

1789年

オランダ語が得意な蘭学者に協力してもらい、銅版画を制作する。

日本で銅版画をはじめて作ったのは司馬江漢でした。

 

(オランダ語を習いに先生のもとに入門したものの、司馬江漢オランダ語をマスターすることは無かったため、司馬江漢の知識はオランダの本を翻訳したものに限られる)

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司馬江漢「両国橋図」1787年

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司馬江漢「虎之門図」1786年

 

1788-1789年

長崎へ旅行する。

出島にて、外国の人や物に刺激を受ける。

この時に鯨漁も見物する。

 

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司馬江漢捕鯨図」1794年

 1799年

関西を旅行する。

 

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司馬江漢駿河湾富士望遠図」1800年

1805年 

最後の銅版画を制作する。

これ以降は木版の作品を制作する。

 

1807年

 

退隠書画会を開催する。

 

開催にあたってチラシを配っていますが、そのチラシの中には

「江漢は中年になってから西洋画を学ぼうとしたが、その真実がわからず、オランダの書を探索し、長崎に渡来したオランダ人に問うて、ようやくモノにすることができた。

耳順(60歳)になって気力も衰えてきたので画業を門人の江南に譲り、閉居するつもりである。よって今年の4月8日の万八楼で記念の会を催しますので、都下諸名貴客の皆様、どうぞおいでください。」

という文言と、当日に出品される江漢の作品一覧と、その作品を当日の来場者の求めに応じて進呈するというような内容が記されています。

 

しかし、その後も江漢は普通に制作を続けています。

 

1808年

この年、数え年で江漢は62歳になる。

この年からなぜか江漢は自身の年齢を9歳多く偽り始める。

 

1812年

京都へ旅行する。

 

1813年

円覚寺の禅師に入門する。

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司馬江漢「七十六翁司馬無言辞世ノ語」1813年

↑のチラシは江漢が自分が死んだという事を偽って配ったチラシです。江漢はこのチラシを江戸・京・大阪で配ります。

 

なぜかこの江漢は自分が死んだと偽り、広めます。

 

死亡通知を出した後はひっそりと潜伏していたようです。

 

 

1818年

72歳で亡くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

〇江漢の著作

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1792年に司馬江漢が発行した「地球全図」

江漢は絵のみならず、数々の著作も残しています。

「西遊旅譚」「興地略図」「地球全図略図」「和蘭天説」「おらんだ俗説」「西洋画談」「地転儀略図解」「吉野紀行」「種痘伝法」…

 

絵のことのみならず、宇宙の仕組みや地動説の本も描いています。その本の挿絵も自らが描いています。

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天球全図の挿絵。太陽の図。

 

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天球全図の挿絵。月の図。

 

 

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「天球全図」の挿絵。天球儀の図。

 

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「天球全図」の挿絵。天動説・地動説の分析を試みた図。

 

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「天地理譚」の中の挿絵。熱気球のスケッチ。

 

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和蘭天説」の中の挿絵。二つの天体の間を図る機械「紀限儀」のスケッチ。 

 

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「天地理譚」の中の挿絵。湿度計・温度計のメカニズムを記している。

 

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これは挿絵ではないが、江漢が制作した補聴器のチラシ。

 

 

 

 

 

 

〇嘘つき江漢?

 

江戸の人々は番付が好きであったようで、様々なものが番つけされました。

(現代の人々もランキング大好きですよね)

 

 

当時の蘭学者たちを番付したものもあり、司馬江漢の名前も記されています。

 

 

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「紋番付」1796年

下の右から二番目に司馬江漢の文字がある。

 

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蘭学者相撲見立番付」1798年

上から2番目左から6列目に江漢の名前がある

 

蘭学者芝居見立番付」1796年

 

一枚目

この中で江漢は「昼夜の紋」の下に「司馬漢右衛門」と記されています。

これは暗に昼は絵師で夜は天文家であるということを表しています。

(司馬江漢蘭学から離れている人間であるという事を示しています。)

 

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二枚目

「司馬漢右衛門」に振り分けられたのは「曾我の満江」という役柄です。

これは「満江」に高慢と江漢を描けています。

 

他に振り分けられた配役も見てみますと、

・唐絵屋の丁稚猿松 司馬漢右衛門

唐絵は司馬江漢が唐の絵を描いていること、猿松は司馬江漢の銅版画は猿真似に過ぎないことを暗に言っています。

 

・銅屋の手代高慢うそ八 司馬漢右衛門

銅屋は銅版画を制作していること、それを日本製として誇っていることを高慢で嘘つきだと暗に言っています。

 

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江漢は気難しい面があり、周りの蘭学者たちと衝突していたようです。

蘭学者が出版した本をこき下ろしたり、同じような本の出版のアイディアを他の人が少し先に進めているのを知って先に出し抜いて出版したり…

 

蘭学者たちは研究を進めていくうえで幕府の協力が必要であったため、幕府と対立は避けていましたが、江漢は幕府の政策によっては反対の姿勢をとっていました。

 

江漢の著者の中でもちょっとしたことが事実と違っていたり、江漢の都合のいいように書かれている箇所があります。

 

そういうことを平気でするところが不誠実に思われていたんでしょう。

 

また、銅版画の手法もその方法を詳しく著書の中で紹介するようなことはしていません。地動説などはやたら広く知らしめようとしているのに、銅版画の方法を教えようとしないのは、他の人間に銅版画をつくられたくない思いが働いていたのでは?と思われます。

 

亜欧堂田善という人物が司馬江漢の弟子入りをお願いしますが、司馬江漢は断ります。この亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)は後に幕府の庇護のもと銅版画の研究をし、司馬江漢より完成度の高い作品を制作しました。

 

 

 

 

 

 

 

芸術家ってその道一本のイメージあります。

しかし司馬江漢は好奇心旺盛で気が多い人のようでした。こういう人もいるんですね。突飛と思われ利用な行動も多く、奔放に生きているように感じました。

羨ましい限りです。

 

 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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