江戸の美人を描き尽くせ!浮世絵師 喜多川歌麿!
今日も生きてます。
身体は健康が有り余ってます。(脂肪も)
ですが悲しい事が起こりました…。
川越の美術館で吉田博展がコロナの影響で中止になりました…。
以前ブログでも取り上げました。
明石ショック。
自粛終わったら行くの楽しみにしていたのに…
長生きして次の展示会を楽しみにしなさいというお告げかな。
好きな事は待ち時間も楽しめるので、楽しみ時間がもっと増えたと思うことにします。
その時まで画集を読み込みます。
木版画は人物より風景画の方好きかもしれないです。
さて、菱川師宣、鈴木春信…と江戸の絵師についてみてきました。
今日は喜多川歌麿(きたがわうたまろ)についてみていきます。
上の画像は…trialsanderrors - Utamaro: Young lady blowing on a poppin, 1790, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11159051より引用
上の作品はおそらく一番有名な作品であると思われる「ポッピンを吹く女」です。
構図も服がなびいているところも、カッコいいし、服のデザインも現代でも通用するオシャレなものです。
このまま構図その他を借用するだけでも良い出来の絵になりそうです。
喜多川歌麿はとにかく江戸の美人を描き尽くした人気絵師。
幕府に反抗しても絵を描き続けた生粋の絵師です。
〇喜多川歌麿の人生
1753年頃
生まれたとされます。
どんな家に生まれたかなどの詳細は不明です。
鳥山 石燕の元で絵を学んだと言われています。
鳥山石燕(とりやませきえん)は妖怪画で有名です。
以前ブログでも取り上げました。
20代後半
吉原を拠点とする版元である蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)と出会い専属の絵師となります。
ここで本題からそれますが、今ある本屋さんのTSUTAYAって、このお方が祖先なの?!と勘繰りましたが、血筋的な関係はないそうです。
当時江戸では「狂歌」が大流行していたそうです。
狂歌というのは、社会風刺などを詠んだ短歌のことです。
これに目を付けた蔦屋が、狂歌をもとに双六や画本をつくりました。
↑の画像は虫をもとにした狂歌に、歌麿が細やかな虫たちを生き生きと描いています。
美人画のイメージが強い歌麿ですが、この時期はいろいろなモチーフを描いていたようです。
By Kitagawa Utamaro - This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access Policy, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58788526より引用
↑は歌麿には珍しい風景画です。
1788年 天明七年
松平定信が老中首座となります。
1788年 天明八年
いわゆる春画です。
By Kitagawa Utamaro - Print from Kitagawa Utamaro, The Pillow Book (Uta Makura), 1788. Victoria & Albert Museum/Art Resource, NY. Source: Louis Crompton, Homosexuality & Civilization. Cambridge, Massachusetts; London, England 2003, p. 437., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58704
1790年 寛政二年
幕府が出版統制をします。
多色刷りの華やかな浮世絵や、贅沢な絵の具の使用は禁止されてしまします。
1791年 寛政三年
松平定信が質素倹約を進める中、蔦屋重三郎が刊行した山東京伝著作の本が、幕府を皮肉ったものとして摘発されます。
それにより蔦屋重三郎は財産の半分を失ってしまします。
喜多川歌麿はこの年になんの作品も発表していません。
江戸ではなく現在の栃木の辺りにいたのでは?ともいわれています。
1792年 寛政四年 歌麿40代
美人大首絵のシリーズ「婦人相学十躰」が評判になります。
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10569.542&t=search, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=55023250より引用
当時の町娘の名前を入れた美人画を発表します。
喜多川歌麿 - Honolulu Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24740886による
1793年 寛政五年
幕府は浮世絵に町娘の名前を入れることを禁止します。
喜多川歌麿は風紀を乱す輩として目を着けられていたのでしょう。
1795年 寛政七年
町娘の名前を書き込むことを禁止された歌麿は、
図柄に娘の名前を隠した美人画を制作します。
どこに名前が隠れているのかというと、画面左上の部分。
田んぼ(た)と鹿島(かしま)
踊り手の尾(お)に火(ひ)がついています。
徳利と盃でお酒(さ)
これを合わせると「たかしまおひさ」と読み取ることができます。
このようになぞなぞのような表現が使われた絵のことを「判じ絵」と呼びます。
1796年 寛政八年
判じ絵も禁止されてしまいます。
1797年 寛政九年
働く女性を大胆に描きました。
喜多川歌麿 -CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58757808による
1800年 寛政十二年
幕府は美人大首絵の出版を禁止します。
歌麿は「山姥と金太郎」を題材とした浮世絵を制作します。
Lemon-s - 喜多川歌麿(Kitagawa Utamaro 1806 death), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1466029による
1804年 文化一年
吉原の遊女の作品を制作します。
「青楼十二刻」遊郭の一日を12枚の連作で描いています。
この年、歌麿の一枚の浮世絵が幕府の怒りに触れてしまいます。
それは大勢の側室に囲まれた秀吉を描いた「太閣五妻洛東遊観之図」です。
徳川幕府にとって秀吉の名はご法度で、周りにいる描かれた大勢の女性たちは、徳川家斉の側室の多さを揶揄しているように描かれています。
これにより歌麿は入牢三日手鎖50日の罰を受けました。
1806年 文化三年 50代前半
歌麿は亡くなります。
〇喜多川歌麿の作品
喜多川歌麿 - Thielska Galleriet, Per Myrehed, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87534924による
喜多川歌麿 - Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 20.931_IMLS_PS3.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10957148による
↑新吉原の廓芸者を描いたものとされています。
喜多川歌麿 , CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58760288による
喜多川歌麿 - Info, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29934325による
喜多川歌麿 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58757654による
喜多川歌麿 - , CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58754294による
とにかく当時の美人を描きまくっていた喜多川歌麿。
大人気の絵師で、歌麿が浮世絵に町娘を描いたものが刊行されると、その町娘がいるお店には人がたくさん集まったそうです。
バストから上を画面に描く「大首絵」は、以前からあったようですが、この構図で評判になったのは歌麿です。
また、町娘だけではなく、吉原の遊女もよく描きました。
描かれた作品をよく見てみると、本当に遊女の日常の些細な瞬間を取り上げているなあと思います。
喜多川歌麿の作品を刊行していた版元の蔦屋重三郎の父親は遊郭を経営していたこともあり、歌麿は遊郭に自由に出入りしていたようです。
遊女たちも歌麿に心を許していたのかなあと思うようなリラックスした様子が絵からは感じられます。
普段吉原に行くことができない庶民たちが、歌麿の絵から吉原の様子を想像していたのかなあ。
歌麿が人気絵師になった理由がよくわかります。
幕府に何かを禁止されるたびに手を変え品を変え作品を発表し続ける姿勢はカッコいいですね。
結局一回捕まってしまいましたが、どのような状況においても表現は自由なのだと思います。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。