リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

描かれたのはパリの娼婦?パリでスキャンダルを巻き起こした巨匠マネの絵画「草上の食卓」の真相

今日も生きてます。

 

『最貧困女子』や『熟年売春〜アラフォー女子の貧困の現実』など、貧困関係の著書を執筆している鈴木大介さんや中村敦彦さんの本を在学中読んでいました。

 

日本(というか東京)の売春の実情や、その人々の取材の様子など書かれた文章から、私の全く知らない世界があるんだと驚きでした。

 

もちろんすべてが本に書かれている通りというわけではなく、配慮や脚色があると思います。全ては側面です。

 

今まで風俗や水商売とか性関連商売と全く縁の無い人生を送ってきたので、この世には隠されているものがたくさんあるのだと感じています。

 

そもそも誰が何を「問題」としているのかとか、人間の自由や幸福って何かとか、深いです。

 

秩序がある社会で生活していると思っていたくて、見たくないものを見ないようにしているだけかもしれません。

 

今日取り上げるマネの絵画「草上の食卓」は、そんな見たくない実情を、さらっと描いてしまった作品です。

 

エドゥアール・マネ画「草上の昼食」

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出典:草上の昼食 - Wikipedia

 

この作品をみてどのように感じられますか?

 

女性が裸なの?(屋外で裸?)

男性二人は女性のこと無視してる?

奥の女性は結構画面上で目立ってますけど何か前の人々と関わりあるんですか?

手前のくしゃっとした布と果物どうしてあんな雑に置かれているの?

(パンが直接地面についちゃってるよ!)

 

以上が私がこの作品から感じたことです。

美術畑出身ですが初見で作品を深読みすることはできません。

 

 

 

 

 

19世紀のパリと娼婦

この作品が描かれたのは1862年1863年です。

 

描いたのは生粋のパリっ子 エドゥアール・マネ

 

 アンリ・ファンタン=ラトゥール画 マネの肖像画(1867年)

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

 

マネが生きた19世紀のパリは、産業革命によって、たくさんのものがつくられ、そのものを作るために労働者がパリに集まっていました。

 

そんな労働者たちの需要もあり、パリでは娼婦が激増します。

当時女性たちが就くことができる職業の賃金が安かったということもありました。

 

売春が増えたために性病も増え、19世紀にヨーロッパでは娼婦登録制による売春公認政策がとられたほどです。

 

ただ、売春をしていた女性は公認の登録されていた人だけではなく、街中で客引きをするものやキャバレーの踊り子やバレエダンサー、様々な女性が売春をしていたようです。

 

 

 

 

 

19世紀のパリっ子は「草上の食卓」から何を読み取ったか

 

エドゥアール・マネ画「草上の昼食」

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出典:草上の昼食 - Wikipedia

 

この「草上の食卓」というのは後から改題したもので、最初は「水浴」として発表されています。

 

この作品が描かれたときに、パリ郊外のセーヌ河畔でのレジャーが流行していたようです。描かれた男性の服装も当時のもの。

 

よってこの作品をみた当時のパリっ子は、この作品は今のことを描いているのだと認識します。

 

そして服を着た二人の男性とともにいるのはなぜか「裸の女性」

 

現代の私たちはこの作品をみてもそこまで読み取ることはできませんが、19世紀のパリっ子がこの作品を見たときに感じたのはパリに蔓延している売春と娼婦たちの存在でした。

 

写真の発明と共に出回っていたポルノ写真を連想する人もいました。

 

なのでこの作品を見た人は激怒。

「不道徳」「いかがわしい」と非難されてしまいました。

 

 

 

これを現代の私たちで考えてみると、生活の中で見ないように、関わらないようにしている物事を、絵画に表現されて目の前に突き出されたということです。

 

目をつむりたくなったり、非難したくなったりするかもしれませんね。

 

 

 

 

この作品は当時フランスで権威的な公募展である「サロン」に出品したものでしたが落選。

 

なぜ人目に触れることになったかというと、サロンに落選した者たちの作品を展示した「落選展」が開催されたためです。

 

あんまりサロンに落選した作品が多かったため、落選した美術家が抗議し、それを受けたフランス政府が「一般の諸君がこの抗議が正当なものであると判断してくれることを望む」として開催したものです。

 

 

この草上の食卓が落選したときサロンで絶賛されていたのはこの作品。

 

 

アレクサンドル・カバネル画『ヴィーナスの誕生

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

 

 

 

マネの草上の食卓と比べてもカバネルのヴィーナスの方がすごく…いかがわしいと思いませんか?(エロス!)

 

なぜカバネルの官能的な作品は大絶賛で、マネの草上の食卓はいかがわしいのか?

 

次回はそこについて触れていきたいと思います。

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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華やかな絵にみえる?これは「パリの暗部」です。フランス絵画界スキャンダル王「マネ」の名作を鑑賞しよう!①

今日も生きてます。

 

昼寝って幸せですよね。

生きてて良かったって感じるの昼寝の後なんですよね。

 

映画を見ていて気が付いたら寝ているのでオチは夢の中で見てます。

今度エクソシストを見ながら昼寝してみようか。

憑りつかれちゃうかなぁ。

 

 

さて、今日はマネのフォリー・ベルジェールのバー」という作品を見ていこうかなと思います。

 

 

描いた人マネについて

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

エドゥアール・マネ1832年 - 1883年)は、19世紀のフランスの画家。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となった。

 

 

 

マネって一般的に有名なんでしょうかね?

西洋美術史の中では近代絵画の父と呼ばれるほどの巨匠です。

 

印象派に影響を与えたとも言われます。

でもモネやルノワールと同じようにマネの絵画を見てもわからないですよね。

感覚的にきれいなだけの作品ではないです。

 

表現方法もそれまでの伝統と比べたら新しいかもしれませんが、マネの作品は描いた内容の方が革新的でした。

 

なので今回は絵画に描かれた内容を見ていきたいと思います。

 

 

 

 

フォリー・ベルジェールのバー

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

 

これはマネが1882年に発表した作品です。

 

この作品をご覧になってどのような感想をもたれますか?

 

私は「パリってやっぱおしゃれだったんだなあ~」と思いました。

 

 

表面的には華やかさが前面に描かれている作品なので私のように考える方もいると思うのですが、マネが表現したかったことはそういうことではないようです。

 

 

 

 

当時の「パリの暗部」

 

当時華やかなパリの劇場は社交場である同時に売春婦がたむろした場所でもありました。絵画の真ん中に描かれている女性バーテンダーのような人も身体を売ることがあったようです。

 

マネは発展していく都市の中に住んでいて、人間さえも商品になっていることを感じていました。

 

技術が発展して様々な「商品」が生み出され、その「商品」を購入するために自らを「商品」として売っている女性がパリにはたくさんいました。

 

絵画には虚ろな表情のバーテンダーが客と会話しています。

 

その姿はバーの商品である酒と同じように並んで描かれています。

まるで彼女も商品であるみたい。

 

 

これを知ると最初ただ華やかに見えていた劇場も、その華やかさの裏にはたくさんの闇があったことがわかりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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女子大生はいないの?18世紀イギリス美大生のアトリエ風景からわかる当時の男女格差。

今日も生きてます。

 

あと5日ですね。

一年ほんとうにあっという間です。

 

今年を振り返ると、世界がウィルスの影響を受けて今までとは全く変わりましたよね。

なにをするにも感染予防に努める(なければならない)世の中になりました。

 

人が集まれなくなったとか、テイクアウト・テレワークが増えたとか、常にマスクしてるとか…誰がこんな日常予測したでしょうか。

 

一番驚きなのは世の中がこんなに変わったのに、私の日常生活全く変わらないということです。

 

家出るときにマスクはしますが、外には基本出ないで家で作業しているし、旅行は好きではないし、人混みも苦手です。

 

私ってみんなと同じ世界に住んでるよね?とたまに心配になることがあります。

 

 

 

さて、今日は18世紀に設立されたイギリス最古の美術学校である「ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ」のアトリエを描いた一枚の絵画を見てきます。

 

(※ブログタイトルのは美大生と表記しましたが、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツは今は大学院に相当するようです。)

 

 

 

ヨハン・ゾファニー画「ロイヤル・アカデミーの会員たち」

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出典:メアリー・モーザー - Wikipedia

 

ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツはイギリス最古の美術学校で、1769年に開校しています。

 

創立メンバーは36名です。

 

↑の絵画ではその36名がアトリエに集合した様子です。

 

集合写真のようなものですね。

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背景には石膏像のようなものが置かれています。

 

 

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みんなびっちり正装っぽい服装をしている中に裸の男性がいます。

この方々はヌードモデルです。

 

実はこの創立メンバー36人のうち、2名女性がいます。

この絵の中に描きこまれているのですが、わかりますでしょうか?

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すぐお分かりかもしれませんが、実はここに描かれています。

 

 

 

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壁の絵の中に描かれているんですよね~。

 

 

見方によっては差別なの?

いじめなの?

 

と捉えられてしまいますが、これは当時の倫理観的に女性が裸の男性モデルを描くことを(というよりも同じ空間にいること)が良しとされていなかったためです。

 

そういったことから絵の中でも裸の男性モデルがいる空間と同じところに女性を描くことを止め、壁の絵の中に表現したのでしょう。

 

配慮という見方もできますね。

 

 

 

この壁に掛けられた女性画家二人はメアリー・モーザーアンゲリカ・カウフマンです。

 

 

ジョージ・ロムニー

メアリー・モーザーを描いた肖像画 

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出典:メアリー・モーザー - Wikipedia

メアリー・モーザーはロンドンに生まれです。

 

父親はスイス生まれの美術家で、親から美術の教育を受けていました。

24歳の時にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの創立会員に選ばれました。父親と共に会員になっているので、女性ながらにして会員になれたのは、才能だけではなく父親の力もあったのでしょう。

 

メアリー・モーザーの静物

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出典:メアリー・モーザー - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

アンゲリカ・カウフマン画『自画像』

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出典:アンゲリカ・カウフマン (画家) - Wikipedia

 

アンゲリカ・カウフマンはスイス生まれで、オーストリア育ちです。

裕福な家庭では無かったようですが、画家の父親から絵を教わり、母親からは複数の言語を教わりました。

自画像からもわかるように超美人な才女です。

 

複数の言語を話し、絵画だけではなく音楽にも優れていました。

立ち回りも上手だったようで社交界でも人気者になり、たくさんの注文をこなしていました。

 

アンゲリカ・カウフマン画『デヴィッド・ギャリックの肖像』(1741年)

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出典:アンゲリカ・カウフマン (画家) - Wikipedia

 

 

 

以前ブログで絵画の画題にはヒエラルキーがあったということを書きました。

 

歴史画>肖像画>風俗画>風景画>静物

 

歴史画が頂点です。

 

画家としての権威を付けるには歴史画を描く必要がありました。しかし歴史画には男性を描く必要があります

 

冒頭でも触れたようにアカデミーでは女性がヌードの男性モデルを描くことができなかったため、カウフマンの描く歴史画の男性は少し女性的です。

 

アンゲリカ・カウフマン画「ヘレネにパレスについていくように説得するヴィーナス」

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出典:「人騒がせな名画たち」(木村泰司さん著、マガジンハウス)

 

 

 

 

 

芸術の都パリの官立美術学校でも女性の入学が認められたのは19世紀後半です。学びの場が少ない中活躍した女性画家たちはすごいですね。

 

カウフマンと同じ時代に活躍していたのはマリーアントワネットの肖像画で有名なルブランです。

(個人的にはカウフマンよりルブランの方が良い絵だと思う。対象に愛がある。)

 

1790年にフィレンツェで描かれた自画像。

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出典:エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン - Wikipedia

 

モスリンのシュミーズ・ドレスを着た王妃マリー・アントワネット

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出典:エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン - Wikipedia

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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サンタさんって世界共通ではないの?各地のプレゼントマンを見てみよう!クリスマスということで、世界のサンタクロース雑学雑談♪

今日も生きてます。

 

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出典:Category:Christmas in Japan - Wikimedia Commons

 

 

 

クリスマスですね。

皆様サンタからプレゼントはもらいましたか?

 

私が育った家ではサンタを子供に信じ込ませる風習が無かったので、友人からサンタを信じていたという話をきくたびに驚いています。

 

 

私は母から

 

家のサンタはお父さんだよ

 

と教わっていました。(真実)

 

 

もしいるとしたら世界中の子供たちにプレゼントを配らなければいけないから大変だなあと思っていたら、サンタさんて世界共通ではないんですね!

 

当たり前と言ったら当たり前です。

子供の頃からのすりこみって恐ろしい!

 

ということで今日は知らなかった世界のサンタ雑談です。

 

 

 

 

プレゼントを持ってくのは誰?

 

サンタクロースの存在はありつつも、その土地にはその土地に根付いた「プレゼントを配ってくれる人」がいるようです。

見方によってはサンタのライバルともいえる、各地のプレゼントマン(勝手に命名)を見ていきましょう。

 

(※プレゼントを配る日も様々のようでしたので、ざっくり年末年始ごろにプレゼントをくれる方々を集めました。)

 

 

 

イタリアのプレゼントマン
魔女のベファ―ナ

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出典:ベファーナ - Wikipedia

ho visto nina volare - originally posted to Flickr as La befana vien di notte..., CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5053150による

 

イタリアに伝わる魔女です。

カトリック教の祭日である1月6日に、前日までの一年間に良い子だった子供には素敵なプレゼント、悪い子だった子供には靴下に炭を入れていくと伝わっています。

 

 

 

 

ドイツのプレゼントマン
ヴァイナハツマン&クリストキント

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出典:ベファーナ - Wikipedia

Albärt - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=474595による

 

ドイツの北部でのプレゼントマンは「ヴァイナハツマン」

由来は違いますがほぼサンタクロースと同じです。サンタさんはソリに乗ってきますが、ヴァイナハツマンは森からやってくるなど、詳細設定は少々違うようです。

 

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出典:クリストキント - Wikipedia

 

ドイツの南部でのプレゼントマンは「クリストキント」

クリスマスの天使です。

名前は「Christkind」幼子キリストで、その名の通り由来はキリストです。しかし現代でクリストキントのイメージは女性です。


マルチン・ルターが聖人崇拝を禁止した後に、カトリックのプレゼントマンである聖ニコラウスに対抗してつくられた存在です。

 

個人的にはサンタクロースよりもかわいい天使からプレゼントを受け取りたいです。

 

 

 

 

北欧諸国
トントゥ(TONTTU)トムテ(TOMTE)ニッセ(NISSE)

子供たちにプレゼントを渡すユールトムテ

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出典:トムテ - Wikipedia

 

北欧諸国のクリスマスは、もともとあったゲルマン民族のお祭り「ユール」と、キリスト教のクリスマスが混ざったものになっているようです。

 

ユールの粥をもらうトムテ

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出典:トムテ - Wikipedia

 

現在ではサンタクロースのプレゼント配りを妖精が手伝うことになっています。

妖精の名前は各地様々で、フィンランド語でトントゥ(TONTTU)、スウェーデンでトムテ(TOMTE)ノルウェーでニッセ(NISSE)など、英語圏ではGNOME(ノーム)とも呼ばれるようです。

 

妖精が運んできてくれるなんて夢がありますね。

 

 

 

 

ロシア
ジェド・マロース

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出典:ジェド・マロース - Wikipedia

 

ジェド・マロースは、ロシアの民間伝承に登場する霜の精です。

ジェドは「老爺」、マロースは「寒波、吹雪」を意味します。(マロース爺さんですね。雪女のおじ様版でしょうか。)

 

正教会圏のロシアでは、クリスマスは「冬祭り」と捉えらているようです。

 

ジェド・マローススネグーラチカ(雪娘)を連れているとされます。

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出典:Category:Snegurochka - Wikimedia Commons

Olga-lisenkova - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87079289による



 



 

 

 

モンゴル
ウブリーンウブグンアーブ(冬のおじさん)

ウブリーンウブグンアーブは白いデールを着たモンゴルの土着の神様です。

デールはモンゴルの民族衣装です。

 

名前の意味合い的にはロシアのマロース爺さんと似てますね。

地理的にもお隣ですからね。

同時に西欧風のサンタクロースもいるようです。

 

 

名前は違えど、アフリカや南アメリカや北アメリカではサンタクロースが主流のようです。

 

 

 

 

そもそもクリスマスを祝わない国

 

 

サウジアラビアなどのイスラム教圏では大々的にクリスマスをお祝いするということは無いようです。インドでも人口のほとんどがヒンドゥー教なので日本のように派手に祝うことはないですね。

 

国の宗教が違ってもクリスチャンであれば自宅などで仲間や家族とでお祝いをするということでしょう。

 

 

 

 

 

 

クリスマスも国によって様々。

 

日本のように宗教が違ってもなんやかんやクリスマスを祝うという国もあるんですね。

 

サンタクロースが世界の子供たちにプレゼントを配るというのは、世界覇権を狙うキリスト教の陰謀に違いない!(冗談です。)

 

日本の子供には親御さんやご親族という最強のプレゼントマンがいるから、異教徒でも安心ですね。

 

 

あの頃の明石家のプレゼントマン「パパサンタ」に感謝です。

 

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まだ心がピュアだった頃に描いたサンタクロース

(髭が白いという概念無し)

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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笑顔は愚かな人間⁈オランダの風俗画「幸せな夫婦」が本当に表現していることは戒め?

今日も生きてます。

 

「シャイニング」という映画を見ました。

 

ホラー映画です。

 

大雪で外界から遮断されてしまうホテルの冬の間の管理を任された一家が、自分たち以外誰もいるはずのないホテルで異様な体験を重ね、少しずつおかしくなっていく…

家族は一体どうなるのか?

このホテルには何が隠されているのか?

 

 

というような内容の話です。

Amazonプライムで視聴しましたが、冒頭からミュージックが怖すぎてガタガタしてしまいました。

映像は何も怖くないのですが、「これから、怖いこと、起こりまっせ」という印象を与えられすぎてしまい、とにかくミュージックが心に効きすぎてしまいました。

 

なので映画前半は無音で楽しみました。

(なんとか乗り切れた。)

 

私と同じホラーを見たいびびりさんにはお勧めの視聴方法です。

 

「シャイニング」面白かったです。

がんばって見たかいありました。

 

 

 

 

さて、今日も「人騒がせな名画たち」(木村泰司さん著、マガジンハウス)を読んでいます。

 

著者である木村さん独自の目線で名画を解説している本で、大変面白いです。

その中のオランダ風俗画の説明が興味深かったので取り上げます。

 

 

 

 

何故オランダでは風俗画がたくさん描かれたのか?

 

西洋絵画とひとくくりにしても、それぞれの国で文化は違います。

何を美しいとするのかという美的価値観が違うのです。

 

黄金時代と呼ばれた17世紀オランダでよく描かれたものは風俗画で写実主義の絵画です。

 

対してフランスは古典主義(理想主義)の絵画を良しとしていました。そしてフランスのアカデミーでは絵画のジャンルによってヒエラルキーがありました。

 

歴史画>肖像画>風俗画>風景画>静物

 

フランスで風俗画は下位に位置します。

なのでオランダの絵画はフランスではあまり評価されなかったようです。

 

オランダで風俗画がたくさん描かれた背景の一つには、偶像崇拝を禁じるプロテスタントの社会であったことがあります。

カトリックと違い、祭壇画の注文がないということです。

 

そうすると画家の顧客は市民階級になります。なのでフランスではヒエラルキーの下位に属する風俗画、風景画、静物画がオランダでよく描かれたのです。

 

 

 

 

 

「幸せな家庭」夫婦の笑顔が意味するものは?

 

オランダの風俗画は何もない日常の一場面を描いているようで、キリストへの倫理観への導きを表現しています。

 

ユディト・レイステル画「幸せな家庭」

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出典:ユディト・レイステル - Wikipedia

 

↑の作品も現代人からすると、ささやかな幸せを称賛するような絵画です。

しかし実際には真逆といっていいことを示しています。

 

笑顔

この時代、笑顔は自己抑制の欠如とみなされていました。

17世紀のオランダ絵画で笑みが描かれる場合は自制することができな愚かな人間であることを示しています。

 

楽器の演奏

伝統的に楽器の演奏は性行為を示唆し、肉欲に対する戒めを意味しています。

楽器の音色ははかない快楽を象徴します。

 

飲酒

この絵画の場合、自己抑制の欠如を戒める演出になります。

 

 

総括すると絵画が言いたいことはこのような人間になってはいけないというようなことを意味しています。

 

どうしてこんな教訓じみた絵を飾りたいのか私には理解ができません。プロテスタント独特の感覚なのでしょうか…

 

 

 

 

 

女性画家ユディト・レイステル

 

 

「幸せな夫婦」を描いた画家はユディト・レイステルです。

 

ユディト・レイステル画『21歳頃の自画像』(1630)

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出典:ユディト・レイステル - Wikipedia

 

 

女性画家です。

 

当時のオランダで画家になる女性は大変珍しかったようです。しかも両親が画家だとか、そういった家系でもありません。

 

レイステルは地元の醸造業者で衣類業者のヤン・ヴィレムスツの第8子として生まれました。芸術家の組合に入り、正式に画家として活動していました。

 

レイステルの他の作品を見てみると、「笑顔」が笑顔を称賛して描かれたものではないことを感じ取ることができます。

 

見てみましょう。

 

ユディト・レイステル画「ネコとうなぎを持つ少年と少女」

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出典:ユディト・レイステル - Wikipedia

 

ユディト・レイステル画「陽気な三人」

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出典:ユディト・レイステル - Wikipedia

 

ユディト・レイステル画「上機嫌の酔っ払い」

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出典:ユディト・レイステル - Wikipedia

 

いかがでしょうか?

全て笑顔の作品ですが、寓意や教訓が込められていそうですよね。

 

少年が笑顔で持つうなぎもどんな意味があるのかと調べてみましたが、見つからないですね。

(気になる…)

引き続き気にかけておいてわかり次第ブログで報告します。

 

 

 

オランダの風俗画を飾ろうとする人の気持ちはまだ解せない…

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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ルノワールが描いた最も美しい肖像画「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」描かれた美少女の人生を覗いてみよう。

今日も生きてます。

  

肖像画を描いてもらう機会って現代ではあるのかな?

似顔絵は色々なところで見かけることはありますが、絵画として描いてもらうことは少ないかもしれませんね。

 

写真が登場する前はお見合い写真として、記念として、宣伝として…絵画はメディアとして活用されていました。めいっぱい着飾り、財産を見せつけている肖像画とかありますよね。

 

様々な肖像画が残されていますが、描かれた人物に関して知る機会はなかなかないですよね。

 

今日は印象派の巨匠ルノワールが描いた肖像画「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」のイレーヌ嬢がどんな人物で、その後どのような人生を送ったのかみていきましょう。

 

ルノワール画 「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」

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出典:イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 - Wikipedia

 

 

ルノワールとは?

 

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出典:ピエール=オーギュスト・ルノワール - Wikipedia

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)はフランスの画家です。

印象派のメンバの一人としても有名です。

明るい光に満ちた画面に幸せそうな人々を描いた作品が印象的です。

 

ルノワール画『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年。

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出典:ピエール=オーギュスト・ルノワール - Wikipedia

 

 

 

ルノワール画「舟遊びをする人々の昼食」1880-81年f:id:akashiaya:20201222173353j:plain

出典:ピエール=オーギュスト・ルノワール - Wikipedia

 

 

 

 

 

ルノワールはなぜ肖像画を描いていたのか?

 

現在、印象派のメンバーと言われる画家たちは裕福な出自の人が大半でした。マネやドガなどは絵で生活費を稼ぐ必要がありませんでした。

ブルジョワ!) 

 

そんな中ルノワールは唯一の労働者階級の出身です。

なので絵画で生活費を稼ぐ必要がありました。

 

もともと陶器の絵付け見習いであったルノワールは、衣装や少女美しくを描くのも得意でした。

 

そんな自分の得意分野と肖像画がマッチして、人気の肖像画家としてたくさんの注文を受けるようになります。

 

 

 

最も美しい肖像画「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」

 

ルノワールの画集をみていて心つかまれる作品があります。

 

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」です。

 

ルノワール画 「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」

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出典:ピエール=オーギュスト・ルノワール - Wikipedia

 

 

こんなかわいい&美しい女の子が目の前にいたら私窒息しちゃうかも。

 

これは絵画なので実際はどんな人であったかわかりませんが、ルノワールはモデルの魅力を描く天才なんだなあと思わされる一枚です。

 

私もぜひ肖像画を描いてほしいですもの。

(私がモデルだとイリーヌのようにはいかないか)

 

この絵画は「かわいいイレーヌ」とも呼ばれているようです。

日本にも来日したことがあります。

 

私は実物見たことありませんが、 実物見たら恋しちゃうな。

 

 

 

 

イリーヌ嬢の正体

 

イリーヌはユダヤ系銀行家で裕福な貴族の家庭に生まれた女の子です。

 

この肖像画はイレーヌが8歳のときに描かれました。

 

きっかけはルノワールがサロンに出品した「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」です。この作品は目立つ位置に展示されたためたくさんの人が注目したようです。

 

これを見たイレーヌの両親が、ルノワールに娘イレーヌの肖像画を依頼します。そしてこの傑作「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が制作されました。

 

ルノワール画「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」

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出典:ピエール=オーギュスト・ルノワール - Wikipedia

 

しかし古典的な手法での肖像画を望んでいたイレーヌの両親はこの作品をあまり気に入らなかったようで(信じられん)、この肖像画は飾られなかったようです。

 

 

 

 

 

 

イレーヌ嬢の人生

 

美しいイレーヌは19歳で結婚します。

お相手はパリでは知らぬ人のいないトルコ系ユダヤ人の大富豪カモンド家のモイーズです。

 

ちなみにモイーズ18世紀の美術品を収集することに熱をあげていたようで、ついには邸宅まで作り変えてしまいました。

 

そのコレクションと邸宅は今「ニッシム・ド・カモンド美術館」になっています。

 

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出典:「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

 

優雅ですね。

憧れます~

(でも広い家を見ると掃除のことばかり考えてしまいます。なぜか使用人目線!)

 

 カモンド家に嫁いだイレーヌは長男ニッシム長女ベアトリスを出産します。

 

裕福な家に子供たち…幸せな生活を満喫すると思いきや、なんとイリーヌは一家の厩舎長のイタリア人サンピエリ伯爵と恋に落ちてしまします

 

使用人との禁断の恋ですね。

燃え上がりそうです。

 

夫婦は別居することになります。

 

 当時フランスで離婚は世間体が悪いこととされていたので、別居は5年ほど続き、その後離婚しました。子供はモイーズが面倒を見ることになりました。

 

現在のフランスは結婚しないで子供つくるなど、恋愛に自由なイメージがありますが、昔は違ったのですね。

 

 

 

 

 

家族に戦争の魔の手が伸びる

 

その後悲しいことが続きます。

 

長男ニッシムはパイロットになり第一次世界大戦で亡くなります。

そして長女ベアトリスとその夫と二人の子供はアウシュビッツで虐殺されてしまいました。

元夫モイーズは長女ベアトリス家族が虐殺される前に亡くなっていました。 

 

イレーヌはというと、イタリア人のサンピエリ伯爵と再婚するときにカトリックに改宗し、苗字が変わっていたため、ナチスの目から逃れることができました。

 

その後、カモンド家の遺産もイレーヌが受け継ぐことになります。

 

イレーヌは南フランスで遺産を散在しながら91歳まで生きました。

 

 

 

 

 

イレーヌの肖像画はどうなったのか?

 

イレーヌが離婚しカモンド家を出ていったあと、ルノワールが描いた肖像画「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」は長女のベアトリスが所有していたようです。

 

しかし一家がナチスに虐殺されたときに家財は没収され、そのときにルノワールの絵も持ち去られてしまいました。

 

そして絵は終戦後の1946年に当時74歳のイレーヌに返還されますが、イレーヌは3年後すぐにこの作品を手放してしまいます。

 

この作品を次に手に入れたのは、スイスに帰化したドイツ人の印象派コレクターのビュールレです。この人はナチスドイツを始め世界各国に兵器を売って巨万の財を成した武器商人です。

 

芸術作品は描いた人や描かれた人と関係なく人の手を渡っていくんですね。

 

 

 

おそらく肖像画は写真やデータよりもずっとこの世界に同じ姿で残るモノでしょうね。

 

72歳のイレーヌは、8歳の頃の自分が描かれた肖像画をみてどのように感じたのでしょうか?

 

手放したということは、あまり見たくない思い出になっていたのかもしれませんね。

 

描かれた本人が見たくないと思っても、亡くなってしまっても、絵画としてのイレーヌはずっとたくさんの人に鑑賞され、愛され続けるんだろうな~

 

芸術作品というものは不思議ですね。

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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西洋美術のタブーと謎!なぜ二枚あるの?マハって誰?「裸のマハ」と「着衣のマハ」

今日も生きてます。

 

前回撮影雑談スキップしてしまいましたが、今日はゴヤの作品を取り上げます。

 

前々回西洋美術の伝統では、体毛は髪の毛と髭以外は表現しないという話題を取り上げました。

美しさに「毛」はいらない!!!なぜ陰毛を描かないのか?西洋美術の疑問を考える。

 

要約すると、古代ギリシャの時代の美意識の中には、無駄毛がないことが含まれていて、その古代ギリシャの彫刻などをお手本にしてきた西洋美術の絵画は体毛を描かなくなった。ということです。

 

そんな西洋美術のタブーである陰毛を初めて描いたと言われる絵画ゴヤ「裸のマハ」です。

 

ゴヤ画「裸のマハ」1797-1800頃

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出典:裸のマハ - Wikipedia

 

女性の官能的な美しさを全面的に表現している作品ですね。

 

 

 

裸のマハを誰が描いたのか?

 

 

描いた人はフランシスコ・デ・ゴヤです。

 

 

ヴィセンテ・ロペス・イ・ポルターニャ画

「フランシスコ・ゴヤ肖像画」1826年

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出典:フランシスコ・デ・ゴヤ - Wikipedia

 

スペイン18‐19世紀に活躍した画家です。

40代にはスペインの画家として最高の地位である宮廷画家に上り詰めます。

その後不治の病に侵され、聴覚を失ってしまいます

 

ゴヤの作品として有名なものは聴覚が失われた後の作品が多い気がします。裸のマハも聴覚が失われた後の作品です。そのほかにも代表作としてマドリードなどがあります。

 

ゴヤ画『マドリード、1808年5月3日』

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出典:フランシスコ・デ・ゴヤ - Wikipedia

 

 

 

他にゴヤの作品で有名なものは「黒い絵」シリーズです。

 

ゴヤは1819年に「聾者の家」と呼ばれる別荘を購入し、風刺がきいた「黒い絵」と呼ばれる壁画を14枚描きました。の中で有名なものの中には「我が子を食らうサトゥルヌス」があります。

 

ゴヤ画「我が子を食らうサトゥルヌス」

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出典:フランシスコ・デ・ゴヤ - Wikipedia

 

ゴヤの有名な作品の中の一つに『カルロス4世の家族』があります。

宮廷画家として王族の絵を描く機会があるのは当然のことと思います。

 

ゴヤ画『カルロス4世の家族

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出典:フランシスコ・デ・ゴヤ - Wikipedia

 

しかしその家族の描き方が従来の宮廷画家と少し違う。

 

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よく見ると王妃は意地悪そうだし、王は気弱そう…

モデルを美化して描いていませんね。むしろ少し皮肉っぽい描き方です。

ゴヤ忖度ゼロの宮廷画家だったようです。

 

 

 

 

二枚のマハ

 

ゴヤ画「着衣のマハ」

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出典:フランシスコ・デ・ゴヤ - Wikipedia

 

 

裸のマハのほかに似たような構図で「着衣のマハ」という絵があります。

見比べると全く同じというわけではありませんが、着衣のマハは裸のマハに服を着せたものっぽく見えますね。

 

 

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何故二枚描かれたかというのは定かではなく、カモフラージュなど、様々な説があると思いますが、私はエロスが目的だろうと思います。(個人的解釈)

 

 

 

 

 

誰が注文したのか

 

この二枚の作品を誰が注文したかははっきりしていませんが、絵が保管されていたのは1792年ー1797年と1801年ー1808年スペインの首相であったマヌエル・デ・ゴドイの家です。

 

なのでマヌエル・デ・ゴドイが注文者なのでは?と考えられています。

 

ゴヤが描いたマヌエル・デ・ゴドイの肖像

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出典:マヌエル・デ・ゴドイ - Wikipedia

 

一説によると来客者にこの絵を見せて楽しんでいた…というようなものもあるようです。(あらあら)

 

 

 

 

 

二枚のマハの影響

 

 

なぜゴドイが自宅に隠していた作品が世に出たかというと、ゴドイが失脚したからです。そして家財が没収され、この作品が現れました。

 

スペインは当時厳格なカトリックの国だったのでこの絵の破壊力はすさまじかったようです。(キリスト教の神様って人間の欲望に厳しいよね。)

 

当時スペインでは裸婦像もご法度だったのでこんな煽情的な作品がすんなり受け入れられるのは難しいですね。ゴヤはこの作品以外に裸婦を描いていません。

 

ゴヤはこの絵を描いたために異端審問所に呼び出されます。

 

そこでだれから依頼されて描いたのかを聞かれますが、口を割ることは無かったようです。

 

ちなみに作品が描かれた順番は裸のマハが先です。

 

 

 

 

 

マハって誰?

 

この題名の「マハ」は人の名前ではありません。

「人騒がせな名画たち」の著者木村泰司さん曰く「マハ」はマドリード下町出身の派手な装いの奔放な女」といったようなニュアンスの意味のようです。

 

この作品が後年王室のコレクションになるとき、目録には「マハ」ではなく「ジプシー」と記されました。

 

モデルはゴドイの愛人とも、ゴヤの愛人とも推測されていますが、本当のことはわかりません。

 

 

 

 

 

二人のマハの行方

 

 ゴヤの異端審問の後、絵は100年弱の間プラド美術館の地下にしまわれました。焼いたり、捨てたりはしないのが不思議です。何か証拠として残しておきたかったのでしょうか…。

 

1901年に初めて公開されました。

「着衣のマハ」のほうは来日したことがあり、私も見たことがあります。

 

 

 

 

 

ゴヤは忖度無しの画家であったから西洋美術史の伝統を破る表現(体毛表現)ができたのかなと思います。

 

また、ゴヤが自分の別荘の壁画に描いた自分のための作品と、二枚のマハはだいぶ趣が違います。

 

なので二枚のマハは秘密の注文を受けて描かれたものと推察します。(多分ゴドイ。)内密な作品だからこそタブーを破ることができたのかもしれませんね。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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