宮廷画家?国王主席画家?って何?ー陰謀と策略の世界に巻き込まれた巨匠プッサンー
今日も生きてます。
地元秋田が大変です。
実家が雪に埋もれないか不安だ…。
家潰れたりしないよね…
さて、今日は国王主席画家であったプッサンについて取り上げます。
ニコラ・プッサン画『フローラの王国』1630年-1631年
西洋美術の本を読んでいると「宮廷画家」「国王主席画家」といったような肩書を見かけることがあります。
なんとなく意味は分かるのですが、いまいちどんなものかわからないので、今日はそこを確認しつつ国王主席画家であったプッサンについてみていきます。
宮廷画家とは?国王主席画家とは?
宮廷画家は、王侯貴族の依頼に応じて作品を制作する芸術家です。
王侯貴族に雇われ、固定給を受けていることが多かったようです。
しかし雇い主以外からの美術品制作依頼を受けることが制限されている場合もありました。
宮廷画家は固定給と宮廷内における正式な地位、さらには邸宅も与えられることもありましたが、待遇は人それぞれなようです。
おそらくどれだけ気に入られるかで違ってきたのでしょう。
外交官や行政官としての役割を兼務していた宮廷画家もいます。
アーティストというよりも公務員的ポジションなのかもしれませんね。
日本にもあったのか?
宮廷画家という名称ではありませんが、日本には「御用絵師」(ごようえし)や「絵所/画所」(えどころ)がありました。
日本の絵所は、平安時代から江戸時代まで続いた絵描きの公的な職業です。
ここに選ばれるということは、世の中に認められると同時に身分が保証され生活が安定することを意味しました。
絵所は宮廷、社寺、院、幕府などに置かれました。
プッサンとは?
ニコラ・プッサン画『自画像』(1649-1650)
二コラ・プッサンは17世紀のフランスを代表する画家です。しかし人生の大半をローマで過ごしています。
1594年フランス・ノルマンディー地方のレ=ザンドリに近いヴィレという村で生まれます。
29歳の時、プッサンはローマに出てきています。
ローマで教皇の甥にあたるフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿に気に入られます。
そして枢機卿を通じてフランスに送られた絵画を通じて、プッサンの名声は母国にも広まりました。
二コラ・プッサン画『アルカディアの牧人たち』1638 - 1640頃ルーヴル美術館
プッサンが巻き込まれた画家たちの権力闘争
二コラ・プッサン画『人生の踊り』1640年 ウォレス・コレクション所蔵
プッサンが生きた17世紀のフランスで、公的な物の美的価値を左右していたのは「王室建造物局総監」でした。
ここの担当が変わると、公の美術の価値観が大きく変わります。
つまり、宮廷画家たちの権力闘争にも影響を与えます。
1638年にはアンリ・ド・フルシーという総監が亡くなり、新しくフランソワ・シュプレ・ド・ノワイエが新総監になりました。
以前の総監フルシーのもとでルイ13世の国王主席画家の地位にあったシモン・ヴェーエは地位が弱まります。
シモン・ヴーエ画「自画像」
シモン・ヴーエ画「Madonna and Child」
それには、フランスに新しい芸術様式を作ろうとしていたリシュリュー枢機卿の意図を汲んだ新総監ノワイユが、芸術の本場ローマで名声を得ていたプッサンを呼び寄せたからです。
お誘いされたプッサンの方は、なかなか腰を上げなかったのですが、説得されて(圧力?)パリに向かいます。
1640年パリで大歓迎を受けたプッサンは国王主席画家に任命されます。
宮廷画家の新参者に対して、破格の待遇です。
それから国王のための仕事はすべてプッサンの承認が必要になります。
それまで幅を利かせていたヴェーエは立場が危うくなりました。
しかもヴェーエとプッサンは相性が悪く、芸術の方向性も違いました。
重要で大きな仕事の数々がプッサンに奪われます。
しかし意外にもプッサンはたくさんの仕事が舞い込んでいる状況を喜んでいませんでした。
それはパリ行きを同意した理由の一つに祭壇画のような大きな室内装飾には関わらず、国王の注文制作だけをうけるという話であったはずなのに、祭壇画などの注文が続いていたからです。
そしてついに事件が起こります。
問題となったのはこの作品です。
二コラ・プッサン画「鹿児島で少女を蘇らす聖フランシスコ・ザビエル」
出典:「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)
イエズス会の修練聖堂の主祭壇画です。
描かれているのはザビエルが鹿児島県で起こした奇跡です。
17世紀の巨匠プッサンは日本を描いているんですよ。驚き。
この祭壇画にヴェーエはいちゃもんをつけます。
それはこの祭壇画が異端の神ユピテルを彷彿とさせ、不敬であるということです。
その批判はプッサンがデザインした大ギャラリーの装飾にまで及びます。
この宮廷内の権力闘争に嫌気がさしたプッサン。
1642年には妻を迎えに行くという理由でローマにもどり、二度とフランスには来ませんでした。
絵を描く人でも、ピュアな人もいれば政治家のように権力闘争で足を引っ張る人もいる。
やはり強力な権力の恩恵を受けていると、それに固執するようになってしまうんですかね。画家の問題ではなく、普遍的な人間の問題ですね。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。