ゴッホは何故自殺したのか?…結果、生きよう!!!!!
今日も生きてます。
前回はゴッホの転職について取り上げました。
画家になる前のゴッホが、牧師や書店員など…意外な職業を目指したり、就労したりしていたのが驚きでした。
その後画家を目指したゴッホがゴーギャンと共同生活の末、耳を切り、自殺しようとして亡くなってしまったのは有名な話です。
ゴッホは何故亡くなってしまったのか?
何が彼をそこまで追い詰めたのか?
今日はその理由を、弟テオとの関係から見ていきたいと思います。
フィンセント・ファン・ゴッホ画「自画像」
弟テオからの送金で生活をしていたゴッホ
21歳の弟テオ。イケメン。
ゴッホ(弟もゴッホなので以下フィンセントと表記します。)は6人兄弟の長男です。
フィンセントと関係の深かったテオばかり取り上げられるため、私は二人兄弟と勘違いしていました。
兄弟皆がゴッホの理解者であったわけではなく、テオが家族の中で唯一の理解者であったことがわかりますね。
転職の失敗を繰り返していたフィンセントは画家になることを決意します。
いつ頃からかは定かではありませんが、フィンセントが27歳頃には、弟テオが月100フランのお金の仕送りしていました。
その頃テオは画商のお店に勤めていました。
最初テオは親からの送金と偽っていたそうですが、後に真実を父親がフィンセントに打ち明け、テオに感謝したそうです。
ちなみに前回のブログでも触れましたが、テオからの送金が周りの人間から「お情け」と認識されることを不満に思ったフィンセントは、
作品を規則則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい
という申し入れをしています。
あれですね、もはや何か開き直ってますね。
なぜテオはフィンセントを支援したのか
『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年
兄が弟を援助するならまだしも、弟が兄を金銭的に援助することに少し違和感を感じてしまうのは、私だけではないはず。
なぜテオはフィンセントを応援したのか?
それはテオが画商であったからにほかなりません。
もちろん兄弟愛もあったかもしれませんが、テオが画商として芸術に深い理解があったため支援していたのだと思います。
もしフィンセントがパン屋になると言ったらおそらく仕送りはしなかったでしょう。
また、普段から画商として画家たちと交流することがあり、画家が作品を制作するのに画材代などの経費が掛かることや、表現が認められるまで時間がかかることを知っていたのだと思います。
(個人的な憶測ですが。)
一緒に暮らすテオとフィンセント
画家になることを志したフィンセントは、家族が住む家で過ごしたり、ベルギーに移り住んで浮世絵にはまったりします。
しかし1886年、33歳のフィンセントは、前触れもなくいきなりパリでテオが住んでいる家に転がり込みます。
ちなみにテオとフィンセントは、16歳頃から頻繁に文通しています。文通しているのにいきなり転がり込んでくるとは…どっきり案件ですね。
テオは驚きますが、それまで住んでいた家ではアトリエとして使えないため、もう少し広い部屋へ引っ越しします。
優しすぎるぞ!テオ!!!!!
しかしこの同居はテオにとってはストレスフルだったようで、兄弟喧嘩の口論もしていました。テオは妹への手紙の中で兄のことを愚痴っています。
耳切り事件
1888年、フィンセントは突然アルルへ向かいます。理由は日本沼にはまっていたフィンセントが、アルルの地に日本と近いものを感じたからです。
そこで後の巨匠になるゴーギャンと共同生活を始めます。
理由はゴーギャンがお金が無かったからです。
ゴーギャンお金無いの?じゃあフィンセントと二人、テオからの仕送りで暮らせば良くね?というような感じでしょうか。
しかし2人とも一癖も二癖もある芸術家です。
次第に仲は悪くなっていきました。
芸術の方向性の違い(バンドかい)で口論をするようになります。
そこで起きたのがゴッホの耳切り事件です。
エキサイトしたゴッホは自分の耳を剃刀で切るという行動に出てしまいます。
フィンセント絶望のはじまり
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年
耳切り事件の後、フィンセントはサン・レミの療養所で一年ほど過ごします。
1890年にはパリで結婚していたテオに子供が生まれます。
しかも名前は兄と同じ名前であるフィンセントです。
これを喜んだフィンセントはテオ夫婦に絵を贈ります。
フィンセント・ファン・ゴッホ画「花咲くアーモンドの木の枝」
しかしフィンセントの症状は発作が続くなど、良くなりません。そこで画家ピサロに勧められて芸術に理解のある博士のもとで療養することになります。
博士のもとへ向かう途中、お祝いもかねてフィンセントは数日間テオ一家の家に泊まります。
そこで待っていたのは、フィンセントにとってつらい現実でした。
テオの経済的苦境
フィンセント・ファン・ゴッホ画 『糸杉のある小麦畑』1889年
テオ一家の家に泊まりに来たフィンセントにテオは辛い現実を話します。
それは、これまで勤めていたお店を辞めて独立をするため、これまでのように安定した収入が見込めなくなるということです。
実はテオはフィンセントだけではなく、実家にも送金していました。
テオの妻は自立する気配がなく、金銭感覚もない兄へ送金を続けることを受け入れられませんでした。
(当然ですね)
フィンセントのせいでテオの夫婦関係に影が落ちていたのです。
それに加え、元来病弱なテオは体調が芳しくなく、妻は病気の赤ん坊の世話で疲れ切っていました。
ここでフィンセントは悟ります。
今までのやってきたわがままはテオに通用しない。
テオには自分よりも大切な存在(家族)がある。
テオの援助がなくなったら、いったいどうすれば…
フィンセントの自殺
フィンセント・ファン・ゴッホ画 『オーヴェルの教会』1890年
絶望したフィンセントはパリから療養所に行きます。
しかし病状は良くなるどころか悪くなる一方です。
そして1890年7月、外出したゴッホは自分に向けて拳銃を発砲します。
弾は急所を外したものの、病院に運ばれたフィンセントはテオが急いで駆け付けたその夜に亡くなってしまします。
フィンセントが自殺したのはなぜか?
フィンセント・ファン・ゴッホ画 『ドービニーの庭』1890年
夢を何度も挫折し、失恋を重ね、周囲との衝突を繰り返していても、死ぬことは無かったフィンセント。
なぜ自殺してしまったのか。
やはりそれはテオにとって自分がお荷物になってしまっている現実と直面してしまったからでしょう。
唯一の理解者を失い、この世界に居場所がなくったと感じたのかもしれません。
普通とは違うフィンセントですが、「居場所がなくなった」「理解者がいなくなった」=「孤独」が理由で亡くなったところは凡人の私でも共感できる点です。
今緊急事態のため、家で自分と向き合う時間が増えてる人も多いのではないかなーと思います。なぜか一人で考え込むと、悪いほうに悪いほうにもっていってしまうのは私だけでしょうか?
人に迷惑をかけたらいけないのは常識ですが、迷惑をかけた方が良い時もありますよね。(ここはフィンセントを見習ってもいいかも)
抱え込まないのも大事なことですよね。
お正月の残りのお餅でも食べて明日も生きましょう!
なぜかフィンセントの話から最後少しそれてしまいましたが、今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考
「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)
「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)
「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)