リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

フェノロサの闇を覗く①

今日も生きてます。

 

人間はなんやかんや悪いものが好きです。(私も。)

特に他人の闇の部分ほど興味を引くものはありません。

 

という事で、今日からこの人の闇の部分についてみていきたいと思います。

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アーネスト・フェノロサ

不明 - scan by Fraxinus2 from a book, Fenollosa Yale Press 1963, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18703357により引用

 

この人の名前はアーネスト・フェノロサです。

 

昔の記憶なのであいまいですが、中学校の教科書にも明治期に日本美術を称揚した外国人として掲載されていたと思います。

 

前回高橋由一の人生を見ていく中で、由一とフェノロサとの絡みがあったのですが、なんかフェノロサの活動が少し異常だと感じました。

 

なのでフェノロサに懐疑的なスタンスのフェノロサー日本美術の恩人」の陰の部分ー』(保坂清著、河出書房新社)を参考に、フェノロサがなぜ日本美術を賞賛し、活発的にその活動していったのかみていきましょう。

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まず年表に沿ってフェノロサの人生を見ていきます。

 

1853年

アメリカ、マサチューセッツ州に生まれます。

 

1859年

ダーウィン種の起源を出版。

 

1866年

セーラム高校に進学する。母メアリ死亡。

 

1868年(日本)

神仏分離令が出されます。政府が意図していたものではありませんでしたが、各地で廃仏毀釈運動が起こり、仏教寺院・仏像・経巻が破壊されました。

 

フェノロサは1870年にハーバード大学進学し、大学院まで進み修了します。(就職口が無かったのか?)その後、神学校へ進学し退学。ボストン美術大学附属絵画学校へ入学します。

 

しかし、父マニュエルが自殺します。一家の経済を担うことになったフェノロサは、未開の地日本への就職を決意します。当時日本政府は破格の高給で外国人を雇っていました。俗にいう、お雇い外国人ですね。

 

1878年

エドワード・モースの紹介にて東京大学の就職を決意します。エドワード・モースは既に東京大学で教授として働いていて、さらにもう一人、哲学・政治の教授の推薦を依頼されていました。

 

フェノロサは開設されたばかりの東京大学で教授として働きます。進化論を説き、キリスト教徒の反感を買います。

恋人リジーと結婚します。

 

1879年

日本美術の収集に興味を持ち始めます。狩野友信、狩野永悳に手ほどきをうけます。

 

1880年

引き続き東京大学で哲学を教えます。進化論の立場からミルの自由論と共産主義を批判します。

古美術収集・調査のために京都・奈良を訪れます。

 

1881年

東京大学内で改革が起こり、契約解除されるお雇い外国人が多くなります。そんな中なんとかフェノロサは契約更新します。

 

1882年

美術収集のため、近畿地方を旅行します。

 

国粋主義団体「籠池会」の依頼により、「日本美術は世界に卓越した芸術である。」と演説します。この演説は本にもなり、「美術真説」として国粋主義普及のために頒布されました。

 

東京大学の依頼で、学位授与式の中で学生の政治への関与を諫めるような演説をします。

 

1883年

モースの友人である富豪のビゲローと、美術品収集を目的にしたと思われる関西旅行をします。

 

1884年

東京大学と三回目の契約を更新をします。

・文部省の関西古社寺調査に同行します。岡倉天心、ビゲローと共に、法隆寺夢殿を強引に開扉させます。

狩野芳崖パトロンになります。

・文部省図画調査会委員になります。

 

1885年

・美術学校創設準備の委員となります。

・ずっと収集していた日本美術のコレクションをボストンの収集家に売却し、28万ドルという莫大な利益を得ます。

 

1886年

・古美術調査のために岡倉天心狩野芳崖を引き連れ関西旅行をします。

東京大学教授から、文部省に雇い替えとなります。

・日本美術の輸出の可能性などを調査しに、岡倉天心らとともに欧米視察を命じられ、出発します。

 

1887年

帰国後、出張中に開設していた東京美術学校に雇われます。

 

1888年

近畿地方の古社寺宝物調査をします。

 

1889年

日本に自分の居場所が無くなるのを感じたのか、フェノロサは帰国を考え始めます。そしてボストン美術館と就職交渉をはじめます。

 

1890年

フェノロサ、文部省を辞任します。

そして自身の日本美術レクションを売却したボストン美術館に東洋部長として就任します。

 

1894年

フェノロサ、助手のスコット夫人と不倫し、スキャンダルが広まります。

 

1895年

ジーと離婚し、メアリ・スコットと結婚します。フェノロサ、莫大な慰謝料を抱えます。

 

1896年

ボストン美術館に無断で日本浮世絵目録を出版します。

これによりボストン美術館理事会と対立し、東洋部長を辞任します。

日本に向かい、岡倉天心に就職を依頼するも無理筋であった。

 

1897年

懲りずにまた来日。

昔のつてを頼りに岡倉天心や、他の人に就職を依頼するが無理筋であった。

 

1898年

おそらく教え子の誰かが融通を利かして高等師範学校非常勤講師になります。

 

1900年

高等師範学校講師解任されます。

日本を離れます。

 

1901年

手元に残っていた日本美術コレクションを富豪フーリアに約一万ドルで売却します。

 

1902年

富豪フーリアにさらに所有していた日本美術のコレクションを5000ドルで売却します。

 

1906年

フェノロサ、フーリアコレクションの整理に没頭します。

 

1908年

心臓発作でロンドンで死亡。55歳でした。

 

1909年

遺骨が三井寺法明院に埋葬されます。

 

 

 

 

ざっとフェノロサの年表を見てみましたが、いかがでしたでしょうか?日本美術の保護を唱えたともいわれるフェノロサが、日本美術品を収集し、それを外国に売却して莫大な利益を出していた側面もあるのは事実なわけです。

 

それに加え、なんだか国粋主義を広げて国内統一を図りたい政府寄りのあざとい(?)活動がみられるような感じがしなくもないです。

 

 

次回からはそのあたりを深堀していきたいと思います。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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