法隆寺夢殿を無理矢理開帳させた?ーフェノロサの闇を覗く③ー
今日も生きてます。
人生で一番爽快だった出来事って何ですか?
私が自分の人生の中で爽快だったのは…
ゆで卵の殻がつるんっと剥けたときですかね。(規模が極小。)
前回から取り上げてきたフェノロサにも
「実に一生の最快事であった」
とすることがあるようです。
それはなんであったのか?「フェノロサー「日本美術の恩人」の影の部分ー」(保坂清、河出書房出版)を参考に見ていきましょう。
フェノロサの美談の一つとして200年開けられていなかった法隆寺夢殿の秘仏を開けさせたことがあります。今は春と秋、年に二度開帳されています。
663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1299518により引用
明治14年、国の後ろ楯を持って法隆寺へ調査しに行ったフェノロサ。役人であった岡倉天心も同行しています。何故か日本美術を収集したいと思っていた富豪のビゲローも、全くの無関係なのに「友達」ということで同行しています。
Heliotrope Printing Co. - Portraits of the Class of 1871, Taken at Graduation and in Later Life (1896), Boston, The Heliotrope Printing Co., 1896, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39316440により引用
不明 - 茨城県天心記念五浦美術館蔵, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4048813により引用
フェノロサの著書「東亜美術史綱」の中で法隆寺の不開扉の秘仏を開いた部分を引用します。
私は中央の政府から身分証明書を携行していたので、社寺の倉や厨子を開くことを公に要求しうる立場にあった。八角の夢殿の中央部には大きな閉ざされた厨子が安置され、空にそそり立つ柱のような感じがした。法隆寺の寺僧によると、厨子の本尊は推古朝の半島伝来の仏像という寺伝があるが、二百年ものあいだ、この厨子は開かれたことがないということであった。このようなユニークな宝物を目前にして興奮した私どもは、あらゆる言葉を用いて厨子を開くように寺僧に要求した。しかし開扉の罰として、おそらく地震が起こって寺が壊れてしまうといって寺僧たちは抵抗し、容易に承服しなかったが、ついに我々が勝利を収めた。
率直な私の感想としては、フェノロサひどくないですか?
(鬼畜降臨)
人命救助というわけでもないし、一つの集団が大事に保管して守っているものを、政府が介入していい必要性はないと考えます。日本の伝統を尊重している人間がとる手段ではないように感じます。しかも「勝利を収めた」という表現が気に食わん。人の思いを踏みにじる行為が快かったのでしょうか。
そもそも何でフェノロサに対してこのような権限を政府が与えたのでしょうか?
当時の日本の背景を確認します。
フェノロサが来日していた明治10年前後の日本は、維新政府が天皇制を基軸にした国体を築こうとしていました。しかし、外国との不平等条約・国内の自由民権運動・続々上陸するキリスト教宣教師…問題は山積み。
それに加え、イギリス・フランス・アメリカなどの列強が、日本を植民地にしようと思惑をめぐって直接的行動を起こしかねている緊張感のある時期でした。
欧米との格差を知った岩倉使節団より、維新政府は早急に列強と並ぶ近代国家になるために、様々な分野に「お雇い外国人」を招きます。外国の技術を必要としていた半面、列強に対抗するため、国民が日本国民として一つになる必要性もありました。
廃仏毀釈運動で破壊されたり、経済に窮した名家から日本のお宝が流出したりしてました。そこで伝統的な日本の文化財を守る法律が作られます。
そもそも日本に何があり、何を保護するべきか?それの調査をフェノロサが担っていたのです。
ちなみに当時の在日外国人の間で日本美術を収集する熱気はあったようです。フェノロサの前にお雇い外国人として来日していたモースは陶磁器を集めまくっていました。
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=976475より引用
美術に詳しくない外国人でも、日本の陶磁器や浮世絵が欧米で人気があることは周知の事実(高く売れる)で、お土産程度に買っていく人は多かったようです。
今日はここまで。次回に続きます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。