続々々・カラヴァッジョー巨匠の犯罪記録ー
今日も生きています。
今日はカラヴァッジョの犯罪について紹介したいと思います。犯罪を知ったところで絵を見る糧にはならないかもしれませんが、こんな罪を重ねた人間が神聖な作品を描いていて、教会に飾られていて鑑賞者に今もなお感動を与えていることが、芸術作品の不思議と、人間の複雑さを感じさせます。
1600年以降警察記録にカラヴァッジョは頻出します。
1600年
棍棒で夜画学生に襲い掛かる
1602年
サンタンジェロ城守備隊の軍曹を仲間とともに剣で斬りつける
1603年
バリオーネ裁判で被告となる
1604年
モーロ食堂給仕の顔に皿を投げつけ負傷させる
職務質問した警官に石を投げ収監
警官を侮辱し逮捕
1605年
武器不法所持で逮捕
ラウラという女性とその娘を侮辱したと訴えられ収監
レーナという女性を巡って公証人をナヴォーナ広場で夜に背後から斬りつけ逃亡。
ボルゲーゼ枢機卿の調停で和解したものの、留守中に荷物の差し押さえに怒り、家主の窓に石を投げつけて鎧戸を壊す。
宿なしになった画家は何者かによる刀傷を負って友人宅で休んでいるのを発見される。
トマッソーニを殺害して「死刑宣告」を受ける
1608年
マルタ騎士団への入会を許可されるが、身分の高い騎士を襲撃し逮捕幽閉される。
1609年
居酒屋で何者かに襲われ瀕死の重傷を負う。
1610年
熱病に倒れ死去。
カラヴァッジョが受けた死刑宣告は、見つけ次第殺害してもいいという厳しいものでした。
イタリア半島では中世以来諸外国が領地を巡って戦闘を繰り返していました。ローマを中心とする教皇権力はそれらの絶妙なバランスで成り立っていました。カラヴァッジョが生きていた頃のイタリアは、フランスとスペインが大きな力を行使しており、カラヴァッジョはたまたまフランス派のパトロンに好まれていました。
カラヴァッジョが殺害したトマッソーニはスペイン派の貴族の用心棒であり、カラヴァッジョ一味とトマッソーニ一味の対決は、フランス派対スペイン派の対立を反映していました。
しかも事件の少し前にスペイン派のパウルス5世が即位したことも含め、カラヴァッジョの殺人は必要以上に騒ぎが大きくなり最も厳しい処罰が下されたようです。
死刑宣告が出た後のカラヴァッジョは描いては逃げを繰り返します。明日はその時期に描いた作品をみたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。