リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

虎渓三笑図ーなぜ笑っているの?ー

今日も生きてます。

 

 


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↑は曾我蕭白の「虎渓三笑図」です。

 

画面には連なって歩く三人のおじ様。

 

曾我蕭白は別のバージョンも描いています。


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↑虎渓三笑図 インディアナポリス美術館蔵

 

この表情に注目。

 


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にっこにこー!(^o^)

 

とっても楽しそうですね。

 

 


題名の「虎渓三笑」(こけいさんしょう)は、日本では「物事に熱中し、他のことをすべて忘れてしまうこと」を意味する四文字熟語としても使われます。

 

 

まずはおじ様たちが何者か?というところをみていきます。

 

 

⚫おじ様たちのプロフィール
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慧遠(えおん334年- 416年)

中国の東晋、廬山に住んだ仏教の高僧


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↑廬山の慧遠・『晩笑堂竹荘畫傳』より

 

21歳で出家します。各地を転々とした後、尋陽郡柴桑県で廬山に入ります。

 

それ以後30年程、一度も山を出なかったそうです。

 

402年、慧遠は同志123名とともに、廬山山中・阿弥陀仏像の前で、念仏実践の誓願を立て、これによって、慧遠は白蓮社の祖と仰がれました。

 

新出の経典についての疑問点等をただした書簡集が『大乗大義章』や、仏法は王法に従属しないことを説いた『沙門不敬王者論』などを唱えました。

 

 

 

 

 

陶淵明(とう えんめい、365年 - 427年)

中国の魏晋南北朝時代東晋末から南朝宋の文学者です。
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江州祭酒、主簿(記録官)、江州刺史に仕えた仕事、幕僚、県令等…様々な職を転々とします。

しかしどれも長く続きません。

 

結果的に郷里の田園に隠遁し、農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残します。

 

廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「尋陽の三隠」と称されました。

桃源郷のもととなった作品をつくった人です。

桃源郷 - リアル絵描き日記

 

 

 

 

陸修静(りくしゅうせい406年‐477年)

劉宋時代の道士

 

明帝に請われ、著述とともにさまざまな道教系の経典を蒐集整理しました。

 

道教の基本経典「三洞」を定め、『三洞経書目録』を作成します。

 

道教の儀軌を制定して道教教理の確立に努めました。

 

 

⚫おじ様たちは何に夢中になっていたのか?

 

俗世を離れて慧遠は東林寺に入山していました。

 

そして虎渓と呼ばれる渓谷にかかる石橋からは先へはでないと決めていました。

 

そんなある日、慧遠のもとへ陶淵明と陸修静が訪ねてきます。

 

二人が帰るとき、二人を見送った慧遠は話に夢中になるあまり、渡らないと決めていた石橋を渡ってしまったことに気がつきます。

 

それに気がついた三人。

大爆笑。


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これが四文字熟語としても使われている虎渓三笑の故事ですが、実際の事実ではありません。

 

 

 

慧遠仏教

 

陶淵明儒教

 

陸修静道教

 

を象徴しています。

 

これは三教一致(三つの教えが根本的には一体であること。)を表す、画題として描かれました。

 

三人一緒にわっはっはと笑う姿が、宗教は違えど真理はひとつということを表現しています。

 


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池大雅「虎渓三笑」

 

 

偉人が時代を越えてひとつの空間に終結しているのは創作物ならではの面白みです。

個人的には漫画「聖☆お兄さん」(※キリストと仏陀が現代に日本で暮らす話)を思い出しました。

 

きょうはここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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雅!蘭亭曲水図

今日も生きてます。

 


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庭園のなかに色鮮やかな着物を着た人々が転々と座っています。

 

これは何をしている様子かというと、「曲水の宴」と呼ばれるものです。

 

曲水とは曲がりくねって流れる小川のこと。

宴はパーティーですね。

 

 

その宴の内容とは、

 

庭の小川の淵に参加者たちが座り、上流から流されてくる酒杯が、自分の前を通過しないうちに詩歌を作って杯を取って飲み、次の人へと順に流していくというもの。

 

後に別堂で催される宴にて各人の作品を読みあげます。

 

 

どうですか?

写真の様子と宴の内容を聞いただけで、超雅な感じがしますでしょ。

 

実際に3月頃になると国内の神社や庭園で行われています。

 

 

 

この曲水の宴はもともとは古代中国で行われていた禊の儀式でした。

 

書画界の有名人で、書聖と呼ばれる・王羲之(おうぎし)の傑作「蘭亭序」は、この曲水の宴のことを書いたものです。

 


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王羲之


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『蘭亭序』(神龍半印本、部分)

 

 

この宴は日本にも奈良時代には伝わり、平安時代には貴族の年中行事となります。

 

そして絵の画題「蘭亭曲水」として、描かれるようになります。

 


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人物がコロンとしたシルエットのせいか、川の回りに人形を置いているような気分になります。

私だけかな。

 


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御常御殿の襖絵に描かれた曲水の宴(京都御所

 

先輩画家の蘭亭曲水の絵を手本に、後の画家が蘭亭曲水を描く…

 

ということが繰り返されるうちに庭の小川ではなく、本物の小川になったりと、もとの逸話の風景からは離れていきました。

 


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↑は与謝蕪村の「蘭亭曲水図屏風」

 

庭園というより大自然のなかに人々が座っています。

かかれた文章は王羲之の「蘭亭序」です。

 

 

 

お酒も詩も嗜まない(無教養涙)私からすると雲の上の宴です。

お酒の代わりいろはすでいいから参加してみたい。

 

 

きょうはここまで。

最後まで読んでいただきますが。

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桃源郷

今日も生きてます。

 

風が強いです。

 

 

 

さて、今日も「漫画でわかる日本絵画のテーマ」(監修矢嶋新)を読んでます。

 


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↑の図は富岡鉄斎の、「武陵桃源・蓬莱仙境図屏風」です。

 

絵の内容は風景で、田園が広がっていて癒し系(?)な絵ですね。

 

上の作品は武陵桃源(ぶりょうとうげん)

 

下の作品は蓬莱山(ほうらいさん)

 

が描かれています。

 

蓬莱山は中国で仙人たちが住んでいたとされる秘境です。

 

武陵桃源は、古代中国の詩人・陶淵明(とうえんめい)の作品「桃花源記」の中に出てくる異境です。

 


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陶淵明

 

「桃花源記」のあらすじは、中国の武陵に住む漁師が舟にのり、川で迷うところからはじまります。

 

漁師はいつの間にか桃の木だけの林にたどり着き、水源に山を見つけ舟を降ります。

 

山に人が通れるほどの穴があり、そこを入っていくと美しい村にでました。

 

整備された田畑があり、そこで住んでいる人に聞くと、秦の時代に戦乱を避けて逃げてきて、それ以来ここを出ていないと言います。

 

丁重なもてなしを受けて漁師は村を出ますが、その後探してもその村へいくことはできませんでした。

 

 

 

日本語の「桃源郷」の由来にもなっています。

 

戦乱から解放されて、自由な人々の暮らしが桃源郷だったのですね。

 

私が持っていた桃源郷という言葉のイメージとは少し違うようです。

(ピンク色の綿菓子の雲、とカラフルなお菓子の家々の間をパステルブルーの光るユニコーンが闊歩しているイメージ)

 

 

中国では文人画の画題として、日本では南画の画題として描かれました。

 


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明の仇英の桃源仙境図

 

 


シャングリ・ラとかユートピアとか桃源郷とか、異境を示す言葉ってたくさんありますが、それぞれどんなものかは違うんですよね。

 

しかし、なぜかそのすべてに心踊る自分がいます。

 

逃げたいのかな…

 

 

 

きょうはここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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韓信の股くぐり

今日も生きてます。

 

順調に「漫画でわかる日本絵画のテーマ」(監修矢島新)を読み進めています。

 

 

今日の1枚↓


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これは3代目堤等琳(つつみとうりん)が江戸時代後期に描いた韓信股くぐり図」

 

3代目を襲名したときに浅草寺に奉納した絵馬とされています。

 

なにも知らずにこの絵を見たら、真ん中の人が複数人にいじめられてる図。にみえますね。

(私は見えました。)

 

 

絵のなかで四つん這いになっているのが、題名にもなっている韓信(かんしん)です。

 

足を大きく広げた男の股下を潜ろうとしています。

 

 

歌川国芳も同じ画題を描いています。


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国芳の場合は一人の股下ではなく、何人も揃って股くぐりトンネル方式で表現しています。

 

 

なぜこのような画題が描かれたのか…?見ていきたいと思います。

 

 

 

韓信の人生


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韓信は漢の初代皇帝に仕えました。

漢の天下統一に貢献した名将です。

 

韓信は若い頃から頭角を示していたわけではなく、貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活をしていました。

(ひどい…)

 

なので町の人は皆韓信を見下していました。

 

 

ある日韓信は町のならず者に挑発されます。

 

「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」

 

 

韓信は黙って若者の股をくぐります。

 

周囲の者は韓信を大いに笑いました。

 

韓信がなぜ剣を抜かなかったのか

 

「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」

 

と冷静に判断していたのでした。

 

この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになります。

 

さて、世の中では秦の始皇帝の没し、大規模な動乱が始まりました。

 

ブラブラしていた韓信も、朗中(護衛官)や連敖(接待係)等として働くようになりますが、どこへいっても韓信は自分の能力が生かされていると満足することができませんでした。

 

そしてある時罪を犯した韓信は、同僚13名と斬刑に処されそうになります。

 

たまたまその場に漢の王の重臣がいたので、

 

「漢王は天下を取る大望があるのではないか?ならば、なぜ男一匹の首を斬るのだ!」

 

と、韓信は最後の望みをかけて言います。

 

その言葉を面白く思った重臣は、韓信を漢の王に推薦しました。

 

この重臣との出会いで韓信の人生は一変します。

 

韓信と話し合うにつれてその才能を認めた重臣韓信を重用するように漢の王に説得し、韓信は大将軍として働きます。

 

その後、数々の戦を知恵と勇気で乗り越え、漢を大国へ導いた韓信は、武将として影響力のある存在になります。

 

そして最終的には若いときにブラブラしていた頃食事を与えてくれた人に金銭でお礼をし、股下を潜れといったならず者たちには職を与えました。

 

この事から、「韓信の股くぐり」は、大志あるものは目の前の小さな事にとらわれず堪え忍ぶべしという格言になりました。

 

歌川国芳の作品は「心学推絵得(しんがくおさなえとき)」という連作のうちの一枚で、「ならぬ堪忍するが堪忍」という題名です。


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「心学推絵得」は、心学と呼ばれた道徳や教訓を子供に分かりやすく伝えた教材のようなものです。

 

 

 

ちなみに、その後の韓信はどうなったのかというと…

 

力を蓄えすぎた韓信は、漢王から恐れられるようになります。

そして色々な謀略のもと、謀反の罪で捕らえられ、殺されてしまいました…。

 

 

 

韓信は一時期、斉という国の領地を治め、漢や楚と戦える力かあるとき、部下から

 

「あなたは今漢を裏切って楚と組まないと、いつか漢王に殺されてしまう」

 

という忠告を受けます。

 

しかし、韓信はそれを

 

「漢の王にはいろいろ良くしてもらったから…」

 

と意見をはねのけたことがありました。

 

 

 

韓信の最期を知ると、韓信の人生から学ぶことは堪忍だけではないなあと感じた明石です。

 

 

きょうはここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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太公望ー釣りキチ三平ー

今日も生きてます。

 


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↑は尾形光琳が描いた「太公望」です。

 

装飾的な絵の中で、老人が物思いに耽りながら足の裏をポリポリ掻いてます。

 

老人は人呼んで太公望(たいこうぼう)。

中国の偉人です。

 

 

時は紀元前11世紀頃、今の中国には殷という国がありました。

国王である紂王(ちゅうおう)は、民に重税をかける一方で、愛人の妲己に望むものを与え、酒池肉林の贅沢三昧をしていました。

 

黄河の支流のひとつ・渭水(いすい)では、80歳も近い白髪の老人が、釣糸の先にまっすぐな針を垂らし釣りをしていました。


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そこに狩りにでかけていた姫昌(きしょう)が通りかかります。

実は狩りに出る前の占いで、獣ではなく人材を得るとでていました。

 

二人は語り合い、姫昌は「吾が太公(=祖父)が待ち望んでいた人物だ。(占いのやつだ!)」と喜びます。

 

そして姫昌はその老人を太公望と呼び、軍師として迎えました。

 


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その後太公望は軍師として活躍し、殷は滅びます。

功績が認められた太公望は、斉(国)の統治をし、強国に育てます。

 

 

この逸話から太公望は釣りをしている姿で絵画に登場します。

 

 

ちなみに太公望がもととなっている言葉で今の日本でも使われているものがあります。

 

 

「覆水盆に返らず」

※一度起きてしまったことは二度と戻らない

↓↓

太公望が姫昌に出会う前に別れた妻が、軍師として活躍した後に復縁したいと申し出てきたときに、太公望は盆の水をこぼして「この水を元に戻せたら復縁に応じよう」と言った事が由来。

 

 

「虎の巻」

※教科書等の参考書や、芸事や兵法などの秘伝書

↓↓

太公望が著した兵法書六韜」(りくとう)の中に有名な「虎の巻(虎韜)」があり、慣用句にもなった。

 

 

 

太公望というと日本では釣り好きの人の代名詞としても使われます。

 

秋田のバスで釣りキチ三平が描かれている三平バスなるものがあります。

 

正直釣りキチ三平を読んだことはないのですがダイナミックにバスの車体に描かれた三平が印象的でよく覚えていました。

 

あのバスまだ走ってるんだろか…?

 

 

きょうはここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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寿老人、福禄寿、キャラが被ってるぞ

今日も生きてます。

 

先日それぞれ離れて住む姉妹で集い食事をしました。

 

秋田に住んでいた子供の頃、こんな風に年を取っていくことなんて想像つきませんでした。

 

みんな大人になっていくんだなあと思います。

 

気持ちは22歳。(気持ちだけ!

 

 

さて、七福神について見てきました。

その一

七福神巡りの由来ー七福神スイーツ巡りー - リアル絵描き日記

その二

恵比寿さまってどんな神様? - リアル絵描き日記

その三

大黒天を知る - リアル絵描き日記

その四

http://akashiaya.hatenadiary.jp/entry/2019/09/17/102805

その五

弁財天 With 蛇おじ様 - リアル絵描き日記

 

布袋さまについてはブログで以前取り上げました。

 

その六

布袋様は実在した人間だったの? - リアル絵描き日記

 

福禄寿についても以前取り上げました。

 

その七

頭の長いおじいさんー福禄寿ー - リアル絵描き日記

 

 

 

 

そして今日は七福神メンバー紹介の最終回として、寿老人についてです。


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こちらのお方です。


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白髪のお髭が素敵な寿老人(じゅろうじん)ですが、健康・長寿・幸運・招徳人望・富貴栄達(ふうきえいだつ)などのご利益があります。

 

 

 

寿老人の由来となっている神様

 

寿老人は福禄寿と同じく中国由来の神様です。

その源流には道教の思想があります。


道教で説かれる人生の三大目的

幸福(実の子に恵まれること)

封禄(財産のこと)

長寿(健康を伴う長寿)

 

ここから明時代以降に福星・禄星・寿星を信仰する三星信仰」というものが広まりました。

 

中国では春節に「福・禄・寿」をそれぞれを象徴した3人の神の姿が描かれた絵「三星図」を飾る風習があるそうです。

 

 

実は七福神の一員である寿老人はここから来ています。

 

寿星を表現したものが寿老人です

 

 

中国で、寿星は実際にある恒星カノープスであるとされています。

 

カノープス(恒星)のことを中国語では南極老人星と呼ばれています。

 

中国でこの星が見られることは少なく、この星は平和な時代にしか現れないと言われました。

 

 

寿星=南極老人星

寿老人=南極老人星の化身である

 

 

寿星が南極老人星であるということになると、南極老人星の化身であるという事になります。

 

 

 

 

 

寿老人のイメージ

七福神の中の寿老人は、杖やうちわを持ち、長寿と調和を表す牡鹿を連れた姿で描かれます。


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三星図(福星・禄星・寿星)」の表現では、擬人化だけではなく、「鶴・鹿・桃」や、「コウモリ・鶴・松」などを3つ一組で描いたものもありました。

 

それの名残(?)が寿老人と一緒に描かれているのでは…?と思います。(明石推測)

 

 

⚫福禄寿とキャラが被ってる問題


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狩野深信「寿老人」↑

 

 

ところで、七福神の中に福禄寿がいますね。

 

パッと見、寿老人とキャラ被ってますよね。(正直)

 

実は福禄寿も寿老人も源流が同じなんです。

 

福禄寿は中国の「三星信仰(福星・禄星・寿星)」が、日本へ伝わる中で出てきた神様です。

 

福禄寿はもともと三人一組で描かれていた三星図が日本で一人になってしまったもの。

 

 

福禄寿と寿老人のキャラが被ってるのは当たり前です。

 

何故なら実際に被ってるから!

 

 

そのため福禄寿と寿老人のイメージは明確に分かれているわけではなく、混同されています。

 

 


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喜多川歌麿七福神座敷遊び」

 

七福神メンバーを見てきましたが、どうでしょうか?

 

私は今まで七福神は、宝船に乗ってる7人ぐらいのイメージしか持ってなかったのですが、それぞれ個性的な神様だったことがわかりました。

 

これから七福神の像を見たら親しみをもってお参りすることができそうです。

 

 

最初に寿老人はこのひと!ってしたけどこっちかな…?


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ややこしいぞ!

 

 

 

きょうはここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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弁財天 With 蛇おじ様

今日も生きてます。

 

七福神外は何者?シリーズが続いています。

その一

七福神巡りの由来ー七福神スイーツ巡りー - リアル絵描き日記

その二

恵比寿さまってどんな神様? - リアル絵描き日記

その三

大黒天を知る - リアル絵描き日記

その四

毘沙門天ー北山たもんー - リアル絵描き日記

 

 

それぞれいろいろな神様が由来となっていることがわかりました。

 

 

そして今日の神様は、この中のこの人。


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歌川国貞・溪斎英泉・歌川国芳合作「宝船」

 


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弁財天です。

 

 

諸芸上達、美、知恵、財福など、広範囲に渡ってご利益がある神様です。

七福神の中では紅一点です。

↑の浮世絵のなかでも艶っぽく描かれていますね。

 

 

 

 

弁財天の由来

 

七福神は様々な神様が由来となっています。

弁財天の源流を辿りましょう。

 

 

 

ヒンドゥー教サラスヴァティー


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サラスヴァティー(ラヴィ・ヴァルマ/画)

 

サラスヴァティー水の女神です。

次第に芸術・学問などの知を司るようになります。

 

仏教に取り入れられる

 

・中国で仏教の弁才天

5世紀の中国に仏教経典スヴァルナ・プラバーサ・スートラを漢訳した『金光明最勝王経』の中に弁才天が出てきます。

 

ちなみに弁才天という名前はサラスヴァティーを意訳したもののようです。

※流れる水から弁舌さわやかであるとの連想から「弁才天

 

8本の手に、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索(投げ縄)を持つされています。

(全部武器の類いです…!)

 

同弁才・知恵の神としても描かれていますが、像では鎮護国家の戦神としての姿が強調されました。

 

 

日本へ

 

・日本で弁才天、弁財天、そして福の神へ


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弁才天立像(8臂像)

 

日本で最初は国の守護を祈る神様として信仰を集めます。

中国の鎮護国家の戦神としての弁才天の影響が強かったのですね。

 

日本の神社や寺院に残る弁財天の仏像は、8本の腕に強そうな武器を持つ「八臂弁才天像」の姿が多いです。

 

 


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弁才天坐像(妙音天)岩手県盛岡市・松園寺

そして平安時代ごろより民衆の間でも信仰が広まっていきます。

 

弁才天密教では妙音天と名前を変え姿を表しています。

密教曼荼羅には、元のサラバスティーに近い姿である琵琶を持つ妙音天の姿が描かれており、密教が広がると同時に琵琶を持つイメージも広がっていきました。

 

 

弁才天の財宝神としての性格が強調されるようになると、「才」の字を「財」にし、「弁財天」と記されることも多くなりました。

 

そして七福神の仲間入りをしました。

 

 

 

 

弁才天の頭の上の蛇おじ様

 

弁才天を調べていて面白いなあと思ったものそれが↓


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弁才天坐像(宇賀弁才天
滋賀県 竹生島宝厳寺(1565年 浅井久政奉納)

 

頭部のアップ


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頭上に鳥居とおじ様が乗っかっています!

 

 

川の神様であった弁才天が、日本の中の水に関するの神様(海上神の市杵嶋姫命など)と神仏習合します。

 

 

像の頭の上のおじ様も実は神様です。


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↑老翁の頭部を持つ宇賀神

 

名前は「宇賀神」。

人頭蛇身でとぐろを巻く形で表され、頭部は老翁や女性であったりバリエーション豊か。

 

弁才天神仏習合し、まさかの頭上へ。


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弁才天坐像(個人蔵、鎌倉時代

 


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いいなあ…面白いなあ。

 

このように、頭上に宇賀神をのせている姿の弁才天を宇賀弁才天と呼ぶそうです。

 

 

仏教の仏像は顔や腕が多かったり、頭の上に頭をのせていたり、出自である経典を知らないものからしてみたら驚くものが多いです。

 

 

宇賀弁才天をみてなんとなくチョウチンアンコウを思い出したあかしでした。

(少し違うか。)

 

 

今日はここまで

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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