シャガールの聡明な妻ベラ
今日も生きてます。
モチーフで参考にしようと鏡を組み立てています。
大学在学中に額つくりのために買ったガラスをカットする道具
一回使ったきりでもう使わないと思っていたら今回鏡を切るときに活用できました。
これをガラスの上にすべらせ、溝をつくります。
そしてパリっと綺麗に割ることができます。
こんなものでガラスが切れるなんて不思議な道具です。
使わないとすぐものを捨ててしまいがちですが、これは捨てないでおこう。
マルク シャガール
Marc Chagall(1887-1985)
様々な前衛スタイルとユダヤ文化を融合した表現をした。絵画のみならず、本・イラストレーション・ステンドグラス・舞台デザイン…など、さまざまなジャンルで活動した。
1887年
旧ロシア(現・ベラルーシ共和国)の町ヴィテブスクで敬虔なユダヤ人の両親のもと、9人兄弟の長男として生まれます。父は鰊商人の店で働き、母は小さな食料品店を営み、貸家を持っていました。どちらかというと貧しい家庭であったそうです。
1907年
サンクト・ペテルブルクの美術学校に入学します。
成績優秀により、奨学金を得るます。
1909年 22歳
後に妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会います。
シャガール画「私と村」
シャガール画「ロシアとロバとそのほかのものに」
出典:「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」
(早坂優子著、株式会社視覚デザイン研究所発行)
1910年
パリに出て、アカデミー・ジュリアンに通います。
1911年 25歳
集合アトリエ「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」に移り住みます。
出典:「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」
(早坂優子著、株式会社視覚デザイン研究所発行)
1914年
ベルリンのシュトルム画廊で初個展開催します。
一次帰国のつもりでヴィテブスクに帰郷しましたが、第一次大戦が勃発してしまい、留まります。
1915年
ベラ・ローゼンフェルトと結婚します。
1916年
娘イダが生まれます。
1919年 30歳ヴィテブスク美術アカデミーで教鞭をとります。しかし幾何学的な抽象絵画を提唱した同校教授のマレーヴィッチたちに追い出されます・
舞台美術を手掛けるようになります。
1922年
ソビエト政府の革命政策に失望し、一家でパリに移ります。
1923年
ゴーゴリーの「死せる魂」
ラ・フォンテーヌの「萬話」の銅版画を制作
1926年
アメリカのニューヨークで初めての個展が開催されます。
1933年
バーゼルの美術館で大規模な回顧展が開かれます。
ドイツでナチスの勢力が拡大します。
ナチスにより、シャガールの一部の作品が退廃芸術として焼却されます。
1937年 50歳
フランス国籍を得ます。
1941年
ナチスの迫害から逃れるために渡米し、フランス国籍を剥奪されます。
1944年
妻ベラが亡くなる、悲嘆のため数ヶ月の間、シャガールは筆を絶ちます。
1946年
ニューヨーク近代美術館において大回顧展開催します。
シャガール画「青いサーカス」
出典:「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」
(早坂優子著、株式会社視覚デザイン研究所発行)
1947年
パリの国立近代美術館で回顧展が開かれます。戦後初めてパリを訪れます。
1948年
第24回ヴェネチア・ビエンナーレで、版画部門のグランプリ受賞します。アメリカを去り、パリに戻ります。
1952年
ヴァンディーナ・ブロッキー(ヴァヴぁ)と知り合い、結婚します。
1960年
フランス文科大臣アンドレマルローから、パリのオペラ座の天井画を依頼されます。
1963年
1964年
パリのオペラ座の天井画を完成させます。
1967年
生誕80周年記念でチューリッヒ、ケルンで大回顧展を開催します。
1976年
東京国立近代美術館で個展開催します。
1977年
ルーヴル美術館で大統領の出席を得てシャガール展が開催されます。
1985年
サンポールドヴァンスの自宅で死去です。
97歳でした。
シャガールの妻ベラは宝石商を営むローゼンフエルト家の末っ子として生まれます。
比較的裕福な家でした。
ベラはシャガールより8歳年下です。
二人が出会ったのは1909年。
ベラは13歳、シャガールは22歳でした。
シャガールは女友達の家に遊びに行ったときにたまたま訪ねてきたベラに会います。
二人とも運命的なものを感じたらしく、お互いロマンチックに出会ったときのことを回想しています。
「彼女の沈黙は私のものだ。彼女の眼は私のものだ。まるで彼女は私をずっと以前から知っているようだった。私の少年時代も、私の将来も、すっかり知っているようだった。私は初めて彼女に会ったのに、彼女が私の最も近くにいて、私を見はっていくように思われた。/私は、彼女こそ私の妻になるのだと感じた。/彼女の青白い顔、彼女の眼。その目は大きく、丸く黒かった!それこそ私の眼だ。私の魂だ。」
ベラ
「私はいつも夢見ていたんだわ、きっといつかひとりの絵描きに心をとらえられるんだろうって。その人は心で絵を描く画家でなければならない。」
二人ともロマンチックですね。
シャガールが「彼女に沈黙は…」と言っていますね。ベラは子供の頃だんまりやの王女様と呼ばれていたそうです。
後にシャガールロシアを出てパリに行きます、そこで努力を重ね、ユダヤ同胞の有力者の援助を得られるようになります。
その間、ベラはモスクワで学び、女優志望でしたが、シャガールとの結婚を優先し、舞台の夢は捨てました。
しかしベラの両親は二人の結婚を歓迎してません。
1914年に結婚した二人には一人の娘が生れます。
結婚生活の中、ベラはシャガールに重要な意見をしました。
1917年にロシア革命が起きた後、文化省の設立が決まります。シャガールが美術の局長に任命されますが、ベラの強い反対をうけてこれを辞退します。
後に詩の局長は自殺し、舞台の局長は「反革命」の烙印を押されて処刑されました。
また、ベラはシャガールの作品の完成を見極め、タイトルの選び手でもありました。
シャガールは対人関係ですぐ癇癪を起してしまったそうです、そんなシャガールの支えとなったのは適切な判断力と、直感的な鋭さを持つベラです。
ベラは年下でしたが、頼りになる奥さんだったんですね。
ベラはシャガールより先に亡くなってしまいます。
ベラが亡くなる2、3週間前、避暑先の一室で、書きかけの原稿やメモ、コピーを整理しはじめました。
ぎょっとして理由を尋ねるシャガールに、ベラはあなたが全部わかるようによ。と答えました。
ベラが亡くなった後、シャガールは家政婦のヴァージニアとの間に子供をつくります。結婚はしませんでした。
後にヴァレンティ―ナ・ブロドスキーと再婚します。
二人の出会ったときの回想はとってもロマンチックです。
初恋で結婚なのかな?
いいですね。(デスティニー!
個人的にはシャガールの絵は好きです。
物語のような感じで…色合いも独特ですよね。(灰色!
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。