リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

岸田劉生と妻蓁(しげる)の人生

今日も生きてます。

 

「画家たちの妻」(澤地久枝著、文藝春秋)から、岸田劉生と妻蓁についてとりあげます。

 

岸田劉生の作品は故郷秋田で中学校の頃みたことがあります。

 

たしか平野政吉美術館だったかな。

蒐集家の平野政吉のコレクションを所蔵している美術館です。

 

(ちなみに東京である画商さんにそのことを話したら、「昔売りに行ったことあるよ!今は没落したねぇ(しみじみ)」といわれました。画商さんというのは大体日本の収集家のことは把握しているものなんですね。)

 

もう閉鎖された美術館ですが、今平野コレクションは秋田県立美術館に所蔵されています。

 

確か岸田劉生の素描だったと思うのですが、描かれた内容が中学生にとってショッキングだったのでよく覚えています。

全然人いなくて薄暗くてじっとりしていて良い美術館だったな。

 

もう一度見たいのですが、あの作品はどこに所蔵されたのでしょうか…。

 

 

 

 

 

岸田劉生

1891ー1929

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出典:岸田劉生 - Wikipedia

大正から昭和初期の洋画家。娘を描いた麗子像が有名。

 

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岸田劉生画「童女図/麗子立像」(1923年,神奈川県立近代美術館)

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岸田劉生画「二人麗子図(童女飾髪図)」1922年。

 出典:岸田劉生 - Wikipedia

 

 

 

1891年(明治24年

薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の四男として東京銀座に生まれます。

 

東京高師附属中学中退後、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。

 

黒田清輝については以前ブログでも取り上げました。

黒田清輝について。-裸体問題?腰巻事件?明治のアートスキャンダル- - リアル絵描き日記

 

 

 

1910年(明治43年

文展に2点の作品が入選します。

 

 

 

1911年(明治44年

『白樺』主催の美術展がきっかけで『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになります。

 

 

 

1912年(明治45年)

ヒュウザン会を結成します。

第1回ヒュウザン会展には14点を出品しました。

(この展覧会は2回で終了しました。)

 

鏑木清方日本画を学んで同展覧会を観覧に来ていた小林蓁(しげる)と翌年7月に結婚をする。

 

 

 

1914年(大正3年

娘の麗子が誕生します。

 

 

 

1915年(大正4年

現代の美術社が主催する第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品します。

草土社は以降9回の展覧会を開きますが、劉生はすべて出品しました。

 

 

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岸田劉生画「道路と土手と塀(切通之写生)」

第2回草土社展に出品された。

出典:岸田劉生 - Wikipedia

 

 

  

1920年大正9年

30歳になったことを期に日記をつけはじめます。

 

 

 

1923年(大正12年

関東大震災で自宅が倒壊します。

京都に転居し後に鎌倉に居住します。

 

 

 

1929年(昭和4年

9月末から、南満州鉄道の松方三郎の招きで海外旅行に出かけます。

大連・奉天ハルビンなどに滞在します。

 

現地の暮らしになじめなかったこともあり、11月27日に帰国します。

 

帰国直後、同行の画商田島一郎に伴われ、田島の郷里山口県徳山に三週間滞在します。そこで体調不良を訴え、医者から慢性腎臓炎による視力障害と診断されます。しかし彼は腎臓だけでなく胃・肝臓・心臓までも病に侵されていました。

胃潰瘍と尿毒症のため、多量の吐血とともに38歳で亡くなります。

 

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岸田劉生が描いた妻蓁の肖像

 

妻の蓁(しげる)は学習院の漢字の教授だった父の子として生まれます。

 

三姉妹の末っ子だった。

 

府立高等女学校を卒業し、鏑木清方を師として日本画を描いていまいした。

 

蓁は展覧会で劉生の絵を見て、劉生に絵のことについて話を聞きたいという率直な手紙を書いています。

禁欲的に生きていて女性と交際したことのなかった劉生の心には火がついてしまいました。

 

ちなみにこの時二人は月々実家から仕送りがあったため、極度の貧しさなどは知りません。

 

岸田劉生は体にコンプレックスを持っていたようです。劉生は双生児になる可能性があったようで、「片方が人並みより大きかった」と娘の麗子は回想しています。

 

こいうものは自分では気になるもので、劉生は自分の体が醜いものと思い込んでいました。

 

個人的意見ですが、最初は驚くかもしれないが、交際した人がどのようなものでも慣れてしまえばあまり重要ではないように思えます。蓁もそのことではたじろがなかったようです。

 

二人は1913年に結婚します。

絵で有名な麗子像は翌年誕生しました。

 結婚後、岸田家の援助打ち切りで貧しい生活になります。

 

結婚後蓁が初めて知るのは劉生の癇癪です。

些細なことで癇癪は爆発し、劉生は自分の頭や体を棒で打ち、妻の敷布を引き裂きました。(おそろすぃ…)

 

交際した時におそらく相手がどんな体でも気にしないが、こういう内面的な部分は受け入れることは難しいです。というか私には難しいな…。

 

蓁も夫の癇癪は恐れたそうですが、劉生のことを愛していたようです。

愛が深いなあ。

 

岸田劉生は才能が認められますが、収入が増えても劉生の人生は安定しません。

 

劉生は過度の飲酒、放蕩、茶屋遊びが始まります。

借財の額は大きくなりました。

 

劉生の女遊びを受けて、妻の蓁も書生を連れて観劇に出るなど、外出が多くなりました。

 

私も遊んでやるわ!という感じでしょうか?家でじっとり泣いてるよりは活発で良いですね。

 

1929年に劉生は満州で作品を売り、積年の借財を清算し、渡米の費用を作ろうと予定し、実行します。しかし描いた作品は思うような額では売れず、しかも体調が悪化します。

 

帰国した劉生は山口県で下車し亡くなります。

 

蓁は劉生亡き後35年生きました。

 

 

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岸田劉生画「自画像」

出典:岸田劉生 - Wikipedia

 

 

岸田劉生には世界進出の野望があったのですね。

 

 

晩年までパリに行くことが願望であったが、「パリに行ったあかつきには、フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語していたようです。

 

自画像や写真のお顔は静かそうですが、熱いソウルを秘めてたのですね。

 

ポーラ美術館でも麗子像を見たことありますが、画家の熱が鑑賞者に伝わるような逸品でした。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com