リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

変な夢雑談と巨匠モデリィアーニの妻ジャンヌ

今日も生きてます。

 

いつも変な夢を見ます。

 

白黒ではなくカラーで。

 

これは夢だとわかっているときもありますが、どっぷり夢の世界に浸かっているときもあり、目が覚めた時は自分が一体どこの世界の住人かわからなくなっています。

 

それで「私は明石恵、この地球に住んでる。〇〇に引っ越しって来た…」と現状を確認しています。

 

ポール・デルヴォーというベルギーの画家がいます。19ー20世紀の画家で、シュルレリズムに区分されると思います。もう亡くなっています。

 

実物の作品を鑑賞したことはありませんが、画集で作品を見たことがあります。

 

幻想的な作品を描く作家さんですが、その中の絵に「セイレーンたちの村」という作品があります。

 

どのような内容の作品かというと、明るい真昼で、絵の真ん中には人が二人ほど並んで歩けるような幅の狭い一つの道が真っすぐ絵の奥のほうに通っており、そのわきには背の低い住宅のようなものとその入り口であるドアが並んでいます。

 

そのドアの前にはそれぞれ椅子がおいてあり、その椅子には女性が座っています。

 

女性はみなドレスを着ていて、タートルネック、長袖、足元の見えないほど長いスカートの地味な色のもの。みな前を向き、うつろな表情をしています

 

絵の奥には山や海の景色が描かれています。

まさに夢のような情景。

 

この情景を夢に見ました。

 

しかし座っているのは男性でした。(しかも全裸。)

青い霧が満ちている夜に、住宅の塀の前に椅子がびっちり並んでいて、その椅子には無表情の青白い男性が無表情で座っています。

 

隠れるように物陰からその様子を眺めている。

 

そんな内容の夢でした。

覗き趣味の欲望とかのために心がこんな夢を見させたのか…。

不思議でした。

 

 

さて、今日も「画家たちの妻」(澤地久枝著、文藝春秋)を読んでいます。

 

 

 

 

アメデオ・モディリアーニ

1884-1920

 

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洗濯船におけるモディリアーニ

モンパルナスで貧困のうちにボヘミアン的な生活をして早世した。作品のほとんどが人物画で、長い首を持った憂愁に満ちた表情が特徴。たくさんの伝説が生まれたらしい。

 

1884年

北イタリアの港町リヴォルノに四人兄弟の末っ子として生まれます。 両親はセファルディ・ユダヤ系のイタリア人で、林業や銀鉱を経営していましたが、モディリアーニが生まれた年に倒産しています。しかし生活苦とはあまり縁のない日々を送っていたようです

 

モデリィリアニは病弱で学校には通えませんでしたが、教養豊かな家族に教育を受けて育ちます。

 

末っ子で病弱で甘えん坊だったため、周りからアメディオ(神に愛されるもの)」と甘やかされて育ち、「自分は神に愛されている」と思うようになります。

 

14歳

地元の画塾へ通います。

 

17歳

結核療養のためカプリ島へ行きます。

 

18歳

健康を取り戻し、イタリア各地を旅行します。

 

22歳

パリを訪れ、モンマルトルを転々とします。

 

25歳

安い部屋を見つけてモンパルナスに住み着きます。

 

26歳

彫刻作品を制作します。

 

30歳

パリで英国人ジャーナリストのベアトリス・ヘイステイングスと同棲します。二人ともアルコール中毒のようで、酒や麻薬に浸る生活をしていました。

 

2年するとベアトリスはイギリスに帰ってまい、同棲は解消されます。

 

 

 

33歳

画商レオポルド・ズブロフスキーが絵を取り扱ってくれるようになります。

画学生ジャンヌ19歳と同棲し始めます。

 

個展を開催しますが、初日で打ち切りになってしまいます。警察に見つかり風紀を乱すという理由でした。一説によると描かれた裸婦の陰毛や腋毛がダメだったようです。

 

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モデリィアーニ画「赤い裸婦」

(1917年、ジャンニ・マッティオーリ・コレクション)

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モデリィアーニ画「青いクッションの裸婦」

(1917年、ナショナル・ギャラリー蔵)

 

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モデリィアーニ画「マダム・キスリングの肖像」

(1917年、ナショナル・ギャラリー蔵)

出典:アメデオ・モディリアーニ - Wikipedia



34歳

ジャンヌとの娘が生れます。

しかしジャンヌの両親は結婚を反対します。

 

1920年

35歳寒いアトリエで倒れて亡くなりました。

 

 

 

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出典:「画家たちの妻」(澤地久枝著、文藝春秋

 

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ジャンヌ・エビュテルヌ

出典:アメデオ・モディリアーニ - Wikipedia

 

 

モデリィリアニのパートナージャンヌ・エビュテルヌは、香水店の出納係を務める会計士の父と、母、画家の兄の家族にパリで生まれました。

 

赤みがかった栗色の髪と真っ白な肌で、友人たちからは椰子の実と呼ばれていたそうです。

 

二人が出会ったのは美大のお祭りです。モデリィリアニが33歳、ジャンヌは19歳でした。

 

ジャンヌの両親の反対を押し切り、二人は同棲し始めます。

 

そのころモデリィリアニは画商からわずかな収入と、カフェで似顔絵を描き生計を立てていたようです。モデリィリアニの実家からも援助がありました。

 

ちなみにこのわずかな収入を払っていた画商のズブロフスキーは貧乏画商で、モデリィリアニに絵を描かせるためにたばこ代を節約し、あて名書きのバイトをしていたようです。泣けるな。

 

二人の娘は乳母と共にパリに近い田舎へやられ、そこで育ちます。出発する前は画商のズブロフスキーの家に預けられて、友人のルニアが面倒を見ています。

 

モデリィリアニは一応婚姻届けを書いていたようですが、提出されず終わりました。

 

子供が生まれてもモデリィリアニの生活は変わることがなく、貧乏で酒浸りでした。というか本当に一銭もないというよりも、入ってきたらすぐ酒や麻薬に使ってしまっていたのでしょう。

 

そしてモデリィリアニはジャンヌより先に亡くなってしまいます。その時ジャンヌには二人目の子供を身籠っていました。

 

 

その後ジャンヌは兄が一緒にいて何度も止めていたにもかかわらず、隙をみて窓から飛び降り自殺してしましました。

 

 

 

 

 

 

モデリィリアニは美男子であったとか、その破滅的な生活ぶりがかなり伝説的になっているようです。

(写真を見る限りそんな美男子ではないような…)

 

1歳2ヶ月で両親に先立たれた一人娘はモディリアーニの姉フローレンスに引き取られます。

 

はじめは両親をめぐる事実を知らされていなかったようですが、その後自らも美術に携わり、ドイツ表現主義やエコール・ド・パリ、ゴッホなどの研究を経て、父モディリアーニの研究にも従事したそうです。

 

 

 

 

 

 

 

物心ついた後に自分の親がモデリィアーニと言われたら驚きですね。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

akashiaya.jimdofree.com