早世の画家青木繁と福田たね
今日も生きてます。
殺生をしてしまいました。
以前ブログでも触れましたが、家の中でみかけたクモを放置し、「くももん」という愛称(?)をつけて親しんでいました。
リビングや洗面台など、見かけるたびに「あ、まだ生きてる。」と思い、なんとなく愛着がわいてきたころあいでした。
しかし日曜慣例の水回り掃除をしていたら、やってしまいました。
まさか蛇口の裏にいるとは知らず、「くももん」は洗剤まみれの水に流されてしまいました。結構強力な洗剤だったので、だいぶ苦しんでました…。ごめんね…。
私が地獄に落ちてもなんの助け糸も垂らされないことでしょう。
さて、今日も引き続き「画家の妻たち」(澤地久枝著、文藝春秋)を読んでいます。
1882- 1911
明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家。若くして日本美術史上に残る作品を次々と生み出したが、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世した。
1882年
旧久留米藩士に仕えた家系で、弁護士の父青木廉吾の長男として、福岡県久留米市荘島町に生まれます。
久留米中学明善校(現在の福岡県立明善高校)に入学するも中退します。母方の医師の伯父から画の手ほどきを受けていました。
1899年
17歳で上京します。
このとき島崎藤村「若菜集」をもっていったといわれます。
小山正太郎の主宰する不同舎に入門します。
1900年
東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝らの指導をうけます。
この頃より父の経済的行き詰まりにより、送金が打ち切られます。
黒田清輝については以前ブログで取り上げました。↓
黒田清輝について。-裸体問題?腰巻事件?明治のアートスキャンダル- - リアル絵描き日記
白馬会第8回展に「黄泉比良坂」などの神話画稿10数点を出品し、その年から設けられた白馬会賞を受賞します。
1904年
東京美術学校を卒業します。
坂本繁二郎、森田恒友、福田たねらと房州(千葉県)布良ですごし、このとき「海の幸」など、海を題材にした作品を制作します。
青木繁画「海の幸」(1904年、重要文化財、アーティゾン美術館蔵) 青木は困窮の底で生きており、文房具売り出し1枚30銭の絵葉書の絵をわずかな報酬で描きました。異臭放つ着物をきて平然と闊歩していたそうな。
この年に父の窮状から、故郷から姉と弟が繁に扶養してもらうために上京してきます。
青木繁画「大穴牟知命」(1905年、アーティゾン美術館蔵)
上京してきた姉と弟を置き去りにする形で福田たねと旅に出ます。
なんと福田たねのお腹には繁との子供がいました。そして息子を幸彦が生れます。
青木繁画「幸彦像」(1907年、栃木県立美術館蔵)
あてのない旅を助けたのは福田たねの父豊吉です。二人は冬から福田たねの実家(栃木県水橋村)に滞在します。そこで「わだつみのいろこの宮」を描き、作品を持って上京します。
お金がない繁の制作環境を整えたのはたねの実家でした。たねの父豊吉はなんとできた人なんでしょうか。
豊吉は人を介して幸彦の入籍や、善後策について繁へ手紙を出しています。たねとの結婚は見送られる状況でした。
繁とたねの子供幸彦は、戸籍上では豊吉の息子、そしてたねの弟ということになりました。
1907年
東京府勧業博覧会に出品します。3等末席でした。
白馬会受賞と、「海の幸」が好評を得たあとは全く認められませんでした。
青木繁画「わだつみのいろこの宮」(1907年、重要文化財、アーティゾン美術館蔵)
8月には父危篤のため久留米に戻ります。繁は家族にたねや幸彦のことを打ち明けられません。そして父は亡くなり、一家の責任が繁の肩にのしかかります。
福田家とはどうしたかというと、豊吉に絶縁状に近い内容の手紙を出し、関係を断ちます。
そして繁は地元の家族とも衝突して家をでます。
放浪生活に入り、福岡、佐賀を転々とします。
1910年
喀血し、福岡松浦病院に入院します。
1911年
3月25日死去。28歳でした。
青木繁との子供を産んだ福田たねは、正式の妻ではありません。
しかし短い青木繁の生涯で唯一のパートナーであったことは確かです。
福田たねは繁より三歳年下で、1885年栃木県の呉服商福田豊吉の子供として生まれます。絵を描くことが好きだった娘のために父の豊吉はできるだけのことをしました。
日光に住む友人の画家に15歳の娘を預け、さらに上京して小山正太郎の主宰する不同舎に入門することを応援しました。なんの苦労も知らずに生きてきた福田たねは怖いもの知らずで、激しい気性の持ち主でした。
この不同舎で二人は出会います。
有名な作品である「海の幸」にもたねはモデルとして登場しています。
一時期はたねの実家が支援してくれたおかげで制作をつづけられた繁ですが、たねとの子供が生まれた後、関係が終わりになります。
そしてたねは地元で会社員の野尻長十郎と結婚します。
才能のあった繁ですが、責任を負うことは苦手だったのかもしれません。
後先考えずたねとの子供をつくってしまい、なんの経済力も美術の展望もない弱い自分を受け入れて福田家に庇護してもらうこともできず、自分が家族の責任を持つ覚悟もできず…プライドのある20代の男の子は厳しい現実と向き合うことができなかったのでしょう。
死後作品が評価されましたが、倒れて入院してから死ぬまでは、誰も見舞いに来ない病室で、卵さえ買うこともできない貧しい日々であったようです。
(入院中、友人に借金依頼の手紙を書いている。)
全て自分の身の振り方が原因です。
火垂るの墓を思い出しますね。
たねの理解ある父豊吉に協力を素直に頼むことができたり、実家に子供の存在を話すことができたらもっとたくさん作品をつくることができたはずです。
青木繁は一般的にはどれほど有名なんでしょうか。
(私はいつか青木繁の展覧会を確か見たことがあった。)
美術関係の方や美術愛好者は知ってるかもしれませんが、どちらかというとマイナーな作家だと認識しています。
アーティゾン美術館に青木繁の作品はコレクションされているようです。代表作の海の幸は有名ですが、個人的には日本神話をテーマに油絵で表現した作品がいいなあと思っています。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。