ゴーギャンはいくら巨匠でも愛せない。
今日も生きてます。
多分ゴーギャンの作品は実物を見たことがありません。画集では見たことがあり、名前もゴッホの人生に出てくるため知っています。
画風で言えば、自然から抽象的形態を抽出し、色面や線で画面を構築する手法。
パリで画塾に通う若い画家セリュジュに、ゴーギャンは絵を教えます。
出典:「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」
(早坂優子著、株式会社視覚デザイン研究所発行)
自然を抽象的に描いたものですが、ゴーギャンの絵に対する考えを理解しやすい作品です。
護符を見たボナールや、モーリス・ドニも影響を受けています。
ゴーギャンは西洋美術史の中で影響を与えているんだなあということは理解できます。
ですが、表現手法はおいておいて、私はあまりゴーギャンの作品が好きではありませんでした。女性の描かれ方が生理的に受け入れられない作品があるのです。
(一時期フェミニズム系アート本を狂い読みしていた時があったので、もしかしたらその中でゴーギャンの作品の記述があったのかもしれない。)
ゴーギャン好きの方、ごめんなさい。
タヒチのことを未開の文明としているところも田舎出身の私の癇に障るのかもしれません。
ゴーギャンの人生についてもよく調べたことなかったのですが、今回年表を確認してわかりました。
この人は男性としてはクズですね。
タヒチの少女のことを同等の人間として扱っていませんね。
ポール・ゴーギャン
1848-1903
自然を抽象的な形にして絵の中に配置した。線と色面で絵画を構築する手法は当時の西洋美術史では新しかった。
西洋人だが、タヒチで制作し、現地の人たちをモデルに絵を描いた。黒人を主役とした作品を制作し続けたのは西洋美術史の中では初めてかもしれない。
1848年
共和主義者のジャーナリストの父のもと、パリで生まれます。
1849年
父が職を失い、ナポレオンの弾圧からで一家でペルーに移動している途中で父親が亡くなります。残された家族はリマ(ペルーの首都)で叔父を頼って4年間を過ごした。叔父はペルーで有力者であったようで、不自由のない暮らしをした。
祖父が亡くなり相続の為に帰国。神学校に入学させられ、寄宿舎に入る。
1865年 17歳
成績が悪く海軍兵学校への推薦も貰えず、就学年齢が過ぎたため、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡ります。
1867年
母アリーヌが42歳で亡くなります。
インドで訃報を知り、下船します。
1868年 20歳
兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで2年間勤めます。
母の知り合いの紹介でパリ証券取引所で、株式仲買人として働きます。
(電話で客に人気の株を勧めるような仕事であったようだ。)
1873年 25歳
ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚します。
五人の子供が生まれます。
エミール(1874年-1955年)
アリーヌ(1877年-97年)
クローヴィス(1879年-1900年)
ジャン・ルネ(1881年-1961年)
ポール・ロロン(1883年-1961年)
1879年 31歳
第一回印象派展に出品します。その後も何回か印象派展に参加します。
ゴーギャン画『冬の風景』1879年。
ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。
1883年 35歳不況で解雇されます。
画業に専念することを決意します。
1885年妻の故郷でしばらく暮らすも上手くいかず、次男だけ連れてパリに戻ります。
極貧生活が始まります。
1887年 39歳妻メットが次男をデンマークへ連れて帰ります。
赤痢で苦しむ友人を残し、水夫としてパリに逃げ帰ります。
1888年 40歳ゴッホの誘いを受けてアルルの「黄色い家」で共同生活を始めます。
ゴッホの弟で画商でもあるテオがゴーギャンの作品を買うことが条件でした。
12月23日 ゴッホが耳切り事件を起こします。12月26日にパリへ戻ります。
ゴーギャン画「自画像」1888年。ゴッホ美術館。
1890年
≪処女喪失≫のモデル、ジュリエット・ユエという20歳の女性を愛人にします。
ゴーギャン画「処女喪失」 出典:Paul Gauguin - Wikimedia Commons
1891年 43歳
競売で資金を作ると、妊娠した愛人をフランスに残してタヒチへ向かいます。
愛人のジュリエット・ユエは娘を出産します。
13歳のタヒチの少女テハーマナ(テフラ)を現地妻にします。
ゴーギャン画『死霊が見ている』1892年。
オルブライト=ノックス美術館。
ゴーギャン作『テフラ(テハーマナ)』1891-93年。
1892年
テハーマナが流産します。
パリへ送還を申請して翌年に帰国します。
マルセイユでジャワの女性アンナと同棲します。
ゴーギャン画『ジャワ女アンナ』1893年。個人コレクション。 1894年
漁師と喧嘩で足を怪我して入院します。
アンナだけパリに戻り、金品を盗んで姿を消す。
フランスでの生活を捨てて、タヒチへ暮らすことを決めます。
1895年
フランスで梅毒を移され、タヒチへ旅立ちます。
1896年新しい愛人14歳のパウラと同棲を始めます。
パウラはこの年の12月に出産しますが、生後数週間で死亡してしまいます。
ゴーギャン画『ネヴァモア』1897年。コートールド美術研究所。
1897年
妻メット=ソフィー・ガッドとの娘で、かわいがっていた長女アリームが肺炎で亡くなります。
この知らせの後、「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」を制作し、ヒ素自殺するが失敗します。
ゴーギャン画『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
1897-1898年。ボストン美術館。
1899年前年に出て行ったパフラが戻り、再び同棲し男児エミールを出産します。
1901年
14歳のマリー=ローズ・ヴァエホを愛人にします。
翌年に実家で娘タヒアチカオマタを出産します、彼女はゴーギャンのもとには戻ってきません。
ゴーギャン画『扇を持った若い女』1902年。フォルクヴァンク美術館。
ゴーギャン画『未開の物語』1902年。フォルクヴァンク美術館。
心臓発作のため、55歳で亡くなります。
ゴーギャンは生きている間たくさんの女性と肉体関係を持ちましたが、正式に結婚した妻は一人だけです。
それは25歳の時に結婚したメット=ソフィー・ガッドです。
メット=ソフィー・ガッドは富豪の跡取り娘のつきそいとしてパリへ来ていました。二人が出会ったときゴーギャンは25歳、メットは23歳でした。
メットが結婚した時ゴーギャンは株式会社で働く高収入のフランス人男性でした。
子供が5人生まれているのでそんなに仲は悪くなかったのかなと思います。
しかしそれはゴーギャンが会社を解雇されるまででした。解雇されたゴーギャンは画家を目指します。
翌年経済的に行き詰まり、一家はメッツの故郷コペンハーゲンへ。
ゴーギャンもなんとかしようとフランス製の防水布を売ったり、個展をしたりしますが、うまくいきません。
1885年にはゴーギャンは次男だけを連れてパリにいってしまいます。
夫婦の別居生活が始まります。
ゴーギャンは株式取引所の仕事を得ようとしますが、金融恐慌のあとで仕事もほとんどなく失敗。
コペンハーゲンではメッツはフランス語の教師をして子供たちを養っていました。
その後妻メッツは次男を連れてコペンハーゲンに戻ります。
ゴーギャンは姉を頼ってパナマに行き、パナマ運河工事労働者になりますが、人員整理のせいでたちまち失職します。そして無一文になってパリへ帰ります。
夫婦が同居していたのは12年程度で、別居した後会ったのは2,3度だったようでうす。
メッツが子供たちを育てている間、ゴーギャンは自分の娘よりも幼い少女たちと愛人関係になり、しかも子供まで作っていました。
最低ですね…
これは愛せない。
苦しかったゴーギャンを援助しなかったメッツの判断はおそらく正しかったのではないかと思います。
個人的にはなぜゴーギャンの評価が上がっていったのかが気になりました。今後調べていきたいと思います。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。