今日も生きてます。
「画家の妻たち」
という本を読んでます。
作家と結婚する人はどんな気持ちなんでしょうね。
私の周りには作家同士で結婚した人もいますが、素直にすごいなと思います。
美術系の学校に通ったり、クリエイターと交流したことある人はわかると思いますが、ものを作る人というのは、一般の方からしたらこだわりがありすぎて深く付き合うのは面倒だと思います。
人当たりよさそうでも自分の制作活動や芸術については誰にも譲れない持論があるのがほとんどです。もちろん私もです。
他人とは共有できない価値観を持っているんですよね。
遠目で見ていたり、作品を鑑賞する分にはいいですが、一緒に生活するのには譲歩が求められることでしょう。
私は大学入る前ぐらいからパートナーにクリエイターは選ばないと心に誓っていました。制作面での対立は折れることができないので。
この本の中ではもっとくせのある巨匠たちと結婚した妻たちと、その妻をモデルにした絵画が紹介されています。
今日から巨匠とその妻の関わりを見ていきたいと思います。
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン
(1606-1669)
オランダのレイデンで裕福な製粉業の家に生まれます。
そしてアムステルダムで肖像画家として成功を収めます。団体肖像画、宗教画も書きましたが、自画像を多数描いたことも有名です。
19歳
レイデンで画家として独立
25歳
26歳
肖像集団画家「ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義」が評判になる。
28歳
サスキア・ファン・アイレンブルフと結婚する。
聖ルカ組合に親方として登録。
29歳
工房に弟子を雇い注文をこなす。
35歳
息子が誕生する。
36歳
妻サスキア・ファン・アイレンブルフが死去する。
乳母へルティアと愛人関係になる。
後に不当解雇で訴えられる。
43歳
農民の娘であるヘンドエリッキエを家政婦として雇う。
50歳
自己破産
57歳
ヘンドリッキエが死去する。
62歳
息子が亡くなる。
63歳
アムステルダムで亡くなる。
〇巨匠レンブラントの妻〇
レンブラントが結婚したのはサスキアという女性です。
サスキアの父はレーワルデン市長であった都市貴族でした。
しかし幼少の頃、父母共に亡くなってしまいました。
レンブラントとサスキアが婚約したのはレンブラント26歳、サスキアが20歳の時でした。レンブラントは何枚かサスキアをモデルに絵を描いています。
サスキアは結婚後出産するが、出産してすぐに生まれた子供を亡くすことが続いてしまいます。悲しいですね…。
1635年 長男ルンバトウス出生二か月後死亡。
1638年 長女コルネリア出生二週間後死亡。
1640年 次女コルネリア出生二週間後死亡。
1641年に誕生したティトウスは成人します。よかった。
しかし1642年にはサスキアが結核で亡くなってしまいます。
レンブラントは収集癖があり、作品の題材となる貴金属や他の画家の作品を金額も考えずに買い求めていました。サスキアが生きていた頃、サスキアの後見人たちからそのレンブラントの浪費を非難されたことがありました。
レンブラントは名誉棄損で訴えましたが、訴訟の結果、レンブラントはサスキアの持参金を自由に使用することを禁止されました。
このことがあり、サスキアは自分の死後にレンブラントや息子のティトウスが自分の遺産を使えなくなることを危惧していました。
サスキアは遺言の中でティトウスを遺産相続人とし、レンブラントが再婚しないことを条件に有益権をレンブラントに与えました。
サスキアがレンブラントのことをどう思っていたかは推測しかできませんが、このことからはサスキアがレンブラントの才能を認め、息子とともに愛していたことがうかがえます。
サスキアが亡くなった後、レンブラントは寡婦として雇ったヘールチェ・ディルクスと愛人関係になります。
その後、レンブラントはこのヘールチェ・ディルクスから婚約不履行で告訴されてしまいます。
レンブラントが結婚の口約束として指輪を贈り、結婚または他の援助をするということを盾にして肉体関係を求めたというのです。
判決で法廷はレンブラントに毎年二百ギルダーをヘールチェ・ディルクスに支払うことを命じました。
しかしこれを簡単に受け入れるレンブラントではありません。
レンブラントはヘールチェ・ディルクスは淫乱な売春婦であるという隣人からの証言を集め訴えます。彼女は12年の刑に付されます。
その後ヘールチェ・ディルクスの友人たちが釈放運動をし、5年後に故郷に帰ってきますが、間もなく亡くなってしまいました。
レンブラントは家政婦として雇ったヘンドリッキエ・ストッフェルフと愛人関係になります。
一説によるとヘールチェ・ディルクスがレンブラントを訴えたのは、このヘンドリッキエ・ストッフェルフとレンブラントの愛人関係がきっかけとも…
裁判所は不義の嫌疑を理由にレンブラントに出頭を命じましたが、レンブラントは婚約不履行裁判を巧妙に切り抜けます。
一方ヘンドリッキエは改革派教会の審問委員に召喚され、厳しく処罰されました。しかし、レンブラントと別れることはしませんでした。
その後ヘンドリッキエはレンブラントとの子供を産みます。
一人目の子は流産してしまいましたが、1654年に第二子コルネリアが生まれます。
しかし二人は結婚しません。
おそらくサスキアの遺言があったからと思われます。
その後破産したレンブラントは、自分の作品を自由に売ることができなくなったので、息子ティトウスと愛人ヘンドリッキエが画商となり、レンブラントの作品を取り扱うようになります。
(※晩年は貧困の中で亡くなったという説もあるが、破産は偽装で、悠々と暮らしていたという説もある。)
その後レンブラントは息子にも愛人にも先立たれてしまいます。
つらい人生ですね。
肖像画家として大成功したレンブラントは、裁判のくだりをみるに、ただ絵だけに詳しい世間知らずの芸術家ではなく、狡猾な面も備えていたのかなあと思います。
ちなみに弟子たちをとって工房を構えたレンブラントですが、当時の工房というのは高い授業料を取っていたようです。作品売買以外にも収入があるようにしていたんですね。
最後の愛人ヘンドリッキエはレンブラントより20歳も年下だったとか。なのに先立たれてしまうなんて…悲しいですね。
画家としての成功があまりにも強烈なのでレンブラントの人生にあまり興味なかったのですが、悲しみの連続ですね。逆に絵画にのめりこんだのかも。
波乱万丈なレンブラントの自画像に、少し興味がわいてきました。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。