外国人雇用危機を乗り切れ!ーフェノロサの闇を覗く④
今日も生きてます。
ジブリが画像を常識の範囲内で使用して良いということなので、とりあえずアリエッティの翔君の画像を即刻PCの壁紙に設定しました。
随時公開されていくそうです。
こういうの楽しいですよね。
さて、フェノロサに懐疑的なスタンスの『フェノロサー「日本美術の恩人」の陰の部分ー』(保坂清著、河出書房新社)を参考に、フェノロサを見ていきます。
日本美術の良さを日本に知らせ、その保護を唱えたことから日本美術の恩人とも言われるフェノロサ。
しかし元々は哲学の教授として来日していました。分野外のはずなのにいつの間にか日本美術を理解する第一人者になっています。
どのような過程があったのか今日は見ていきます。
政府がお雇い外国人を初めて、明治12年を境に急速に減少し始めます。お雇い外国人を高給で雇ってしまったため、経済を圧迫していたことが原因のひとつでした。明治18年にはお雇い外国人は総数の半数までになります。
フェノロサの場合、アメリカに帰っても日本より良い給料で働ける場所はありませんでした。(というかもしかしたら職にありつけられないかもしれない)
そして明治14年以降は国粋主義が高まっており、日本の政府がいつまでも国防や外交や教育の中枢にお雇い外国人を参画させては置かない雰囲気があったようです。
身の回りのお雇い外国人が次々といなくなっていく中、フェノロサはこの雇用危機をどう乗り越えたか…!?
その答えが、日本美術万歳!だったのだと思われます。
フェノロサは政府系の古美術保存団体「籠池会」を筆頭に、何ヵ所も演説会に引っ張り出されます。
収集した作品の理解を深めるためか、古美術鑑定会「鑑画会 」にも出入りしています。当時の日本の外国崇拝にあやかって、名流貴族富豪の秘蔵品も見ていたと思われます。
フェノロサが当時の欧米人の中で、一番日本美術・東洋美術に詳しかったことは事実です。
政府系の要人とも関わりを持つ努力をしていたようで、なんと伊藤博文が総理大臣になる前に知り合いになり、鑑画会の大会に総理大臣になった伊藤博文を招いていたというから驚き️です。
とにかくフェノロサは日本で生き残ることに必死だった面もあるのです。なので日本美術万歳の活動が少し異常に活発に思えるのかもしれません。
日本の美術への称賛と保護を言っているのに、国の重要文化財級の逸品を大量に海外に流出させている矛盾は自覚していたようです。
フェノロサは、東京大学の雇用不安から、政府高官宛に新設される帝国博物館への就職をお願いする手紙を出しています。
個人的なことで一言申し述べたいことがあります。それは、過去において私が日本美術の大蒐集家であったという事実によって、私のことを博物館関係者のような責任のある地位につかせるには適当な人物でないとの偏見を持つ人々が存在することであります。その点に関し種々のご心配があったと思いますが、実は私は、今はじめて打ち明ける話ですが、私の全コレクションをボストン美術館に陳列することを条件に昨年売却致しました。今や蒐集家ではありませんので、その点のご心配は払拭できるかと考えております。現在はそのごく一部を東京に残してありますが、これは文部省図画調査会のため複写用原本として置いてあるものです。私は絵画を購入することを止めております。コレクション売却以後、これまで購入した目的も専ら「日本美術史」の図版用という限定された計画を実現するためでありましたが、私の蒐集に関する限りその計画も完了しております。今後はもしお許し願えるならば、私は現在のように粉骨砕身、現存するすべての古美術を日本に保存し、これを実用的かつ、科学的に利用せしめることに献身致す所存であることを名言いたします。もし閣下が諒とせられるならば、何卒この所見をご活用下さい。(山口静一「フェノロサ」上289ページ)
手紙の中ではっきりと作品を売却してる矛盾について触れてますね。手紙の中では今後は作品を売却しないと名言していますが、普通に売却してます。
博物館に就職することは叶わなかったフェノロサですが、ただのお雇い外国人から、日本美術万歳の旗振り外国人としてだいぶ長く日本で活動することができました。悪い言い方をすると、日本の税金と日本美術を売却したお金でだいぶ懐を肥やしたのではないかと思われます。
フェノロサがこのような日本美術万歳の活動をしたのは、もちろん政府から暗に陽に求められていたからだと思われます。そういう点で、フェノロサは日本美術の恩人であることに間違いではないです。
まだ少し続きます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。