日本人なら知っておきたい狩野派の歴史ー政局の孝信ー
今日も生きてます。
上野でムンク展を見に行ったときに、ムンクの絵のなかで何度も同じ月の表現がありました。
部分です。
海の上に浮かぶ月と、その姿を映す海。
ノルウェーってこんな風景が見られるのかなあ。と思いながら鑑賞していました。
あまり何度も同じ表現が出てきたので実際のノルウェーの月を見てみたくなりした。
そしてこのように月を表現することをとろろ月技法と心の中で呼んでいます。
さて、狩野派の歴史について見ていきます。
その前に系譜を見ておきます。
上の画像は幻冬舎から出版されている「知識ゼロからの日本絵画入門」安河内眞美さん著から借りた図です。
今日は狩野孝信(1571-1618)について見ていきます。
後陽成院像
狩野孝信は永徳の次男です。
長男は光信です。
永徳がなくなったあと、光信の補佐をしていました。
1608年光信が亡くなった後は光信の息子貞信を狩野派の当主におきながらも実質的に中心にいました。
系譜の図を見ていると分かりやすいですが、永徳以降、本家直結の血筋を持つものは皆名前に信がついてますね。
それまでの狩野派の顧客は武士が多かったのですが孝信は朝廷にもてを伸ばし、後援を受けるようになり、禁裏(天皇)御用絵師になります。
つまりあれですね。
国家公務員絵師ですね。
一定の給与をもらいながら制作をしたということです。
孝信の生きた時代は政権が豊臣から徳川へ変わる不安定な時代でした。
誰が権力を握るかというのは絵師として死活の問題です。
そこで孝信は
朝廷のある京都は自分(孝信)。
江戸には息子の探幽と兄の息子貞信を売り込みます。
どこに権力が移っても狩野派が生き残れるようにしました。
この人たぶん政治家としてもうまくやっていけるんじゃないかな…。
そして1618年48歳でなくなります。
孝信の人生いや、永徳もそうですが、を見てると絵師として生き残るのがいかに大変な時代であったかわかります。
400年狩野派が続いたのは技術だけではなかったんだなと学びますね。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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