日本人なら知っておきたい狩野派の歴史ー天才永徳登場ー
今日も生きてます。
アボカドを買ってきてから3日。
食べ頃がわからず窓際に放置したままです。
さわると固い感じもする…。
いや、でも中は柔らかいのか…?
食べたいときに買ったので私の中のアボカド欲はもうないよ。
日が経つほど心からアボカドから離れていくよ。
しあさってぐらいに食べようかな。
でも中開けてひどいことになってたら嫌ですな。
さて、世界で三番目ぐらいにどうでもいい明石のアボカドはおいておいて、今日も狩野派の歴史を見ていきます。
日本人なら知っておきたい狩野派の歴史① - リアル絵描き日記
http://akashiaya.hatenadiary.jp/entry/2019/01/20/101104
昨日の狩野派の系譜で確認しましょう。
上の画像は幻冬舎から出版されている「知識ゼロからの日本絵画入門」安河内眞美さん著から借りた図です。
永徳の前に元信のおとん(松栄)についてふれておきましょう。
↑は松栄の描いた益田元祥像
狩野松栄(かのうしょうえい)1519-1592は狩野派の二代目ビジネスマン元信の三男坊です。
上の兄二人は若くしてなくなったため松栄が狩野家を継ぎました。
元信や子の永徳のように派手な才能はありませんでしたが、堅実に狩野派の組織を守ります。
永徳の才能を認めるとそのサポートに徹していたのかもしれません。松栄のお陰で永徳の才能をのびのびと仕事できたのでしょう。
そして1543年狩野永徳は生まれます。
松栄が24.25歳頃の子供なのかな。
永徳は10歳のころ祖父の元信につれられて足利義輝に拝謁したことが記録されています。
ちなみに元信は松栄と証如(戦国時代の浄土真宗の僧)も引き合わせており、顧客や権力者と息子や孫を面会させて、自分の死後狩野派が注文をずっと取れるように計らっていたのだと思います。(個人的見解です。)
頭が回る人だったんだなあ。
そして権力者からの注文を次々とこなします。
(あとで見ていきます。)
また勢力を伸ばす長谷川一門の障壁画の制作依頼を阻止するため、依頼者や権力者に酒樽や絵扇を送っていたという逸話もあるそうです。おとんやおじいの入れ知恵かもしれません。
そして、天正18年(1590年)9月、永徳は東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気になり亡くなります。
過労死だとも言われています。次の年に父である松栄も亡くなります。
(ちなみに永徳が若くしてなくなったので、その混乱の最中長谷川派が勢力を伸ばします。
http://akashiaya.hatenadiary.jp/entry/2019/01/16/081127
)
ではその作品群を見ていきましょう。
梅花禽鳥図(四季花鳥図襖)
1566年
足利義晴に仕えた戦国武将を弔うために創建された大徳寺塔頭・聚光院の障壁画のひとつとして制作されました。
おとんの松栄と一緒に描いたもの。国宝です。
六曲一双 16世紀
(曲とか隻とかなんやねんというかたはこちらをご覧ください。
屏風のつくり-双とか隻とかよくわからんですよね- - リアル絵描き日記)
永徳23歳の頃の作品。
信長から上杉謙信に贈ったものとして有名です。
全体で登場する人物は2485人に及び、あらゆる階層が随所に表現されています。
洛中洛外図というのは京都の市街(洛中)郊外(洛外)の警官と風俗を描いた屏風です。ひとつのジャンルのようなもので、永徳の作品以外にもこのテーマで描かれた作品がたくさんあります。
唐獅子図屏風
六曲一隻、16世紀後半
永徳の代表作ではないでしょうか?
日本にはいない動物・ライオンを描いた作品です。
サイズは222センチ×452センチととても大きいです。
見たことない動物をこんなに堂々と描けるのはすごいですよね。
画面右下の狩野永徳法印筆という文字は孫の探幽が後年加筆したものです。
桧図屏風
170×461㎝ 四曲一双 1590年頃
豊臣秀吉が八条宮智仁親王(皇族・歌人)のために建設した八条宮家御殿の襖絵として制作されました。後に屏風へと改装されます。
派手好きな秀吉が好きそうな力強い構図とタッチです。
一門の長として真面目につとめを果たした永徳ですが、晩年になると自分をさらけ出したのか奇々怪々な絵を描き、ファミリーから疎まれていたとか。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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