リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

春画の育ての親「菱川師宣」とUFO雑談

今日も生きてます。

 

衝撃的なニュースがありました。

 

産経新聞の記事によると、

 

米国の防衛省未確認飛行物体(UFO)のような円盤状の飛行物体を記録した映像を公開したそうです。

 

そして、それを受けて日本の河野太郎防衛相が、

 

万が一日本の自衛隊が未確認飛行物体と遭遇した場合の段取りなど対応を各自衛隊に検討を求めた、

 

ということを記者会見の中で述べられたそうです。

 

 

 

ムーの時代が来た!

(ムーはオカルト話が掲載されている雑誌と認識している。読んだことは無い。)

 

 

映像もネットに上がっています。

 

 

円盤の形状で、UFOのイメージそのものです。

 

 

 

私自身はあまりUFO関連のオカルト話に強い興味は持っていませんでした。

 

 

大学の頃「健康科学」という謎の授業があり、その授業の中では速読引き寄せの法則や、様々な(?)ことを学び(?)ました。

 

怪しい授業なのになぜか必修だったんですよね。

 

何か闇があるに違いありません。

 

 

その授業の中でも特に長く勉強したのはUFOについてです。

 

正直何も覚えておらんのですが、UFOは隠蔽されてる~とかアメリカのUFOの話~とかUFOの歴史や基礎知識(?)を教えていただいた気がします。

 

唯一覚えているのはUFOの読み方は「ユーエフオー」であり、「ユーフォ―」ではないということ。

(出来の悪い学生だなあ)

 

あと先生がUFOを信じる派の人間としてTVに出演していたころの映像も視聴しました。

 

 

美大は学生も教授も本当にそれぞれの信念を持っている多様な人が居たので、世界が広がりました。

 

みんな違ってみんないい。を体感しますね。

普通の人間なんていなくて、それぞれの個性が美しさなんだろうな

 

とにかく今後のUFOのニュースは注目ですね。

 

 

 

 

 

 

 

さて、『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新を読んでいます。

 

 

今日は見返り美人で有名な菱川師宣(ひしかわもろのぶ)についてみていきます。

 

実は菱川師宣春画を大成した人でもあります。

以前も取り上げましたが、復習です。

見返り美人の生みの親ー菱川師宣ー - リアル絵描き日記

 

春画というと葛飾北斎の『喜能会之故真通』が比較的有名ですよね。

女性にタコがまつわりついている絵ですね。

 

画像はWikipediaでみられるのでリンクをつけておきます。(刺激的なので)

春画 - Wikipedia

 

同ページに掲載されているトルコの春画がシュール。

 

 

ですがその道を拡張したのは菱川師宣らしい。

 

春画のような性的な表現のある作品は猥褻?芸術?という問題提起が含まれることもあるようです。

 

というより公でそのような作品を設置する場合に法律に引っかかるかどうかという問題なのかな。

 

正直芸術的であるかの議論ではなくて、公的な場所がどうあるべきかの話かなと思います。芸術作品だけではなくて、広告・看板・建築その他でも議論してほしい。

(ピントずれてるかもしれません。)

 

 

菱川師宣の人生

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          菱川師宣自画像「鹿野武左衛門口伝咄」

菱川師宣 - http://kyonan-info.jp/hishikawa/hishikawa/鋸南町, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=68063749による

 

1630年頃 誕生

安房国保田(千葉県)に生まれます。

縫箔刺繍業を営む家に、7人兄弟の第4子の長男です。

 

幼い頃より絵を描くのが好きで、家業を手伝い、刺繍の下絵などを描いていたようです。

 

祖父を頼って京都まで行き、土佐光起や狩野山雪のような有名な絵師を訪ね、土佐派や狩野派の画風を学びます。

 

 

 

1671年頃

江戸で版元の挿絵師として活動します。

 

師宣が生きていた江戸時代では、浮世本というものがありました。

内容は庶民向けの小説です。

 

他にも版元は庶民向けの娯楽を発信していて、吉原や歌舞伎のガイドブックや、色恋が描かれた好色本がありました。

 

そこに挿絵を描いてた師宣は頭角を現します。

 

そして井原西鶴が書いた「好色一代男」という本の挿絵を

一枚絵として売ると大ブレイクします。

 

好色一代男の内容は、主人公の男と様々な女性との色恋です。

 

それが後の浮世絵になっていきます。

 

 

 

 

 

1694年

見返り美人図」を描きます。

亡くなります。

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         菱川師宣見返り美人図』

菱川師宣 - Tokyo National Museum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5536036による

 

 

 

菱川師宣の作品

見返り美人図が有名過ぎる師宣ですが、たくさんの春画を残しています。

今日は少しうふんな絵を紹介しようかと思います。

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菱川師宣「拾弐図」のうち衝立の陰

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菱川師宣「拾弐図」のうち「低唱の後」

『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新より引用

 

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Moronobu Hishikawa - Freer Gallery of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50991481による

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菱川師宣 -CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58781180による

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菱川師宣 - http://www.mostrashunga.it/img/gallery/opere/big/21.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10370747による

 

上の画像はうふーん程度ですが、いやーんな絵もたくさん残しています。

 

正直見返り美人図のイメージしかない菱川師宣ですが、現代の性表現につながるいろいろな意味で後世まで影響を与えた偉大な絵師であったことがわかります。

 

性の表現にも歴史があるんですね。

 

 

 

春画に興味を持って見たことなかったのですが、少し見てみたくなりました。

 

師宣の「恋のむつごと四十八手」とか気になりますね。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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江戸時代のかっこいい幟旗!と自粛ほくほく話

今日も生きてます。

 

不要不急の外出を控えるということで、画材をアマゾンで購入しています。

 

宅配で何か頼むのであったらついでにあれもこれも…気になっていたあれも注文しようかなーと、ついで買いが多くなってしまいます。

 

ギャラリーフェイクの誘惑…。(漫画)

 

配達してくれる方々に感謝感謝です。

 

 

ところで、家の近くにお気に入りのインドカレー屋さんと焼肉屋さんがあります。

 

この一か月生き延びれるか(なぜか私が)はらはらしていました。

 

風の噂によると焼肉屋さんがテイクアウト(!?)を始めたそうです。

 

カレーも焼肉もテイクアウトして、

助力ではありますが買い支えしたいと思います。(ヨダレ)

 

 

いろいろ不安な状況ではありますが、

 

個人的にはホクホクの自粛期間です。

 

 

 

 

 

さて、『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新を読んでいます。

 

 

今まで江戸に活躍した絵師たちを見てきました。

 

今日からは庶民の中にあった日本美術についてみていきます。

 

 

長く続いた江戸時代、庶民の暮らしは豊かになっていました。

識字率も高かったようです。

 

江戸時代にあった庶民の美術として「浮世絵」があります。

 

今の日本では普通の家庭が絵画を購入して飾ることは気軽な娯楽ではないですよね。

(絵画以外にも高品質なものが安価で量産されてる)

 

しかし江戸時代に、浮世絵はうどん一杯ほどの値段で購入することができたそうです。(ワンコインでおつりがくる)

 

 

「絵」というものが今よりも身近で、みんな気軽に浮世絵を楽しんでいたことがわかりますね。

 

 

ということでこれから庶民に愛された浮世絵師や、その作品をみていきますが、今日は浮世絵ではなく「幟旗」(のぼりばた)についてみていきます。

 

 

 

なぜかというと江戸時代には絵として完成度の高い幟旗がつくられていたからです。

 

 

下をご覧ください↓

 

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「双龍」江戸時代

『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新より引用

 

どうですか?

 

現代の集客のために店の前に並べられている幟とは別物ですよね。

 

 

 

 

国旗のような旗は全世界でありますが、縦長の幟旗は日本独自のもののようです。

 

 

日本に来られた外国の方でも、お店の前に並ぶ幟旗をみて驚く方もいるとか。

(そういえばイタリア行ったときに幟旗は見なかったなあ)

 

 

幟の起源は平安時代までさかのぼれますが、現代の縦長デザインになったのは戦国時代です。

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関ヶ原合戦屏風』(江戸時代後期)

Collection of The City of Gifu Museum of History - page (slice 123456), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9837322による

 

戦の時に人が入り乱れ、敵か味方かわからなくなってしまうため、家紋が描かれた幟旗を掲げて戦っていました。

 

 

もともとは武家が使っていたのですが、それを庶民が真似するようになりました。

 

 

生活の中で幟旗の出番は神社の奉納旗と端午の節句などで立てられる節句旗がありました。

 

 

神社で立てられる旗というものは神事で神様が降りてくるための目印である「招代(おぎしろ)」の意味があったそうです。

 

また、神社に奉納された幟には、名前が記されている場合もあります。

 

 

江戸時代後期には一流の絵師が描いた幟旗が登場します。

 

 

アートセンスが磨かれた庶民が洗練された絵を求めたということがわかります。

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「鯉金」江戸時代

『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新より引用

 

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「波に兎」江戸時代

『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新より引用

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藤井南溪「龍神と龍女」江戸時代

『マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー』監修矢島新より引用

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かっこいい幟旗ばかりですね。

龍ってかっこいいな。

やはりすべて縁起の良いとされるモチーフです。

 

絵師はこの長さ1メートル以上する旗の構図にどのように合わせて絵を描くかが腕の見せ所であったようです。

 

 

私だったら何描くかな~。

 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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絶筆の碑をたてた画僧「仙崖」

今日も生きてます。

 

引きこもりつつ元気に制作活動をしています。

 

最近友人がYouTubeデビューしたので楽しく視聴しています。

 

正直動画趣旨よりも、元気な友人の姿を見るのが目的となっています。

 

気軽に表現の場があるということはいいことですね。

 

 

 

さて、前回禅画を描いた僧として、白隠を取り上げました。

 

今日は仙厓義梵(せんがいぎぼん)を取り上げます。

 

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仙崖義梵「▢△〇」

 Sengai - catalogue, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26868326による

〇仙厓義梵(せんがいぎぼん)の人生

 

 

 

1750年 1歳

美濃国に農業を営む家の次男として誕生します。

 

1760年 11歳

美濃国にあるお寺「清奉寺」で出家します。

 

この時代美濃の国では百姓の子で長男以外に生まれると、禅宗の僧以外に出世の道はなかったようです。

 

1768年 19歳

武蔵の国にある「東輝庵」(現在神奈川県少林寺内に在る。)で修業します。

32歳ごろまでここで修業を続けていたそうです。

 

1768年 32歳

東輝庵で師匠が亡くなり、その後諸国を行脚します。

いつか定かではありませんが、出家した寺の清泰寺に帰ったことがありました。

 

その時の逸話として有名なものがあります。

 

 

仙厓が美濃に戻ります。

そこでは大垣藩の財政が非常に乱れ、民が苦しんでいました。

そして財政主任の家老がよく変わります。

 

それを受けて仙涯は狂歌を詠みます。

(狂歌:社会風刺を五・七・五・七・七の音で構成したの短歌)

 

よかろうと

思う家老が悪かろう

もとの家老

がやはりよかろう

 

そしてこれを門前に貼り付けます。

 

藩では「生意気なやつだ。追放しろ」ということになります。

 

禅宗坊主はからかさ1本で追い出されたそうです。

仙涯はそこでまた一首。

 

からかさを

広げてみれば天が下

たとえ降るとも

みのは頼まじ

 

そして故郷を離れることとなりました。

 

 

 

 

1787年 38歳

博多にある聖福寺の盤谷(ばんこく)和尚の弟子になります。

この頃仙崖は京都に居ました。

博多の聖福寺は、日本に初めてできた禅寺です。

 

 

1788年 39歳

京都から九州へ出発します。

 

1789年 40歳

聖福寺第百二十三世の住職になります。

それから62歳まで聖福寺の住職として活動します。

 

狂歌を詠んだり、頓智の効いた逸話から、自由奔放(?)なイメージが強い仙崖ですが、聖福寺の住職に就いてからは、伽藍の建設や、弟子たちのためのお堂や秩序の整備、お寺の財政をどうにかすること…などなど、お寺のために真っ当に忙しく仕事をしていたそうです。

 

めちゃくちゃ真面目な人間だと推察します。

奔放な人は一つの場所で何かのために同じ仕事をずっと続けることはできません。

 

1811年 62歳

聖福寺の住職を弟子に任せます。

 

画を描き始めたのは40歳頃からのようです。

尾形派の作品を模写した絵も残っています。

(最初はいわゆる「上手い絵」も描こうとしていたのか?)

 

しかし隠居したあとから作品が多くなります。

生前から仙崖の作品は人気で、仙涯のいる虚白院にきては紙を置いて帰る人がたくさんいました。

 

 

生業ではなかったようでお金はもらってなかったようです。

まあでも日本人なのでお金ではない形でお礼はあったのではないかと推測します。

(お土産であるとか、または寺の檀家としてのお付き合いの継続とか)

 

 

70歳を過ぎ、どんどん画賛を求める人が多くなると

 

うらめしや

我が隠れ家は雪隠(せっちん)か

来る人ごとに

紙をおいてゆく

 

雪隠はトイレのことです。

あまりに絵を求める人が多いのでちょい困ったぜという和歌ですね。

 

仙崖は物書き役でもなけれども

ひとがたのめばしやう事もなし

 

依頼の多さに困りつつも求められれば↑のように全てに応じていたところが器の大きさを感じます。

 

 

 

 

 

 

嘘か本当かはわからない逸話の一つに浦上春琴とのエピソードがあります。

 

浦上春琴は玉堂の息子です。以前取り上げました。

酔って絵筆を握る画家「浦上玉堂」(うらかみぎょくどう) - リアル絵描き日記

 

 

 

当時画家として知られた浦上春琴のもとを訪れた仙崖。

 

泥酔した春琴の前で「李仙酔眠の図」を描きます。

 

その出来栄えに春琴の酔いは醒め、仙涯に言いました。


「禅師の絵はまことに運筆霊活、じつに妙手です。

 

しかし他人の人ならいざ知らず、私は禅師にしてこの技あることを密かに憂えます。かの雪舟を思い起こしてください。

 

雪舟は我が国禅門の高僧でありながら、後世の人はただその画を讃美するばかり。禅僧としての徳など思いもしません。まことに千秋の恨事はんじです。

 

禅師、ここをよくお考えください」

 

仙崖はこれを聞いて殊勝にも「よく考えを奉じます」と答え、

描いた絵を即座に寸断しました。

 

これがきっかけかはわかりませんが、73歳に描いた作品の中で「崖画無法」という賛を書きます。意味合いとしては、仙崖の描く絵に形式は無い=自由だということでしょうか。

 

 

1832年 83歳

 

絶筆の碑を建てる。

 

しかし依頼が止まず、絶筆ならず

 

この逸話が個人的には面白いです。

あまりの絵の依頼の多さに絶筆の碑というものを建てたそうです。

そんなものを建てたのは仙崖だけでしょう。

しかし依頼は依然多く、絶筆にならなかったそうです。

 

おそらく断れない性格なのかな?と思いました。

この絶筆の碑を描いた作品が残っています。

周りの人間は絶筆させる気ナシです。笑

 

 

 

1836年 87歳

住職の座を渡した弟子が、藩の怒りにふれ流罪になります。

仙涯が再び聖福寺の住職になります。

 

1837年 88歳

亡くなります。

 

 

 

〇仙崖の作品

 

 

 

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仙崖義梵「指月布袋図」

 

  「マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー」監修矢島新、誠文堂新光堂出版より引用

 

あの月が

落ちたら

誰にやろうふ

かひ

 

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仙崖義梵「犬図」

「マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー」監修矢島新、誠文堂新光堂出版より引用

きゃんゝ

 

 

 

 載せたい画像が引用できなかったのですが、仙崖の作品の中には蛙を描いたものがあります。いろいろな種類があり、蛙が上の二枚の絵のようにゆるいタッチで描かれたものです。

 

 

その種類の一つの賛に坐禅蛙(ざぜんがえる)」と呼ばれるものがあります。

座っている蛙坐禅して人が仏になるならハ(ば)」と書かれています。

 

 

画像がないもんで伝わらないかもしれませんが、

座っているだけで悟ることができるなら、蛙でも悟ってるわ

というようなことを示しています。

 

 

 

知ると人に伝えたくなる絵と賛、逸話がたくさんある仙崖です。

人々に愛されていたことがよくわかります。

 

 

このようにゆるい絵柄でありながら賛と合わせてなかなか洒落と皮肉の効いた作品も数多くあり、面白いです。

 

 

冒頭に▢△〇の絵を載せました。

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Sengai - catalogue, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26868326による

 

これは様々な憶測がささやかれている作品です。

鑑賞者によってはただの図形が並んでいる絵ですが、これはいったい何を象徴しているものなのか…?

奥が深すぎて人生をかけられる類の作品です。

今日は触れないでそっとしておきます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆるかわいい日本画というような表現でまとめてる本って何冊か見たことがあり、そんなものには興味ないなあと思っていました。

 

 

個人的に美術史のくくりの中で他の作品と同じように禅僧の描いた作品を鑑賞することは、もしかしたら禅僧が描いた禅画の本質を見誤る可能性があるなと思います。

 


モノとしては紙に描いた絵ですが、描いているのは絵描きではなく、宗教家です。

 


宗教家の人生の目的って、制作ではなく、悟りを得ることですもんね。

 


キリスト教や仏教の他の宗派は聖書の一場面にせよ、菩薩にせよ、プロの絵描きに依頼した作品が残っています。

 


修行や布教の一環なのかもしれませんが、僧自らが表現活動するのって禅だけなのでしょうか?面白いですね。

 

 

白隠や仙崖は絵はゆるいですが人生(&修行)はきつい。このきついものを乗り越えて悟りを開いた後のゆるさだと奥深さが全く違いますね。

 


ゆるい表現方法にはそこまで惹かれませんが、その表現で何を伝えたいのかは興味があります。

 

 

 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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禅画を知ろう!白隠

今日も生きています。

 

 

外に出るときはなるべく人から離れて離れてと意識しています。

 

このソーシャルディスタンス(シング?)や入場規制、平時から美術館などに少しでいいので取り入れたら快適なのではないかと思いました。

 

東京は一つの施設やイベントに集まる人数が許容量を超えているように感じるときがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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白隠慧鶴筆『達磨図』

画像はパブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=400536より引用

 

さて、上の作品は白隠 慧鶴(はくいんえかく)「達磨図」です。

 

達磨図のように、禅僧が禅の境地を描いた作品のことを「禅画(ぜんが)」と言います。

 

上の作品に描かれているのが禅宗の祖とされる達磨僧です。

達磨僧は南インドから中国に渡った僧です。

 

 

選挙や受験などで願掛けするダルマの由来になった人でもあります。
以前ブログでも取り上げましたのでダルマについてはこちらもご覧ください。

akashiaya.hatenadiary.jp

 

 

 

 

 

 

達磨僧が祖で、大乗仏教の一派でもある「禅」は、坐禅の修行が有名です。

 
 

 

日本に禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初めです。

室町時代には幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展しました。 

 
そして武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺が建てられるようになります。

禅僧により、五山文学や水墨画文化芸術活動が盛んに行われました。


 

 

今日は江戸時代に活躍し、独創的な禅画を描い禅僧

 

白隠 慧鶴」(はくいんえかく)

 

についてみていきましょう。

 

 

 

 

 

 

白隠 慧鶴 (はくいん えかく)

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白隠慧鶴 「円窓内自画像」 白隠80歳の自画像

Hakuin Ekaku - http://www.terebess.hu/zen/hakuin/img/52.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2714722により引用

 

白隠 慧鶴は臨済宗中興の祖とも呼ばれています。

教えを求める弟子や信者のために、メッセージとして絵を描きます。

 

 

 

白隠の人生

 

1686年に、駿河国原宿静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれます。

 

15歳のときに地元の松蔭寺で出家します。

 

出家のきっかけの一つとして知られる逸話で有名なものとして、母に連れられた寺で聞いた地獄の話に衝撃を受け、その恐れから離れたかったというものがあります。

 

 

そして出家した後は各地でいろいろな禅匠に会い、修行を重ねます。

禅修行に疑問を感じ、詩文や書画に没頭した時もありました。

 

22歳で高僧・大愚宗築(たいぐそうちく)の書に出合い、上手い下手ではなく修行者の人格の表れが心を動かすのだと気づき、それまでの書画はすべて燃やし、修行に専念します。

 

その後20代の頃に開悟します。

 

さらに修行を続け、信濃では正受老人に厳しく指弾され、老婆に箒で叩き回されて次の悟りを得ます。

 

1716年には、松蔭寺に帰郷します。

 

42歳でコオロギの声を聴き、その時に仏法の悟りを完成しました。

 

 その後地元で布教を続け、衰退していた臨済宗を復興させました。

駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠とまで謳われるようになります。

 

1769年 に松蔭寺にて亡くなります。

 

 

 

 

白隠の作品

 

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白隠慧鶴「布袋すたすた坊主」

 「マンガでわかる日本絵画の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー」監修矢島新、誠文堂新光堂出版より引用

 

白隠の絵画は絵の中に言葉が書き込まれています。

「画賛」(がさん)と言います。

 

上の絵の中、向かって右側には

 

「布袋どらをぶちすたすた坊主になる所」

 

左側には

 

「来た来た又来た来た、

いつも参らぬ、さひさひ参らぬ、すたすた坊主、

夕べも三百はりこんだ、それからはだかの代参り、

旦那の御祈祷、それ御きとう、ねぎの御きとう、猶御きとう、

一銭文御きとう、なあ御きとう、かみさま御きとう、よひ御きとう」

 

 

と書かれています。

 

「すたすた坊主」というのは、江戸時代の頃、忙しい人々の代わりに神仏にお参りに行くと称して、芸を見せたりしてお金をもらっていた人たちのことです。

 

この絵の中では、布袋がすたすた坊主となって、人々に功徳を施すところを描いています。

 

実際に左側の画賛のようなことを唱えながら、自分の体にぴしゃぴしゃ水を掛けながら水垢離(みずごり:神仏に祈願する時に冷水を浴びる行為)などをしていたようです。

 

白隠はその様子を布袋さんに見立てて描いています。

 

「三百はりこんだ」というのは「ばくちで負けた」ということ。

 

尊い存在である布袋がばくちですって一文無しになり、すたすた坊主となって代参りをしてしのいでいます。


「布袋どらをぶち すたすた坊主なる所」というのは、布袋が銅鑼を打ち鳴らしながら、すたすた坊主となって歩き回ると言う意味です。

 

「どらをぶつ」=道楽のことで、「布袋さんの道楽」=「説法」が過ぎてすたすた坊主になってしまっても、皆さんの福を祈りましょうという解釈ができます。

 

 

 

 

 

 

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白隠慧鶴「蛤蜊観音図」

画賛には

 

「慈眼視衆生 福壽海無量」

 

と書かれています。

 

法華経』普門品にある「慈眼視衆生、福聚海無量」が元となっていますが、「聚」の字を「壽」字に変え、大きく強調して書かれています。


白隠は他の禅画でも「壽」の文字を使っています。

他では「ながひき」とルビをふり、長寿を意味する「壽」字を晩年まで使いました。
 

 

 

 

中央に描かれているのは、蛤蜊から出現して蓮華に乗り説法をする観音様です。

 

観音様の説法をきく人々の頭には、龍王、蟹、蛸、海老、巻貝など海の生物がのっています。(!?)

 

 

法華経には観音様がこの世のさまざまな衆生のために、その衆生に応じた姿となって現れ救済してくれるということが示されているそうです。

 

「唐文宗帝大和五現」という話の中で、蛤蜊を人一倍好んだ文宗帝が、ある時蛤蜊より現れた観音によって一大因縁を悟ったというというものがあり、題名にもある「蛤蜊観音」は、三十三観音の一つであるそうです。

 

蛤蜊観音は他の作家にも描かれましたが、通常は蛤蜊と観音のみを描いたものが多く、このような聴衆を描き込んだのは白隠オリジナルです。

 

海の中の観音様みたいで楽しいですね。

個人的にリトル・マーメイドを思い起こしました。

 

 

 

 

 

禅の修行のし過ぎがもとでなってしまう病気「禅病」があることを白隠の人生から初めて知りました。うつやノイローゼのようなものであるそうです。

 

禅の祖と言われる達磨僧は両手足を失うまで坐禅し続けた人。禅の修行というものは厳しいもので、白隠も厳しい修行を続けていたのだろうと推測します。

 

そういうつらい修行を通して悟りに至った僧が、上の絵のように一見たのしくて歩み寄りやすい禅画を描いていることに白隠の深さを感じます。

 

経典や歴史的背景を知らないと白隠の絵画の意図を真にキャッチするには難しいかもしれませんが、絵の表現は悟りへの敷居を低くしてくれているようです。

 

他の人々を救おうという気持ちがこういう作風につながったのかなと思います。

 

 

 

 

今日はここまで。

次回は仙涯について取り上げます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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酔って絵筆を握る画家「浦上玉堂」(うらかみぎょくどう)

今日も生きてます。

 

今日も「マンガでわかる『日本絵画』の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー」監修矢島新を読んでいます。

 

 

時代に沿って有名な画家をみてきましたが、今日は江戸時代の文人画家「浦上玉堂(うらかみぎょくどう)」です。

 

 

文人画家の作品は個人的には難解です。

鑑賞には教養や知識が必要です。

 

ちなみに文人画とは何ぞやという方は以前ブログでも取り上げましたので、よろしければこちらをご覧ください。↓

与謝蕪村をもう一度学ぶ。 - リアル絵描き日記

 

とりあえず今日は第一歩ということで経歴と作品を見ていきます。

 

 

 

〇浦上玉堂の人生

 

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浦上春琴「玉堂寿像」 林原美術館

浦上春琴 - 図録「玉堂と春琴・秋琴 浦上玉堂父子の芸術」福島県立博物館 平成4年, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19487038により引用

1745年

備前岡山藩池田家に仕える武士の子供として岡山城下の藩邸内(岡山市北区神町)に生まれました。

 

7歳 

父の病没により7歳で家督を相続します。

 

16歳

鴨方藩である池田政香に初めて会います。

その後側近となり忠誠を尽くし、順調に出世します。

 

24歳

池田政香が25歳の若さで病死してしまいます。

 浦上玉堂は葬儀を取り締まる大役を果たします。

 

31歳

参勤交代の御供頭(おともがしら)になります。

 

玉堂はこの頃、学術(儒学・医学・薬学)や芸術(詩・音楽・七絃琴)分野の関心が強くなります。

特に七絃琴は、演奏家、作曲家、造琴家としても活躍するようになります。


 

37歳

藩の重職になります。

 

 

 

40歳代

本格的に画業を始めます。

 

 

43歳

左遷されます。

(芸術活動がふさわしくないと思われたか。)

 

48歳

妻を亡くします。

 

 

49歳

脱藩届を送ります。

そして長男の春琴(16歳)と次男である秋琴(10歳)を連れて岡山を発ちます

 

 

 

脱藩後の玉堂は諸国を遊歴します。

 

連れていた息子たちとは、江戸で春琴、会津で秋琴と別れます。

 

会津を発ってからは、諏訪、京都、大阪などをまわりました。

 

 

50歳代後半

京都を中心に活動します。

 

 

60歳

京都、大阪、名古屋に姿を現します。

 

60歳代前半

周防、再び大阪、水戸、飛騨、金沢を訪ねます。

 

長崎では、幕臣かつ文筆家の大田南畝

広島では、儒学者の頼春水と漢詩人の菅茶山

大阪では、文人画家の田能村竹田

金沢では、藩士文人の寺島応養

 

各地で様々な文化人と交流します。

 

 

 

67歳

京都に暮らす長男の春琴のもとへ身を寄せる。

 

その頃の春琴は関西きっての人気画人となっていた。

 

 

76歳

亡くなります。

玉堂は本能寺に葬られ、春琴とともに眠っています。

 

 

 

 

 

〇浦上玉堂の作品

 

 

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浦上玉堂「山雨染衣図」 需要文化財

Uragami Gyokudō - http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1972, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42463371により引用

 

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浦上玉堂「凍雲篩雪図」国宝

Uragami Gyokudo(1745 - 1820) 浦上玉堂 - Kawabata Foundation (公益財団法人 川端康成記念会) 記念館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2091434により引用

 

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浦上玉堂「双峰挿雲図」

Uragami Gyokudô - Catalogue, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26868332により引用

 

 

 

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浦上玉堂「山紅於染図」愛知美術館

「マンガでわかる『日本絵画』の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー」矢島新監修、誠光堂誠光社より引用


独学で絵を学んだ浦上玉堂。

やわらかな線など、中国文人画の影響を強く受けた画風です。

 

独自の画風を確立しましたが、職業画家としてみられることを嫌い、その姿勢を生涯貫きました。

 

上の作品は左上上部には「酔作」と書かれており、酔って絵筆を握ることも多かったそうです。

 

友と酒、そして琴を愛し、各地を旅して暮らしました。

 
35歳の時に手に入れた七絃琴に刻まれていた琴銘「玉堂清韻」にちなみ玉堂琴士と名乗るようになります。

 

 

 

 

 

〇息子たちの作品

浦上玉堂の息子たちも絵を描いています。

特に長男の春琴は人気画家として活躍します。

弟秋琴は藩士として活躍し、芸術活動としては音楽方面が多かったようです。

 

 

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浦上春琴「模施溥倣董北苑筆意山水図」

浦上春琴 - 図録「玉堂と春琴・秋琴 浦上玉堂父子の芸術」福島県立博物館 平成4年, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19486989により引用

 

 

 

 

 

 

 

 

川端康成ドラッガーブルーノ・タウトなど…浦上玉堂を愛した有名人はたくさんいる様です。

 

個人的な感想を言ってしまうと、私には浦上玉堂より、息子の春琴の作品の方が絵として良いようにみえます。というより息子の絵は素直に素晴らしいと感じられます。

 

これは春琴は職業画家として絵を描いていたため、一般にも理解しやすいような絵の魅力があるのかなと思います。

はっきり言うと息子の方が色も形もわかりやすいし、洗練されているように感じます。

 

実際みてないので実物を見ると浦上玉堂の良さもわかるのかもしれません。

 

浦上玉堂の作品は自分のために描いている作品ということもあり、もうちっと説明が欲しい感が個人的にはあります。

 

ですがこれが画風で個性で良いところというのが現代の評価なのかもしれません。

 

画題の理解が進むともっと鑑賞につながりかもしれないな…

 

 

ちなみに私は酔って筆を握ることは無いです。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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酒井抱一を知る

今日も生きてます。

 

雨が降っています。

 

以前道を普通に歩いていたら、なぜ水たまりを避けずに歩くのか聞かれました。

 

逆にどこでみんな教えてもらってるんだろうか。

 

考え事していたり、目を引くものが視界の中に入ると、不注意を極めてしまいます。

 

外ではもう少し気を張ろうと思います。

 

 

 

 

さて、「漫画でわかる『日本絵画』の見かたー美術展がもっと愉しくなる!ー」も読み進めて112ページです。

 

江戸時代中期の画家が終了し、今日から江戸時代後期の画家を見ていきます。

 

 

今日は酒井抱一(さかいほういつ)についてみていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒井抱一の人生

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雪月花図 MOA美術館

酒井抱一 - 0wEv1-oTzP4_3Q at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29856614による


 

1761年

神田小川町姫路藩別邸で、後の姫路藩主の次男(第4子)として生まれます。

 

幼少期には両親が相次いで他界し、12歳のときに祖父も亡くなりました。

 

抱一は後の藩主になる6歳違いの兄・忠以が何かあった時の保険として育てられます。

 

 

 

 

 

1777年・17歳

元服して1,000石を与えられます。

兄に男児が生まれ、家督問題から抱一は解放されます。

 

抱一が生まれた家は文化や芸術に対して理解者が多く、抱一も影響を受けて育ちました。

 

絵は狩野派につき勉強し、1783年-1784年の頃には、浮世絵師の歌川豊春にも師事します。抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存しており、美人画は馴染みの遊女を気品ある姿で描いています。

 

 

 

 

1790年

兄が亡くなります。

 

1797年・37歳

抱一、出家します。

 

武家の身分から解放され、市中に暮らす隠士として芸術や文芸に専念できるようになりました。

 

 

寛政(1789年ー1801年)の半ば頃

抱一が尾形光琳に私淑し始めます。

 


1806年

宝井其角の百回忌にあたり、其角の肖像を百幅を描きます。

そこに其角の句を付け人々に贈ります。

宝井其角(たからい きかく)は江戸時代前期の俳諧師です。

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宝井其角(『國文学名家肖像集』)

Hannah - Japanese Book 『國文学名家肖像集』, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7847297による

 

 

1807年

光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会します。

 

1813年

『緒方流略印譜』を刊行します。

落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えます。

 

1815年

光琳没後100年にあり、光琳百回忌を開催します。

 

妙顕寺に「観音像」と「尾形流印譜」、金二百疋を寄附します。(1疋=10文のち25文)

根岸の寺院で光琳遺墨展を開催しました。

縮小版展覧図録である光琳百図』を出版します。

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Creator:Sakai Hōitsu - , CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59374752により引用

 

1819年

光琳墓碑の修築します。

 

1823年

光琳の弟である尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てます。

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Creator:Sakai Hōitsu - CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58780759により引用

 

1825年

光琳百図』を追補した光琳百図後編』二冊を出版します。

 

 

1829年・68歳

亡くなります。

弟子には鈴木其一など高名な絵師が多数います。

 

 

 

 

 

 

 

酒井抱一の作品

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月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11029057により引用

 

 

 

酒井抱一は俳句や絵をつくったアーティストとしても有名ですが、尾形光琳の研究者としての面も後世には大きな影響を与えているのかな~と思います。

 

 

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抱一の尾形光琳の屏風画を模写したもの

 

↑は酒井抱一風神雷神図屏風です。

 

酒井抱一尾形光琳風神雷神図屏風を模写しています。

 

尾形光琳が模写した俵屋宗達風神雷神図屏風を、酒井抱一は見たことが無かった説があるようです。

俵屋宗達のことを酒井抱一はどう思っていたのかな…

 

1821年、酒井抱一は絵の依頼を受けます。

将軍家斉の父一橋治済へ、古希を迎えた治済の祝辞のための作品を制作してほしいというもの。

なんと憧れている尾形光琳風神雷神図屏風』の裏面へです。

 

↓がその作品。

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「風雨草花図」(通称:「夏秋草図屏風」)


酒井抱一 - Emuseum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8332724により引用

現在は剥離され、別装されているようです。

 

個人的には草花の描写や控えめかつおしゃれな雰囲気が好きです。

 

描かれているモチーフや選ばれている色は、表に描かれていた尾形光琳風神雷神図屏風呼応するように表現されています。

 

・『風神雷神図屏風』の豪華な金地に対して、閑寂の趣の強い銀地を採用

 

・雷神隻の裏面には、雷神が引き起こした雨「夕立」の中の夏の植物が描かれています。

 

・風神隻の裏面には、風神が引き起こした風に吹かれる秋草が描かれています。

 

それぞれ神々の司る自然要素を季節に置き換えて描かれています。

 

 

 

 

尾形光琳のキンギラキンの様式をそのまま表現として使用するのではなく、光琳に対して俺なりの美意識をリスペクトしつつ描いているところがカッコいいです。

 

 

 

尾形光琳京都の作家

 

それに対して酒井抱一生粋の江戸っ子です。

 

琳派の中でも酒井抱一やその弟子鈴木基一は江戸琳派と称されます。

 

 

 

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書画扇面散図 谷文晁、春木南湖、亀田鵬斎、菊池五山との寄合書 ブルックリン美術館所蔵

酒井抱一 - Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 2004, TL2004.10.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10969435により引用

 

 

 

 

 

 

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桜図屏風(メトロポリタン美術館

Creator:Sakai Hōitsu - CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58776808により引用

 

 

 

 

誰かひとりすごく尊敬できる人間が居る人っていいなと思います。

それだけで幸せですよね。

 

実は私はそこまで尊敬できる存在ないんです。

もちろん尊敬してる作家や素晴らしいと思う作品はあります。

 

でも比べると熱量は低いだろうな。

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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手持ちの画集を見返そう!

 

 

 

今日も生きてます。

 

 

カラヴァッジョ、フェルナン・クノップフエドワード・バーン・ジョーンズの画集。

錯視芸術図鑑もいいな。

または蝶の標本。荒俣先生の図鑑でもいいなあ。

いや、ギャラリーフェイク全巻大人買いでもいい。

 

もし給付金の対象になったら…とむふふとしていました。

 

 

そういえば私誰の画集持っていたっけ?と思い、今日は整理整頓も含め資料公開です。

 


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おとぎ話や神話について描かれた作品が掲載されている本です。

 

本の装飾が凝っていてかわいいです。

 


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浅い内容と思いきや、北欧神話まで説明されています。でぃーぷ。

 

 

 

 


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クリムトの画集です。

 

本人の写真なども掲載されていて楽しいです。


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面白い服だ。

 

 

 

 


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渋谷の美術館(どこだったかなあ?)の企画展の図録です。

 

内容が大人向けのものが多いかも。

正直もう必要ないかも。

必要な方がいたら差し上げたい。

 


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デイヴイッド・ホックニーの写真の作品が良かったです。

絵画の世界観がそのまま過ぎて嬉しい。


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以前紹介もした吉田博の画集です。

お客様からいただきました。

(むしろ遠回しに奪ったに近いかもしれない。)

ありがとうございます。

 

 

 


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アントニオ・ロペスの企画展の図録です。たしかBunkamuraだったかな。

 


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執拗な手数と描写が魅力的です。

 


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曇りガラスの描写がもはや狂気のレベル。

 

 

 

 


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浪人中に勢いで購入したマレーネデュマスの画集です。

(めっちゃ重い&大きい)


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人種やジェンダーについて問題提起するような表現です。

 


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水彩の感性がすごい。

私にはない。

 

 

 

 


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いつかの藤田展の図録。

 


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意外に服着た作品の方が好みかも。

かわいらしい…

(肌が露出した絵は肌だけだ)


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ラファエル前派展の図録です。

 


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確か↑の作品は甘美なる無為といったような題名だったか…。

絵画に対する意見表明のようで好きです。

 

意味や教訓のある作品も面白いけど、あればあるほどうるさくなる不思議。

 

特にたったこれだけの表現でこんな深いことを表現したったぜ!という無言のドヤ感が個人的には苦手なときがあります。

 

 

 

 


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エッシャーの図録です。

開きやすくて見やすくて最高の本です。


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イデアも素晴らしいけど、版画の美しさも教えてくれる展覧会だったなあ。

 

 

 

 

 


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これはいつ購入したか忘れてしまいました。

高校生かな~

 


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↑の作品を横浜の美術館で拝見しました。

緻密で質感もきれいだった。

美しい風景でした。

 

 

 


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松井冬子さんの個展の図録。

これのためにはじめて横浜にいき、都会の子供はこんなおしゃれで観光設備の整った街で育つのかと色々驚きでした。

 

私は神社でドングリ拾ってそだちました。

 


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桜って日本画だと爽やかに可憐に美しく描写されているものが多いですが、松井冬子さんは怪しくてこれも素敵です。

 

個人的に自然は畏怖するものだと思っているのでこちらの作品の方が共感できる。

 

何故かこの作品を見て秋田の千秋公園の桜を思い出しました。

 


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松井冬子さんらしい団扇で素敵です。

 

 

 

図録や画集を見ているとそのときの記憶がよみがえりますね。

新しい仲間が増えることを期待。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

藤田のフィーバーしている写真を忘れてました。


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楽しそうです。