北斎の漫画って?北斎漫画を知る
今日も生きてます。
洗濯物を干そうとしたら完成間近の蜘蛛の巣を破壊してしまいました。
ごめんねーとおもいつつ放置。
夕方にどのくらい修復されているかが楽しみです。
昨日北斎は88歳まで生きたと記しましたが、本当は90歳でした。
申し訳ございません。
修正しました。
さて、今日も葛飾北斎の作品を紹介します。
北斎の逸話については以前取り上げましたのでこちらもご覧くださいませ。
前回は「富獄三十六景」について取り上げました。
さて、生涯現役を貫いた葛飾北斎は亡くなる直前まで絵を描き続け、特に挿絵は1400点制作しました。
しかも北斎の場合は同じモチーフを同じような構図で量産したわけではなく、いろいろな構図を試し、様々なモチーフを描いています。
まさに画狂人ですね。
ちなみに北斎の最後の雅号は「画狂老人卍」だったそうです。
自覚はあったんだなー。
カッコイイぜ。
北斎はどんなところで絵を学んだのかを少し見ていきましょう。
北斎はどんなところで絵を学んだのかというと、最初19歳で勝川春章(1726-93年)に入門しします。
この頃は勝川派の絵師として、春章の様式に倣った表現で制作していました。
ちなみに勝川春章の作品は↓のようなものです。
弟子時代、看板を描く依頼を受けた北斎は、得意になって看板を描きます。しかし兄弟子に「未熟だ」とその看板を破り捨てられてしまったことがあったそうです。
悔しかった北斎は絶対に巧くなるぞと誓いました。
この逸話が本当だとすると、画狂人も生まれた瞬間から絵が上手だったわけではないんだなあということ。
もう生まれた瞬間から筆で富士山描いてるイメージでした。
10年後、勝川春章に隠れて他流派を学びます。
狩野融川の元で狩野派の画法、
3代目堤等琳についたり、
『芥子園画伝』などから中国絵画…などなど。
その後「琳派」に移り、雅号を「俵屋宗理」と改め、指導する立場になりました。
俵屋宗理の名前で発表した美人画は「宗理美人」と呼ばれ大流行しました。
しかしその「宗理」の名を別の門人に譲ってしまい、北斎は琳派からも離れてしまいます。
勝川派からは破門されてしまいました。
しかしその後も北斎は制作をつづけ、挿絵を精力的に描きます。
北斎50代頃になると門人も増えていきました。
北斎の絵を学ぶ人も全国にいたそうです。
そこで北斎弟子たちのために「北斎漫画」という絵手本を制作します。
葛飾北斎 - https://research.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details/collection_image_gallery.aspx?partid=1&assetid=980478001&objectid=3358006, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86152297による
Katsushika Hokusai 葛飾北斎, (1760–May 10, 1849) - Touch&Turn, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4662255による
Katsushika Hokusai (葛飾北斎, Japanese, †1849) - scanned from ISBN 978-4-336-04636-9., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5771673による
葛飾北斎 - Michener, James A. (1958) Hokusai Sketchbooks: Selections from the Manga, Rutland, Vermont & Tokyo: Charles E. Tuttle Company, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2311369による
北斎漫画は一巻完結の予定だったが、好評のため版元を変更しながら版行が続いたそうです。
初編序に「事物をとりとめもなく気の向くまま漫(そぞ)ろに描いた画」と北斎の言葉があります。
北斎に描けないものは無かったのかなと思わされるほどあらゆるモチーフが描かれています。
ところが逸話の一つには80歳になるのに猫一匹満足に描けないと号泣したというものもあります。
森羅万象を描きたい思いが制作の源であったのだなあと思います。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。