伊藤若冲を振り返る
今日も生きてます。
江戸時代に活躍した作家についてみてきました。
今日は中期に活躍した伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)についてみていきましょう。
久保田米僊 - 相国寺, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46577211による
〇伊藤若冲の人生
1716年
青物問屋の長男として京都・錦小路に生まれます。
今も京都に錦市場商店街ありますよね。
私も観光で行ったことがあります。
ここが若冲の生誕の場所です。
錦市場のお店の中にはシャッターに伊藤若冲の作品が描かれていたり、商品に若冲の絵が使われていたりなど、若冲にゆかりのあるものをたくさん触れることができます。
若冲が生まれた青物問屋「枡屋」は、野菜を一般庶民に売る小売ではなく、各地の野菜など生鮮食品を集めて小売(八百屋)に卸して販売させる一種の流通業であったようです。
若冲が生まれた家は家賃収入などもあり、大変裕福でした。
そして若冲が23歳のとき、父が亡くなり、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。
伊藤若冲は絵以外にはあまり興味が無く、妻帯せず、肉食を拒み、菜食主義であったようです。
1755年
1765年
枡屋の跡取りの予定であった末弟・宗寂が亡くなります。
他に枡屋を継ぐ人間が居なかったのか、若冲は死後のことを考え、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡します。
そして問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約したそうです。
この年に「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進しました。
京都で亡くなります。
〇伊藤若冲の作品
「動植綵絵」は、30幅の動植物画と3幅の釈迦三尊像からなる細密画です。
制作には10年をかけました。
伊藤若冲 - http://img134.imageshack.us/img134/8396/4021hc.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3579423による
伊藤若冲 - Impressions, Number 34, 2013, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27373248による
伊藤若冲 - Impressions, Number 34, 2013, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27373639による
伊藤若冲 - Impressions, Number 34, 2013, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27373315による
Itō Jakachū - The Great Japan Exhibition: Art of the Edo Period 1600-1868, ISBN:0297780352, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2855681による
若冲の作品は高価な顔料と染料を贅沢に使用しています。
私も美術館で若冲の作品を見ましたが、ツヤっツヤっでした。表現も素晴らしいのですが、絵の具の質も魅力的です。
使用されている技法
輪郭線を引かずにモチーフを描く手法
・裏彩色(うらさいしき)
絵絹の裏から色を塗りこむ手法
伊藤若冲(1716-1800) - 静岡県立美術館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87385884による
上の作品は若冲オリジナルの手法「桝目描き」で描かれています。
拡大してみるとモザイク画のようです。
どのように描かれているかというと、画面に約1㎝四方の桝目を描き、その中に様々な色を塗り重ねてモチーフを描いています。
西陣織の下絵に着想を得たともいわれています。
鮮やかな鳥の作品のイメージがある若冲ですが、水墨画の作品も数多く制作しています。
中国輸入の画仙紙(がせんし)と言われる紙を使用しました。
この紙の特性を利用し、墨を塗り重ねたときに出る白い筋目を利用し、鳥の羽や魚の鱗を表現しました。
この技法は「筋目描き」と呼ばれ、若冲が開発しました。
最近は昔購入した画集を見直したり、本を読んだりしています。
なかなか楽しいです。
若冲の鶏は絵からの圧が強いですね。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。