光琳を知ろう!⑥なぜ世界で日本美術といえば光琳なのか。
今日も生きてます。
少し間が開いてしまいましたが、元気です。
お花見に行きたい気持ちもありましたが、緊張感のある時期なので、お散歩ついでに近場の桜を見るにとどめました。
こんな春を迎える年もあるかな。
光琳について何回か続けて取り上げてきました。
尾形光琳①
尾形光琳を知ろう!①光琳よりも実兄「藤三郎」の行方が気になる。 - リアル絵描き日記
尾形光琳②
尾形光琳③
光琳を知ろう!③ざっくり作品をみてみよう! - リアル絵描き日記
尾形光琳④
光琳を知ろう!燕子花図屏風について知ろう! - リアル絵描き日記
尾形光琳⑤
光琳を知ろう!⑤紅白梅図屏風について知ろう! - リアル絵描き日記
今日は尾形光琳最終回です。
尾形光琳が亡き後、光琳のデザインが掲載された本が幾度となく刊行されました。
1735年「光琳絵本知辺」
1815年「光琳百図」
1817年「光琳漫画」
1818年「光琳道知辺」
1826年「光琳百図」後編
尾形光琳がなぜ後世でも愛され続けたのかという点を今日は見ていきましょう。
Creator:Sakai Hōitsu - CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58776808により引用
酒井抱一「桜図屏風」
それは、酒井抱一(さかいほういつ)です。
選ばれし琳派(勇者)として俵屋宗達の風神雷神図屏風の模写も残しています。
上の画像はSakai Hōitsu - Idemitsu Museum of Arts, Tokyo, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62858482より引用
尾形光琳のことも尊敬しており、尾形光琳が描いた「風神雷神図屛風」の模写の裏には「夏秋草図屏風」という作品を描いています。
↑の画像は酒井抱一 - Emuseum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8332724より引用
絵や俳諧に親しみながら育ちます。
1797年に出家した後、抱一は制作活動に加え様々な物事を展開していきますが、その一つが尾形光琳の顕彰活動でした。
尾形光琳の系図や作品の調査を行い、1815年には尾形光琳百年忌に際し、尾形光琳の展覧会を開き、「尾形流略系譜」「光琳百図」を刊行します。
このときに酒井抱一が発見した「尾形流」(俵屋宗達・尾形光琳)が、後の現代でいう「琳派」に発展します。
酒井抱一は大名家の出身ということで権力や影響力もありました。
〇ファッションとして光琳模様が大流行
上の画像は「小袖模様雛形本」というものです。
小袖模様を多数収録した昔の女性向けファッション雑誌です。
読者は書店で購入し、自宅などで見て楽しむことが目的に作られましたが、呉服屋に小袖を注文するときに、その中から選んで注文の参考にすることもありました。
この小袖模様雛形本の中に「光琳」の文字がたくさん出てきます。
光琳はファッションの世界の中でも有名でした。
「光琳模様」は尾形光琳の絵画様式の一部を小袖のデザインにとりいれたものです。
光琳模様の流行の期間は長く、江戸時代中期享保~正徳~元文期まで、なんと20年もの間町人の女性の間で流行しました。
〇「光林」模様と光琳
このような光琳風の模様は、尾形光琳が存命中のときから小袖模様雛形本の中に登場していました。
しかし表記は「光林」模様であることが多々ありました。
これはこのデザインに本人の尾形光琳は全く関わっていないということを示唆していると推察されます。
尾形光琳が顧客としていたのは上層町衆・公家・大名など…一般の人々を相手にはしていませんでした。
しかし個性的な作風のため一般の注目も集め大人気。
光琳の作品を直接手にすることが叶わないけれど欲しいと思っていた町人の女性たちをターゲットに、出版社や呉服商が「光琳模様」とその流行を作り出しました。
ちなみに尾形光琳が実際にデザインしたといわれる小袖は三点のみです。
↑尾形光琳がデザインしたとされる小袖 「白綾地秋草模様小袖」 東京国立博物館
〇世界に飛び出す光琳
西欧でジャポニズムが流行した時に、明治政府は美術工芸品の輸出復興政策をとりました。
そこで各地の万博に光琳の作品や、光琳に影響を受けた光琳風の作品が出品されるようになると、光琳が日本の美術の象徴として位置づけられます。
1873年のウィーン万博に光琳の『紅白梅図屏風』が出品されたとき、それをみたクリムトが影響を受けたことは有名です。
彼も選ばれし琳派(勇者)でした。
岡倉天心は日本美術史の講義の中で尾形光琳について↓のように言っていたそうです。
「此の人に至りて模様に対する考大いに面白く、画と模様との区別をなくせしたこと、非常の大事業なり」
現代から見ると、服のデザインに絵画に陶器に漆器にと、マルチに活躍しているように見える尾形光琳ですが、光琳が生きていた時代はそもそも工芸や装飾や絵画の境ってそんなに無かったのかなと思います。
(工芸に対し、「美術」という言葉ができたのは明治以降です。)
燕子花図屏風を見ても模様が繰り返し描いてあるだけだと認識していましたが、それを絵画として表現したのが尾形光琳の評価される点なんだとわかりました。
しかもただの カキツバタではなく、テーマは古典の伊勢物語です。鑑賞者に教養を求められますが、深く読み取ることのできる粋な表現です。
装飾ってただ画面をにぎわすものではなく、それそのものが意味を持ち、絵としての表現の主役になるということを堂々とやってのけた光琳は偉大なのかもなあ。
勉強になりました!
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました
↓かわゆい
参考・引用