尾形光琳を知ろう!②放蕩息子光琳!
今日も生きてます。
前回は尾形光琳の生まれた家の家業である「雁金屋」(かりがねや)についてみていきました。
今日は尾形光琳の人生についてみていきます。
尾形光琳(おがたこうりん)
1658年
京都の裕福な呉服商「雁金屋」の次男として生まれます。
前回触れたように、光琳は雁金屋が一番金回りが良かった時に生まれました。
たくさんの習い事(お茶・お習字・能楽など…)をし、教養を身につけなら育ちます。
呉服屋のセンスが良くて豪華な商品に囲まれて育ち、感性が磨かれたことでしょう。
そしてよく知られる話ですが、遊びに湯水のようにお金を使っていました。
1687年
父宗謙が亡くなります。
家業は光琳の兄藤三郎が継ぎ、光琳は莫大な資産の一部を遺産として受け取ります。
光琳、遊びまくります。
1693年
お金が無くなってきた光琳、ついに弟乾山に借金を頼みます。
気が付けばそれぞれ母親の違う子供が4人います。
(おそらく生活のため)絵師として活動し始めます。
上の画像は不明 - 『平成30年度特別展 文化財発掘Ⅴ「発掘 乾山窯」』(京都大学総合博物館), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84516410により引用
二条綱平 (1672~1732)は後に関白にまでなった(地位的に)えらい人です。
光琳とはもともと遊び仲間であったようです。
光琳の生活が困窮していた時、二条綱平は公家高級官僚の道を進んでいました。
1701年
44歳の光琳に法橋の位が与えられます。
「法橋」は高僧に与えられる僧位のひとつです。
絵師、仏師などにも与えられました。
ちなみに法橋は僧位の位の中では三位です。
一位は法印
二位は法眼
三位は法橋
40歳まで遊び惚けていた人間にいきなりこのような位が与えられるのはなんだか不自然です。
これは二条綱平が尾形光琳を推挙したため位が与えられる運びになったようです。
絵師として箔が付けば注文が取りやすくなるという思惑だったのでしょう。
上の画像はOgata Kōrin (1658-1716) - http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190706, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42912963により引用しました。
中村内蔵助(なかむらくらのすけ)です。
内蔵助は貨幣鋳造所の役人でかなーり裕福でした。
光琳とは大変馬が合ったようです。
(もしくは切羽詰まった光琳が必死に合わせていたのか…それはわかりません。)
作品の注文以外にも、光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育しています。(!)しかもその娘は後に光琳の息子と結婚します。
しかし中村内蔵助は仕事のため江戸へと引っ越しします。
1704年
光琳、内蔵助を頼って江戸へ行きます。
経済的にも切羽詰まった状況であったようです。
内蔵助は光琳を京都で有名な絵師として、大名などのお偉いさんに紹介して回ります。
(光琳的には営業でしょうか…)
江戸でも光琳はさまざまな仕事をします。
(姫路藩主・酒井家、津軽家、豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などとつながりがあったそうです。)
1709年
光琳、京都に戻ります。
おそらくこの頃内蔵助も京都に戻ったと思われます。(未確認)
1711年
光琳、二条城の東方に屋敷を構えます。
翌年辺りに人里離れて陶芸生活していた弟の乾山も、二条丁子屋に引っ越してきます。
よく乾山の器に光琳の絵付けがされた合作作品があると知られますが、おそらく光琳が京都に戻ってきたこの時期に制作されたのでしょう。
乾山は兄の光琳と違って内向的で学者気質であったようです。
1713年
光琳、長男寿市郎に遺言書を書きます。
「相究タル家業モ之レ無ク」
(「これと決めて頑張って来た家業も無く…」)
光琳は、長男を他家へ養子にやることを決心します。長男には残せる遺産がゼロでした。
一応絵とかデザインとかしてきたじゃないと思いますが、光琳的には息子に継がせるほどの家業ではなかったようです。
1716年
59歳で亡くなります。
尾形光琳が絵師として本格的に活躍したのは、40代から59歳に亡くなるまでの数十年間です。その名の認知度の高さに比べれば活動期間は短いように感じますね。
ちなみに光琳は55歳になってまた新しい女性を愛人にし、男児2人をもうけてもいたそうです。
すごいな…
次回は光琳の作品についてみていきます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。