本阿弥光悦って何をした人なの?①
今日も生きてます。
今でこそ有名な俵屋宗達は、実は最初はあまり有名ではありませんでした。
俵屋宗達の才能を見いだした人間がいたのです。
それが書家としても有名な「本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)」です。
今日は名伯楽でもある本阿弥光悦についてみていきます。
上の画像はSotatsu und Kôetsu - Katalog, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58704431による
本阿弥光悦の認知度は一般的にはどの程度でしょうか?
俵屋宗達や尾形光琳は超有名ですが、その生みの親でもある本阿弥光悦の存在感はいまいちかも。
「本阿弥」という名前から、由緒のある雰囲気は感じます。
本阿弥光悦の生まれた家「本阿弥家」は代々刀剣の研磨を家業とし、足利将軍家に代々仕えてきたお家でした。
やがて膨大な研磨資料から鑑定を行うようになり、十代目の頃からその価値を記した折紙を発行するようになります。
折り紙とは書画,刀剣,焼物などの鑑定書のことです。
江戸時代になると本阿弥家は刀剣鑑定に折り紙を発行する権利を徳川幕府より保証されます。それにより絶大な権限を持つようになりました。
そして他の業者とは違う「家砥ぎ」と称する秘伝の研磨法を伝承しました。
幕末になると、美術鑑賞面を強調し、一般に刀剣鑑賞の裾野を広げる努力が行われました。秘伝とされた鑑定法、研磨法も公開されます。
刀剣を鑑賞する文化は本阿弥家がつくったのかもしれません。
上の画像はMars1111 - 投稿者自身による作品, CC BY-SA 2.0 ca, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2203855による
さて、本阿弥光悦の話に戻ります。
本阿弥光悦(1558年-1637年)
上の画像はretouch: Qurren (トーク). - この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36753499による
時代は豊臣秀吉が天下の時代。
京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれます。
刀剣の鞘(さや)や鍔(つば)などは、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿など、工芸技術の結晶です。
そのため光悦は幼い頃から様々な工芸に対する高い見識を磨きました。
途中で父の本阿弥光二が分家になり、家業を退きます。
家業から自由になった光悦は、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになります。
不二山
上の画像はretouch: Qurren (トーク). - この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32834013による
1598年(光悦40歳)に俵谷宗達と出会います。
そして厳島神社寺宝「平家納経」の修理チームに俵屋宗達を加えます。その後俵屋宗達はたくさんの名作を次々と生み出します。
平家納経についてはこちら↓
1610年(光悦50代)俵屋宗達と合作『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』を製作します。その後、俵屋宗達とのコラボ作品がたくさん生み出されます。
上の画像はTawaraya Sōtatsu and Hon'ami Kōetsu - Kyoto National Museum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62782057による
1615年(光悦57歳)徳川家康より京都鷹峯9万坪を与えられます。
同年5月、「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡し、徳川家康の天下が確定します。
家康は大坂方の残党を徹底的に追跡するよう厳命します。
その後、家康は人質時代親しくしていた本阿弥光二の息子である光悦の様子を、京都所司代の板倉勝重に尋ねます。
光悦は元気にやっているけれど、京には飽きたのでどこかに片田舎に移りたいと申している…と板倉は説明します。
本阿弥家の行いなどを記録した「本阿弥行状記」の中で、家康は↓のように返答したとあります。
「近江丹波から京への道に、用心が悪く、辻斬りや追いはぎなどが出る場所があるだろう。そんな所を広々と取らせてやってほしい」
このような経緯で光悦は広大な土地を手に入れました。
都の郊外へ追いやられたのが実情でしょう。
次回に続きます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました