本阿弥光悦って何をした人なの?②
今日も生きてます。
東日本大震災から気がつけば9年になりました。
問題はまだ残っているのに、だんだん思い出さなくなっている自分に気づかされます。
秋田で体験したことを忘れずに日常から色々なことを備えていきたいと思います。
↑の画像はretouch: Qurren (トーク). - この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36753499により引用
さて、前回に引き続き、本阿弥光悦についてみていきましょう。
前回↓
本阿弥光悦の人生前半は、刀研ぎの家業から退いた後、才能を秘めた若者・俵屋宗達を見いだします。その後歴史に残るコラボ作品を制作します。
そして徳川家康が天下を取り、その後都郊外に大規模な土地を与えられます。
(ここからが後半スタートです。)
大規模な土地とはいっても、追いはぎや辻斬りが出るような荒れた土地です。
実質都を追い出された光悦でしたが、この逆境を前向きに受け取ります。
そして与えられた土地に仲間と共に移住し、芸術家たちが集う光悦村をつくります。
晩年まで光悦はここで暮らし、制作三昧の日々を送りました。
1637年、79歳で亡くなります。
上の画像はFg2 - I took this photo and contribute my rights in the file to the public domain. Individuals and organizations retain rights to images in the file., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4119044により引用
光悦は「大虚庵(だいきょあん)」という庵を結び、ここで書画や焼き物などに没頭しました。
光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺「光悦寺」となります。
上の画像はFg2 - I took this photo and contribute my rights in the file to the public domain. Individuals and organizations retain rights to images in the file., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4119045により引用
光悦の墓地は光悦寺にあります↓
上の画像はFg2 - I took this photo and contribute my rights in the file to the public domain. Individuals and organizations retain rights to images in the file., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4119043により引用
上の画像は松田丹後 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73907393により引用
上の画像は松田丹後 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73908254により引用
上の画像は松田丹後 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73908419により引用
大虚庵前には竹垣「光悦垣(こうえつがき)」が張り巡らされています。
割り竹を粗い菱形に組んで、割り竹の束を上に合わせたものです。
この姿が牛の寝姿に似ていることから、「臥牛垣(がきゅうがき)」ともいわれました。
上の画像は松田丹後 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73907972により引用
〇光悦の死後とその影響
光悦の死後、光悦村には次第に近隣の農民が流入してきます。
それと同時にその農民と居住権や耕作権を巡っていざこざが絶えなくなります。
1679年、幕府は農民たちの居住権を認め、本阿弥家は光悦村の土地を幕府に返上しました。
ちなみに現在、京都府南丹市には「京都新光悦村」があり、京都の伝統と文化に根ざしたものづくり企業、工房、店舗が操業されているそうです。
上の画像は松田丹後 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73907572により引用
〇光悦の作品
上の画像は本阿弥光悦 - Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 1991.1.1_IMLS_SL2.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10967241により引用
書道の世界では、その時代の優れた書家のことを三人を「〇〇の三筆(さんぴつ)」と称します。
光悦は「寛永の三筆」と称されました。
「寛永の三筆」
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)
光悦の書体は「光悦流」と呼ばれ、文字の大小・線の太細・墨の濃淡が顕著な変化に富んだ独特なものでした。
俵屋宗達が装飾を施した紙の上に、光悦の書が書かれた作品が多く残されています。
上の画像はSotatsu/Koetsu - http://sainsbury-institute.org/support-us/e-magazine-issue-12/museums-in-japan/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42963907により引用
上の画像はhttps://www.dia.org/art/collection/object/poem-kokin-wakashu-collection-japanese-poems-ancient-and-modern-times-48279, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=79703163により引用
上の画像は本阿弥光悦 - WAGcKMNgqP81lw at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22493242により引用
上の画像はHon'ami Koetsu and a follower of Tawaraya Sōtatsu - Metropolitan Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62587159により引用
↑の画像はHonami Koetsu - 8AFDIAW9IEgxMQ at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29856631により引用
上の画像はHonami Koetsu - ZwGHeTX1S--tSg at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29856617により引用
上の画像はTawaraya Sōtatsu and Hon'ami Koetsu - Metropolitan Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62586991により引用
上の画像は俵屋宗達 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=57374708により引用
「鶴図下絵和歌巻(重要文化財) 」
光悦は宗達が描いた絵に三十六歌仙の和歌を書くという提案をしました。
宗達は15メートルもの巻紙にわたって飛翔する無数の鶴を描くと、光悦はそこに極限まで装飾化した文字で和歌を書きました。
上の画像はTawaraya Sōtatsu and Hon'ami Kōetsu - Kyoto National Museum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=62782070により引用しました。
ちなみによく知られる話ですが、最初の一行目で、柿本人麻呂の”人”の字を抜かしてしまい横に書き足している場所と、三十六人の和歌のうち、二人の和歌を書き忘れてしまい、上に小さく細く並べ、書き足しているところがあります。
人が書き足されている↑
上の方に書き足されている↑
書き直しができない一発勝負&15メートルの長丁場なので集中力が切れるときもあったでしょう。
ふわっと書き足しているところを見ると、おおらかな人柄であったのかなと思います。
本阿弥光悦は書家としても有名ですが、他にも陶芸の作品も残しています。
次回に続きます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。