尾形光琳を知ろう!①光琳よりも実兄「藤三郎」の行方が気になる。
今日も生きてます。
美術館や博物館もウィルス対策のために臨時休業しているところが多いようですね。
日本の人々はみんな休日は家で静かに過ごしているんだろうなあ。
私はいつもと変わらず引きこもり制作しています。
不健康ですが、ウィルス対策としては完璧です!
思えばここ10年以上熱でてないな…
さて、今回からは江戸時代の売れっ子デザイナー尾形光琳が残した有名作品「燕子花図屏風」(かきつばたずびょうぶ)を取り上げます。
上の画像はOgata Korin, died 1716 - Nezu Gallery, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24953631により引用してます。
この屏風は江戸時代に作られ、今は根津美術館が所蔵しています。
おそらく知っている人も多いのでは?
尾形光琳は京都の高級呉服商「雁金屋(かりがねや)」に次男として誕生します。
ここで雁金屋について確認しておきます。
雁金屋 初代 尾形道柏(おがたどうはく)
二代目 尾形宗柏(おがたそうはく)
三代目 尾形宗謙(おがたそうけん)
四代目 尾形藤三郎(おがたふじさぶろう)
※光琳は藤三郎の弟。
雁金屋を始めたのは尾形道柏(おがたどうはく)です。
尾形道柏はもとは江州浅井藩の家来でした。
顧客には浅井氏の娘である淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(お江与)がいたため大変栄えたそうです。
そして尾形道柏は本阿弥光悦の姉である法秀(ほうしゅう)を妻に迎えます。
(ここで文化人の仲間入りです。)
息子である尾形宗柏(おがたそうはく)は本阿弥光悦がつくった光悦村にも参加しています。
その頃に雁金屋は徳川家康の孫娘である徳川和子とくがわまさこ(東福門院)を顧客にし、膨大な資産をつくります。
なぜ和子が雁金屋を懇意にしたかというと、母が浅井3姉妹の末っ子お江で、母の代から雁金屋と付き合いがあったからだと思われます。
和子は幕府と朝廷が緊張感のある時に徳川家から皇室へ嫁いだ人です。
皇室に嫁いだ後、幕府から和子へ莫大な額の金銭援助を受けていました。
朝廷に馴染むために和子は身の回りの女性に豪華な着物を贈っていたそうです。また、徳川家(武家)の娘だから教養や感性が無いと思われないようにという見栄もあったのかもしれません。
そして雁金屋にたくさんの注文がされました。
しかし1678年、和子が亡くなると最大の顧客を失った雁金屋は傾き始めます。
三代目尾形宗謙は資産はあるということで 「大名貸(だみょうがし)」(大名にお金を貸す)に手を出します。
そして尾形宗謙が亡くなった時に三兄弟には、雁金屋の膨大な資産が受け継がれます。
雁金屋を継いだ4代目当主の尾形藤三郎は、なんとか経営を成り立たせようと頑張ったそうですが、貸したお金が踏み倒されたこともあり、経営破綻してしまいました。
尾形光琳とその弟乾山は作家として有名ですが、尾形藤三郎はいったいどうなったのか?
個人的にはそこが気になり始めました。
次回は光琳の経歴などについてみていきたいと思います。
続きます!
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。