リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

教師・本屋・牧師・パラサイト…ゴッホは何回転職したのか?巨匠に学ぶチャレンジ精神♪

今日も生きています。

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホ画『ひまわり』1888年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

↑の作品はゴッホの代表作として有名な「ひまわり」。

 

ゴッホは激情的な画家として有名ですが、画家として活動した期間は10年程度。

 

現在の名声や作品数を考えると意外に短いと思いませんか?

 

実は画家になる前のゴッホ教師や本屋など…様々な職業に就いています。

 

あまり知られていない画家になる前のゴッホを見てみましょう。

 

 

 

画家になる前のゴッホ

 

グーピル商会の画廊で働いていた

19歳頃のファン・ゴッホ

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

1853年オランダに生まれる。

父が牧師の家の長男です。

 

ゴッホエピソード

ある日教会裏の墓地にて、自分が生れる一年前に亡くなった同じ名前の人のお墓を見つけます。

それは生まれてすぐ亡くなってしまった兄でした。

ゴッホはこのお墓の前に来ると「ここで眠っているのは僕なのでは…⁉」と、泣き出すなどエキサイトするようになります。

 

 

人とうまくやれないゴッホは地元の小学校を退学し、隣の町の寄宿学校に行きます。

そこも16歳で中退します。

 

 

ゴッホ職業①画商の店員

ゴッホが16歳から20歳まで勤めたグーピル商会ハーグ支店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

そこで伯父のつてをたよりに画商グーピル商会のハーグ支店の店員として働き始めます。意外とそこでは勤勉に4年間働いていました。

 

しかし失恋を境に仕事に身が入らなくなります

(乙女ですね。)

 

 

伯父との関係も悪化し、ロンドン支店に転勤します。

 

グーピル商会のパリ・シャプタール通り店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

しかしトラブルが続き、画商グーピル商会を解雇されてしまいます。

 

 

 

 

ゴッホ職業②教師(無給)

 

 解雇されたファン・ゴッホはイギリスに戻ります。

そこで小さな寄宿学校で無給で教師として働きます

少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えました。

 

 

 

ゴッホ職業③伝道師見習い

 ゴッホは画商の店員として働いている頃から伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持ち始めていました。

 

寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをするようになります。

 

 

 ゴッホ職業④本屋の店員

 

左から三番目の建物がゴッホが働いた書店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

ゴッホ牧師になりたいという夢を抱くようになります。

 

しかしその年のクリスマスに帰省したときに、父のエッテンから「聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だ」と説得されます。

 

そしてゴッホドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働き始めます

 

しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたそうです。

 

聖職者になる夢は捨てられませんでした。

 

 

 

ゴッホ職業⑤伝道師(失敗)

フィンセント・ファン・ゴッホ

『父テオドルス』1881年、エッテン。鉛筆。

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

牧師への思いを断ち切れないゴッホ受験頑張るから!と父親を説得します。

 

知り合いの協力のもと、王立大学での神学教育を目指して勉学に励みます。

勉強科目はギリシャ語とラテン語、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など…

 

思いのほか難しかったのか、ゴッホうまく勉強が進まなくなってしまいます。そのことを父親からも指摘されたゴッホは勉強から遠ざかるようになります。

 

そしてアムステルダムで布教しようとしている牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めます。

 

やがてベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごしました。

 

1878年12月、ベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方のプティ=ヴァムの村で、伝道活動を始めます。熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになります。

 

彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになります。

 

ゴッホは苛酷な労働条件で労働争議が巻き起こる炭鉱の町の中で社会的不正義に憤るというよりも、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたため、人々の理解を得られませんでした

 

教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られてしまいます

 

 

 

 

ゴッホ職業⑥画家?(弟にパラサイト?)

 

伝道師にもなれなかったゴッホ

1880年10月、突然ブリュッセルに行きます。

なぜかというと、絵を学ぶためです。

 

そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けます。

 現地の画家たちと交友も持ち、アカデミーの素描コースのレッスンを受けます。

 

 

1881年4月、お金が無くなったファン・ゴッホはエッテンの実家に戻ります。

田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けました。

ちなみにここで未亡人に恋に落ちて失恋します。

 

 

1882年1月、彼はハーグに住み始めます。

そこにはゴッホを親身に世話してくれる画家モーヴがいました。

 

ゴッホに絵の指導をした

画家アントン・モーヴ

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をしたり、アトリエを借りるための資金を貸し出したりするなど、面倒見がいいタイプだったのでしょう。

 

しかしやがてモーヴともうまくいかなくなります。

原因として考えられるのは

 

ゴッホはがこの頃にシーンという身重の娼婦をモデルとして使っていて、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚まで考えていたこと。

 

石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致。

 

個人的な推測ですが、おそらく最初は熱意に圧倒されて支援していたものの、ゴッホと付き合ううちにその難解なパーソナリティに気が付き、やけどしないように距離をとっていったのが事実では?と思います。

 

ゴッホは、わずかな意見の違いも全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させるてしまい、ハーグで知り合った人々ともだんだん疎遠になります。

 

さて、この頃ゴッホは何で生計をたてていたのか…?

それは弟テオの仕送りでした。

月100フランをテオはフィンセント兄さんに送っていたのです。

 

ゴッホはこの仕送りの大部分をモデル料にし、少しでも送金が遅れるとテオをなじったそうです。

 

この頃テオは画商として画商グーピル商会のパリのモンマルトル大通り店 に勤めていました。

 

イケメンの弟テオ

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 そして1883年にゴッホドレンテ州へ発ちます。

泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描しました。

 

 

 

ゴッホ職業⑦画家

 

フィンセント・ファン・ゴッホ画『開かれた聖書の静物画』1885年10月

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

1883年12月5日、ファン・ゴッホは父親が仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に初めて帰省し、ここで2年間を過ごします。

 

 

引き続きテオからの送金してもらっていたゴッホ

 

それをが周りから「お情け」と見られていることには不満を募らせます。

 

テオに「今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい」という申入れをしました。

 

ということで、ゴッホはここから画家になったといってよいでしょう。

 

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ画『ジャガイモを食べる人々』

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

 

 

 

ゴッホって人生でやりたいと思ったものに全てチャレンジしているんですよね。

 

ほとんど挫折に終わっていますが、周りから反対されているにもかかわらず挑戦できているのがすごいです。

 

正直周りの人にとってはちょっと扱いが難しいトラブルメーカーだったかもしれませんが、何か始めたゴッホに必ず手を差し伸べる人がいるのは、ゴッホに強烈魅力&熱意があったからなんだろうなあ。

 

世界的な巨匠もこんなに失敗しているなら、私もダメもとで何かやってみようかな♪と思いませんか?

 

(死後祀り上げられるかも♪)

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com

 

 

参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)

「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)