文明開化の浮世絵師「小林清親」
今日も生きてます。
先日展覧会を見に行きました。
気分が悪くなり途中退場してしまいましたが、大方鑑賞することができました。
川崎駅すぐにある「川崎浮世絵ギャラリー」で開催中の「小林清親 光と影」です。
小林清親の浮世絵が展示されていました。
浮世絵について書かれたプリントがわかりやすかったです。↓
浮世絵というと絵師ばかり名が残って有名ですが、個人的には彫師や摺師もすごいですよね。
川崎浮世絵ギャラリーは小さめのギャラリーで、一度見るには程よい量の作品数で、じめっと暗い雰囲気がとても良かったです。
↑のようなプリントを配布してくださるのは親切ですね。作品に対して理解が深まります。
ということで小林清親の本も借りて読んでみました。
「傑作浮世絵コレクション 小林清親ー光と影をあやつる最後の浮世絵師ー」(発行者小野寺優、解説濱田信義、川出書房新社、2017年。)
小林清親の素敵な作品がたくさん掲載されています。
出典:「傑作浮世絵コレクション 小林清親ー光と影をあやつる最後の浮世絵師ー」(発行者小野寺優、解説濱田信義、川出書房新社、2017年。)
小林清親は江戸から明治をまたがって生きた浮世絵師です。
「江戸」の風景を名作として残した浮世絵師はたくさんいますが、「東京」の風景を浮世絵に残した最初の浮世絵師は小林清親でしょう。
西洋の力を取り入れながら強くなっていこうという国の雰囲気が、清親の浮世絵にも見ることができます。輪郭線がなかったり、光を強調した絵画空間を作っていたり、西洋の技法から学んだと思われる表現です。
個人的な意見ですが、それまでの浮世絵って色合いが派手なものが主流だったと思うのですが、小林清親の浮世絵の色合いはいい意味で淡泊。鑑賞していて心が和みます。
今日から何回かブログでは清親の浮世絵を楽しんでいきたいと思います。
まずは簡単に小林清親の年表から見てみます。
小林清親:こばやしきよちか
1847-1915
1857年
江戸本所にて幕臣の子として生まれます。
9人兄弟の末子ですが、既に上から三人は亡くなられていたようで、清親が生まれたときは兄三人、姉二人がいました。
1862年 15歳
父が亡くなくなります。
清親が家督を継ぎます。
1865年 18歳
徳川家茂の上洛に、ご勘定下役として付き添い、江戸から大阪へ行きます。
そしてそのまま大坂に留まります。
1868年 21歳
鳥羽・伏見の戦いに参戦します。
幕府消滅後、徳川慶喜らを追って静岡に下ります。
あれですね、めっちゃ武士!
1874年 27歳
東京に戻ります。
絵師を志し、画業に専念します。
1876年 29歳
版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」『東京名所図』シリーズを版行します。
「光線画」と呼ばれ、人気絵師となります。
その後「猫と提灯」や西南戦争を主題にした戦争画なども手掛けます。たくさんの仕事が舞い込み、浮世絵の制作を続けます。
出典:「傑作浮世絵コレクション 小林清親ー光と影をあやつる最後の浮世絵師ー」(発行者小野寺優、解説濱田信義、川出書房新社、2017年。)
小林清親画「東京銀座街日報社」1876年
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出典:「傑作浮世絵コレクション 小林清親ー光と影をあやつる最後の浮世絵師ー」(発行者小野寺優、解説濱田信義、川出書房新社、2017年。)
出典:「傑作浮世絵コレクション 小林清親ー光と影をあやつる最後の浮世絵師ー」(発行者小野寺優、解説濱田信義、川出書房新社、2017年。)
小林清親画「大伝馬町大丸」1877年
1881年 34歳
両国で起きた大火事を写生しに出かけたら、その間に自宅が火事になり焼失します。しかし火事を描いた作品が好評となります。
当時は写真が発達していなかったため、報道の役割もありました。
「団団珍聞」の団団社に入社します。
1882年 35歳
風刺画も手掛けるようになります。
「新版三十二相」「日本外史之内」などのシリーズを出版します。
その後、「武蔵百景」「酒機嫌十二面相」などのシリーズや、新聞や本の挿絵、漫画や、風刺画など、活動の幅を広げながらたくさんの作品を制作していきます。
出典:「傑作浮世絵コレクション 小林清親ー光と影をあやつる最後の浮世絵師ー」(発行者小野寺優、解説濱田信義、川出書房新社、2017年。)
小林清親画「酒機嫌十二面相 連れを困らせる酒癖」1885年
1894年 47歳
団団珍聞を退社します。
「清親画塾」を開きます。
その後、「我軍大勝利之図」「東京名所真景之内図」などのシリーズを刊行します。
1898年 51歳
錦絵業界が衰退し、錦絵の仕事がほとんどなくなります。
時間に余裕ができたせいか、娘と写生旅行などに行っていたようです。
1900年 53歳
二六新報に入社します。
1901年 54歳
当局ににらまれ、一時監獄に入れられます。
1906年 59歳
日露戦争後、錦絵業界は不振となります。
その後は肉筆画を多く描くようになります。
1915年 68歳
亡くなります。
激動の時代を生きた画家という感じの人生ですね。
というか火事をスケッチしに行ってその間に家が全焼するって…!
絵師魂が炸裂してしまったんですね。
ですが、火事を描いた作品はヒットしたということでオールオッケーです。
晩年は錦絵があまり世の中から必要とされなかったようですね。
(ちょいとさみしい)
小林清親の「光線画」など、次回に続きます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。