スキャンダルに巻き込まれた流刑絵師「懐月堂安度」
今日も生きてます。
今日も「日本美術事件簿」[(瀬木慎一著、二玄社、2001年。)という本を読んでます。
この本には近代日本編もあります。
これがブログにまとめるような内容ではないのですが、とても興味深い内容です。
画家として名前を残している有名人たちが、どのように権力を掌握したかがわかります。芸術作品は神聖さも魅力の一つでありますが、それが常に作家の人間性と直結するわけではありません。
個人的にはその点も作品の面白さだと捉えています。
登場する作家の説明が逐一されているわけではなので、前知識が必要ですね。
西洋編もあるようです。読んでみたいです。
さて、前回は島流しにあった流刑絵師「英一蝶」について取り上げました。
島流しになった絵師って他にもいるようです。
今日は流刑絵師「懐月堂安度」を取り上げます。
懐月堂安度(かいげつどうあんど/やすたけ)
懐月堂安度画「立姿美人図」(萩模様)
詳しい生没年や生い立ちはわかりませんが、懐月堂安渡は江戸時代の浮世絵師です。弟子たちを抱えて工房を営み、吉原の遊女などを題材にした肉筆の美人画を制作していました。
肉筆とは、手書き(筆)で描かれたことを意味しています。
(※現代の作品に対してはあまり使用されない言葉だと思います。江戸時代に版画で制作された浮世絵版画に対して、「手書き」であることを強調して表現するときに使われる言葉なのかなあと思います。)
出典:Category:Kaigetsudō Ando - Wikimedia Commons
出典:Category:Kaigetsdudō Ando - Wikimedia Commons
絵師として人気もあった懐月堂ですが、島流しにあってしまいます。
そのきっかけとなったのが江島生島事件です。
江島生島事件
正徳4年1月12日(1714年2月26日)
徳川家第七代将軍である家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として前将軍家宣の墓参りに赴いた。
その帰りに呉服商後藤縫殿助の誘いで芝居小屋で歌舞伎役者である生島新五郎が出る芝居を見る。
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。
だが審理する理由は門限に遅れたことではなく、大奥の規律のゆるみを重要視したためとなっており、判決には門限は重要視されなかった。
結果的に大勢の関係者が処罰されます。
日本美術事件簿によると、その数1400名とも…すごい人数ですね。
背景には権力闘争もあったとか。
島流しとなった人もたくさんいたのですが、なんと懐月堂安渡もこれに関係したとして島流しになってしまうのです。
詳しいことはわかりませんが、江島の権力を利用したり、宴会の席に侍ることがあったりしたのでしょう。
島流しの先は英一蝶と同じ三宅島です。
三宅島で懐月堂がどのように生活していたかはわかりませんが、英一蝶と同じように付近にある新島で懐月堂が作者と思われる作品が見つかっています。
私のイメージする「島流し」って、無人島に捨てられるようなものだったのですが、どうやら江戸の島流しは私の想像とは少し違うようです。
島にはもともとその地で暮らしている人もいて、都から島流しにあった人はその地で芸を教える先生のようなことをすることもありました。その地でなにかして生きていく必要があったのでしょう。
なので英一蝶や懐月堂安渡のような絵師は、絵描いたり、教えたりしていたのかなー想像できます。
流刑されても、何もない島で飢餓状態で死ぬというようなことはなかったんですね。
そして懐月堂安渡は何らかの理由で江戸にもどります。何年に戻ったかはわかりませんが、1734年の「近代世事談」という本に、「現在は懐月堂、奥村政信等なり」と記されています。
江戸にもどってからも人気者でした。
また、度秀(どしゅう)、度繁(どはん)、度辰(どしん)、度種(どしゅ)といった「度」のつく名前を持った弟子と思われる絵師が何人もいます。
なので懐月堂安渡が運営する肉筆浮世絵工房があったのでは?と推測されます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。