島流しされた流刑絵師の行方~英一蝶(はなぶさいっちょう)の人生~
今日も生きています。
美術をどういった視点で楽しむかは人それぞれ。
私は作品そのものを楽しんだり、作家さんの人生を知るのが好きです。モノを作る人の人生は波乱万丈です。
そして神聖な美術の世界の裏側にあるお金や権力、政治といった下世話な話も知っていくと楽しいです。(俗物!)
ということで今は「日本美術事件簿」[(瀬木慎一著、二玄社、2001年。)という本を読んでます。
コナンや金田一少年、古畑任三郎や富豪刑事などを愛する(?)私としては、見逃せない題名です。
中で気になったものを取り上げていこうかなと思います。
今日は流刑された絵師「英一蝶」(はなぶさいっちょう)です。
〇英一蝶(1652-1724)〇
出典:「日本美術事件簿」[(瀬木慎一著、二玄社、2001年。)
二代目 高嵩谷画「英一蝶像」東京国立博物館所蔵
江戸時代の絵師は強力な権力や財力のあるパトロンに気に入られて仕事を継続していくのが通常でありました。(現在でもそうかな。)
なのでそのパトロンが失脚すると侍っていた絵師も刑に処せられることがありました。
英一蝶は京都に生まれ、医師である父に伴われて江戸にきます。その後狩野安信のもとに入門します。が、1668年に破門されてしまいます。
その後俳句を読んで詩人と交流したり、幇間(太鼓持ちともいわれる。様々な芸で宴会の場を盛り上げる仕事。現在でも幇間として働いている人がいる。)として働いたりして、町人文化に浸っていました。
英一蝶画「群盲撫象図」
英一蝶画「十二天像火天図」
社交性も功を奏して、40代には人気の絵師となっていました。徳川家光の側室である桂昌院の近親者もパトロンだったとか。
ところが英一蝶は拘留されてしまいます。
理由は桂昌院の甥である本庄安芸守資俊と吉原の遊女を身請けさせるのに関わったことが一説にあります。
しかしこの拘留は二か月間で終わります。ちょっと懲らしめてやれという意味合いだったのかもしれませんね。
その後、英一蝶の描いた一枚の絵が問題になります。
出典:「日本美術事件簿」[(瀬木慎一著、二玄社、2001年。)
英一蝶画「朝妻船自画賛」(部分)
近江国坂田郡朝妻の港から琵琶湖を大津まで渡る船が描かれています。
題名の「朝妻船」とは、琵琶湖東岸の朝妻と大津を結ぶ渡し船の名前ですが、遊女が乗って客をとることがあったそうです。
この絵のどこが悪かったのでしょうか?
当時江戸では「護国女太平記」(作者不詳)という実録風の小説が流行っていました。
狩野常信画「柳沢吉保像」(部分、一蓮寺蔵)
小説にはいろいろな話題が題材とされていますが、その中の一つに将軍徳川綱吉と柳沢吉保について取り上げたものがありました。柳沢吉保は将軍徳川綱吉に寵愛され大老各にまで出世した部下です。
柳沢吉保の妻・染子はもともと徳川綱吉の妾で、綱吉が吉保に与えた拝領妻であり、染子と吉保が結婚した後も、綱吉と染子は関係を続けている。しかも吉保の子供とされている吉里は本当は綱吉の子供だ…
掲載されていたのは↑のような内容です。事実は違うかもしれませんが、このことが広く流布されていたようです。
ここで英一蝶の描いた「朝妻船自画賛」が、柳沢吉保の妻を寵愛する将軍綱吉をほのめかしたものとして捉えられました。
このことがきっっかけでなんと三宅島へ島流しの刑になってしまいます。
この背景には、日ごろから英一蝶をけしからんと思っていた人が一定以上いたことがわかります。
楽しい町人生活に浸っていた英一蝶にとっては、寂しすぎる環境です。
島流しの刑にあった英一蝶、しばらくしょんぼりしていたようですが、その後は島で何点もの大作を描きます。
なんと弟子を通じて自分の作品を売っていたそうです。
三宅島の海の向こうにある御蔵島の三島神社にも作品が奉納されています。新島にもかなりの作品が発見されました。
すごいバイタリティー。
島の娘との間に一男をもうけます。
そして島に骨を埋めることになると思いきや、1706年、将軍交代の大赦によって江戸に帰ることができました。
息子と共に江戸に帰ったのは英一蝶58歳のときでした。
しかしそこから創作意欲は増すばかりで様々な作品を残し、絵師としての評価は復活します。
73歳で亡くなりました。
ちなみに英一蝶という名前は大赦のおかげで江戸に帰った後から名乗り始めます。その前は信香や朝湖と名乗っていました。
英一蝶と名乗るきっかけは三宅島から江戸へ帰る船の中で一匹の蝶をみかけたことです。英は母親の姓花房から来ています。
おしゃんですね。
信香や朝湖も雅な名前です。
次回はまた違う流刑絵師を取り上げます。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。