ザビエルVS仏教ー行く手(布教)を阻むボンズたちー
今日も生きてます。
海の波の音を聞いています。
気分は浜辺です。
気分だけ!
ということで今日もザビエルの本「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版)を読んでいます。
ザビエルの生涯が描かれた20枚の連作絵画から、意外と知らないザビエルの生涯を取り上げています。
その20枚の連作はポルトガルの首都リスボンのサン・リケ教会の聖具室に飾られています。
ブログでは、布教を始める前のザビエルから連続して取り上げています。
〇これまでのザビエルブログ一覧〇
1 ザビエルは何故アジアまで布教しに来たのか。そもそも布教する前は何してたのか。
3 来日したザビエルの腕の価値観雑談とザビエルの生涯ーローマ教皇編ー
6 ザビエルの起こした奇跡ーインドで覚醒するザビエルの能力ー
前回までのブログ全てを読むことなんてできないっ!という方は、ざっくりと今までのザビエルをまとめましたので、こちらをお読みください。↓
〇これまでのザビエル〇
出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版)
上の図は鹿児島にあるアンジローとザビエルの像
故郷ナバラを離れてパリで留学していたザビエル
ロヨラに影響されてザビエルも信仰の道に進むようになる。
二人と仲間はイエズス会をたちあげる。
イエズス会はローマ教皇に認められ、ポルトガル国王のご指名でアジア布教することになる。
ザビエルはインドで布教活動に邁進する。
布教する活動範囲を広めていく中、モロッカ諸島で日本人アンジローと出会う。
アンジローの告解を聞き、洗礼をしたザビエル。日本へ興味を持ち布教しに行くことを決心する。
船出するには情勢は厳しかったが、なんとか華人ジャンクに乗り込み、アンジローと共に日本へ向かう。
ザビエル、働き盛りの40代であった…。
前回はザビエルが船の中で「悪魔」と呼んでいた物や、アンジローとの出会いについて触れました。今日はザビエル来日編です。
「アンジローとともの鹿児島の地を進むザビエル」
出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版)
上の作品はザビエルがアンジローに案内されて日本の鹿児島に来た場面が描かれています。アンジローの出身は鹿児島県ということで、自らの故郷を案内しているのですね
。
絵の中のザビエルは裸足ですね。
ザビエルは日本に来た喜びで、その地を裸足で踏みしめたといわれています。
ザビエルの口からなんかセリフのようなものが出ていますが、これは「MAIS MAIS」日本語に直訳すると、「さらに さらに」という意味だそうです。
これから日本でカトリック旋風を起こしてやるぜ!という熱い思いを画家がこのように絵の中に描き加えたということでしょう。他の作品では絵画中の登場人物が結構身振り手振り大きいですが、この作品では控えめ。なんか足りない気もするし、言葉書いちゃえという感じでしょうか。(邪推です。)
この作品が描かれたのは17世紀ごろですが、描かれた風景はあまり日本らしくないですね。建物が洋風です。画家が「どうやって日本を描けば…」と少し苦悩が伝わります。
しかしアンジローが着ているものは着物なのでそのことはポルトガルでも認識されていたようです。顔も東洋人風ですね。
(一般的にはこの作品の馬に乗る人物はアンジローと紹介されますが、違う説もあるようです。)
ザビエルが来日した時日本は戦国時代です。
ザビエルは薩摩の戦国大名「島津貴久」に会い、そのことをインドのゴアにいるイエズス会員宛ての手紙で触れています。
出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版)
島津貴久像(尚古集成館蔵)
またこの地の領主(島津貴久)も彼(アンジロー)を引見して大いに喜ばれ、たいへん礼遇して、ポルトガル人の生活様式や、気品の高いことなどについて尋ねられました。そしてパウロ(アンジロー)はすべての質問について詳しく説明しましたので、領主は大変満足されました。
パウロが領主に引見した時に、領主は鹿児島から5グレア(28キロ)離れたところのおりました。パウロ(アンジロー)は私たちがインドから持ってきた聖母のたいそう敬虔な聖画を持参しました。領主はそれを見て非常に感激し、主たるキリストと聖母のご絵のまえにひざまずき、深い敬意と尊敬をもって聖画を拝まれました。そしてそこにいたすべての人たちに彼と同じように拝むことを命じられました。
ザビエルが書いたものなので多少脚色はあると思いますが、島津はザビエルにおおむね好意を持って迎えていることがわかります。それとカトリックにとって絵画などの芸術作品がいかに布教に役に立っていたかがわかりますね。
ちなみに現在島津貴久の本拠である伊集院の一宇治城には、「太守島津貴久・聖師ザビエル会見の地」と記された石碑があるようです。
(確かに歴史的な会見の地ではあるかもしれないが、後にザビエルをもっと優遇した人間に比べ、島津はどちらかというと追い出した形である。何故石碑を立てたのでしょう。仏教の勝利という裏メッセージか、ザビエルの受難記録か…)
その後、島津貴久は仏教界の圧力におされる形でキリスト教の布教活動を禁止します。このことについてもザビエルは書簡の中で触れています。
その地の領主(島津貴久)は広大な領地を持っている大名ですが、ボンズ(坊主)たちは領主に迫って、もしも領民が神の教えを信じることを許すならば、領地を失い、また神舎仏閣は破壊され、領民は離反するだろうと言いました。なぜなら神の教えは彼らの宗教と反対であり、領民たちが神の教えを信ずるようになれば、彼らの宗派の祖師たちに以前持っていた信仰を失うに至るからです。ボンズたちはキリスト信者になったものは誰であっても死罪に処すと領主が命ずるように(策謀)して成功し、それで領主は誰も信者になってはならないと命じました。
ザビエルの鹿児島での布教活動はボンズたちに阻まれてしまいました…
そこでザビエルは場所を移動して布教することにします。
坊主をボンズと呼ぶのはまりそうだ。
次回に続きます
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。