リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

ザビエルは何故アジアまで布教しに来たのか。そもそも布教する前は何してたのか。

今日も生きてます。

 

ザビエルの本「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」鹿毛敏夫編、勉誠出版を読んでいます。

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教科書で見たことはあるザビエルですが、意外に生涯やモチーフにされた作品が興味深いです。

 

ポルトガルの首都リスボンにあるサン・ロケ教会の聖具室には、ザビエルの生涯を20枚の連作絵画で表現した作品があります。

 

描いたのは画家アンドレレイノーゾとその工房です。

 

連作の中のうち3枚は日本が舞台。

 

その20枚の絵画を見ながらこれからブログではザビエルの生涯を取り上げていきます。

 

と、その前に…

 

連作絵画はザビエルがイエズス会を立ち上げるところから始まるので、今日はその前の幼少期などをざっと確認していきましょう。

 

 

 

 

ザビエルの年表

 

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作者不明「聖フランシスコ・ザビエル」重要文化財

出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

 

 

 

1506年

 

ザビエルはスペインのナバラ王国のザビエル城で誕生します。

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

 

ザビエルの両親はバスク地方の貴族でした。

格式ある家柄ですね。

 

「ザビエル」という姓はバスク語「新しい家」を意味する単語が由来です。

 

ちなみにフランシスコ・ザビエルはフランス語・ポルトガル語ラテン語・イタリア語を話すことができたそうです。母国語はバスク語と認めていました。

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

現在のザビエル城↑

 

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

のどかな場所にあるんですね。

空気綺麗そうです。

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

現在、中にはザビエルの資料が閲覧できる部屋もあるそうです。

 

 

 

1510年 4歳

 

ポルトガルインドのゴアを占領します。

 

このときザビエル4歳。

まさか自分が大人になった時に、遠いインドのゴアで布教活動するなんて夢にも思っていなかったでしょう。

 

 

 

 1512年 6歳

 

ザビエルの祖国ナバラは、隣国カスティーリャの侵攻を受け、ほとんどの領域が支配されてしまいます。

 

物心がついたばかりのザビエルは戦争?というような感じであったかもしれませんが、ザビエルの父はこのときナバラ王国の枢密院議長という要職に就いています。

 

ほとんどの領域が支配されてしまったナバラ王国

その国内では従来からあった貴族の対立問題が顕著になっていきました。

 

ナバラ在来の貴族

「アグラモンテス派」

ザビエル家はアグラモンテス派です。

 

   VS

 

フランスのノルマンディー由来の貴族

「ベアモンテス派」

ベアモンテス派はカスティーリャを支持していました。

 

 

 

 

 1515年 9歳

 

父が亡くなります。

 

スペインがナバラ王国を併合します。

ザビエルの家門はどんどん傾いていきます。

 

 

 

1517年 11歳

 

ルターにより宗教改革が起こります。

 

このことで打撃を受けたカトリックは、積極的に世界に布教しようという流れになります。

そこでザビエルが活躍することになるんですが…11歳のザビエルはそのことを知る由もないでしょう。

 

 

 

1521年 15歳

 

ナバラでは大事件が起こります。

ザビエル家を含む「アグラモンテス派」の貴族たちが反乱を起こしたのです。

 

反乱の図

 

アグラモンテス派

 

vs

 

ベアモンテス派

カスティーリャ

カスティーリャを支持する周辺国勢力

 

 

これにはザビエルの兄二人も軍人として参加しています。

 

アグラモンテス派はカスティーリャ軍が駐屯していたパンプローナを取り戻しました。

 

しかし反乱は弾圧され、アグラモンテス派の貴族たちは鎮圧されてしまいます。

 

ザビエル家一族は居城を徹底的に破壊され、家産は没収されました。

 

 

この反乱でもう一つ興味深いことがあります。

 

のちにイエズス会を創設するザビエルですが、一緒に創設した一人にロヨラがいます。

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イグナティウス・デ・ロヨラ

出典:Ignatius of Loyola - Wikimedia Commons

 

このロヨラ、実はこの反乱の戦いに軍人として参加しています。

 

しかもザビエル家の敵として。

 

ロヨラは戦場で銃弾を足首に受けて生涯に残る傷を負ってしまいます。その療養中に「キリストの生涯」という神学書を読んだことがきっかけで布教の道に進んでいきます。

そこにザビエルは巻き込まれて(?)行くんですな。

 

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 出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

 足を負傷したロヨラ

(アスペイティア 聖ロヨラ教会 スペイン)

 

 

 

 

1525年 19歳

 

ザビエルはフランスに留学します。

パリ大学の聖バルバラ学院に入学します。

 

アリストテレスに傾倒する学者で、一般人でした。

 

実家の経済状況は困窮の極みで、あやうく呼び戻されて軍人にされてしまうような状況でした。

 

 

 

1529年 23歳

 

母が亡くなります。

 

イグナティウス・ロヨラと同室になります。

ロヨラのほうからザビエルに近づいて行ったそうです。

 

 それまでキリスト教にのめりこむわけでもなく、学者として生活していたザビエルが5年後にはロヨラとそのほかの仲間と一緒にイエズス会を立ち上げることになります。

 

同室になってから、ロヨラはザビエルに一体何を施したのか…

腐女子的視点でみるとなかなか面白いですが、同性愛を禁止するキリスト教の信仰者であったロヨラとザビエルの間には何もなかったでしょう。

 

ロヨラはおそらくザビエルにキリスト教を布教(洗脳?)をし続けたのかもしれません。

 

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

イグナティウス・デ・ロヨラの像

(アスペイティア 聖ロヨラ教会 スペイン)

 

 

 

1530年 24歳

 

パリ大学を卒業します。

哲学教授の資格を取得します。

 

 

 

 

 

1534年 28歳

 

 

ロヨラとザビエルを含む仲間7人はモンマルトルの丘に登ります。

 

そしてサン・ドニ記念聖堂で唯一の司祭だったピエール・ファーブルのたてるミサにあずかって、神に自分の生涯をささげる誓いを立てました。

 

「今後、7人はおなじグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」

 

というものが誓いの内容です。

 

 

これがイエズス会の始まりです。

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

↑はルーベンスが描いたザビエルとロヨラ

向かって左、胸の前で腕を組むザビエルと、右がロヨラ

二人は対で描かれることも多かったようだ。

 

 

 

 

 

1535年

ザビエルは哲学修士の学位を取得します。

 

 

 

この後、ザビエルは布教のために宣教師としてアジアに向かいます。

 

「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版)のコラム「ザビエル・ナバラ王国」(山崎岳)の中では、ザビエルが宣教師として外国にまで行ったのには、故郷ナバラで自分の一族が没落したことも関係しているのではと指摘しています。

 

 

確かに留学先のフランスで、故郷の一族がどんどん困窮していき、自分が帰っても居場所がないというのは心のよりどころが無くなってしまった状態なのかな?と思います。

 

父・母も比較的幼くして亡くなっていることもあります。

 

ザビエルの心に空いた穴に、ロヨラが神の教えを吹き込み、それが何も頼るものがなくなったザビエルには唯一の存在にまでなったのかなー

 

そして自分の新しい居場所を探しに海を越えたアジアに進出したのかなー

 

帰るところはないぜって感じだったのかなー

 

などなど考察しちゃいますね。

 

 

 

 時代背景的には、ルターの宗教改革によって登場したプロテスタントに脅威を感じたローマ教皇が、プロテスタントに対抗するための一つの策として外国で布教する方針がありました。

 

戦争で体を負傷し、現実では騎士としての夢を失ったロヨラは、まるで教皇の兵士のようにカトリックの意向を忠実に実行します。

 

そのロヨラに傷心ザビエルが出会い、ザビエルはロヨラの意向に沿って熱く布教活動していくことになります。

 

 

 

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出典:「描かれたザビエルと戦国日本ー西欧画家のアジア認識ー」(鹿毛敏夫編、勉誠出版

↑ザビエル城にあるザビエルの像。

 

 

ザビエルは今後どのような人生を送るのか…

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com