睡蓮の画家モネの妻
今日も生きてます。
私の父方の祖父は教養を高めるタイプの人で、家には本や画集がたくさんありました。
モナリザの複製や鷲の剥製?があったり、暗闇で見ると怖いタイプのコレクションも多かったような気がします。
物置にカレンダーがかかっていて、なぜかそのカレンダーがずっとめくられることなく同じ絵柄のままなのが気になっていました。
その絵がモネの作品「ラ・ジャポネーゼ」でした。
出典:Claude Monet - Wikimedia Commons
子供心にこの絵の一体どこがいいのか全く分からなかったのです。
後年睡蓮と同じ作者だと知り驚きでした。
日本で生まれ育った私たちからすると、日本の文化を珍しく思ってくれた外人の画家さんが丁寧に日本のものを描いてくれたのかなー?という印象。
大げさなポーズや意図的に組まれた団扇の構図に少し違和感を感じてしまいます。絵画というよりも写真館で取られた記念写真やコスプレ写真みたいです。
ただこの作品の実物のサイズはカレンダーとは比べ物にならないくらいの大きさで、人物はほぼ実物大です。
今読んでいる「画家の妻たち」の中で著者である澤地久枝さんは、この作品の実物を見た印象を書かれています。
少しその感想を引用します。
それは、私の想像をはるかに超える大きさを持ち、さらには、印刷された画面ではうかがい知ることのできなかった澄明で鮮明な色彩を持っていた。
等身大といわれるが、額縁があるので、絵はそれ以上に大きい。ふりあおぐ感じになる。花ござのような模様の編み目のある敷物の上にカミーユは立ち、背景と床の上に十六のうちわが配されている。日本の浮世絵が画家たちにつよい刺激をあたえた時代の作品である。カミーユはかつらの金髪、右手には開いた扇子。それを持っている手と、顔だけこちらに、向けている皮膚の白さが日本の衣装の印象をつよめている。
この感想を読むにカレンダーと実物は全く印象が違いそうです。
しかもモデルのカミーユは金髪のかつらをかぶっているんですね。ということはこの違和感はわざと作り出しているものという見方をすべきかもしれません。カミーユが手にしている扇子の三色はフランスの国旗を暗喩しているという一説もあるようです。
この作品はモネの他の睡蓮の絵などとは違い、何かモネの主張があるのかなーと思われます。
ということで今日も「画家の妻たち」(著者澤地久枝、文藝春秋)から、モネの奥様を見ていきます。
(1840-1926)
光と色彩の探求をし、時間の推移をたどって制作した作品「積みわら」「大聖堂」の連作を発表しました。印象派展にも出品しました。
パリの食料品店の次男として生まれます。
裕福な家であったようです。
16歳
人物漫画で才能を発揮させ、画材やで風刺画を売っていました。
18歳
海の風景画家ブータンに会い、一緒に戸外で制作します。
19歳
アカデミー・シュイス(美術塾の様なもの)
後にやめてしまいます。
25歳
サロンに初入選します。
この頃から妻となるカミーユと出会います。
29歳
ルノワールと共にラ・グルヌイエールで制作。
後の印象派を思わせる作風が誕生します。
モネ画「ラ・グルヌイエール」 34歳
第一回印象派展に出品します。
モネ画「印象、日の出」 出典:Claude Monet - Wikimedia Commons
37歳
サン・ラザール駅の連作を制作します。
出典:Claude Monet - Wikimedia Commons
43歳
シヴェルニーに移住します。
50代
「積みわら」「ポプラ」「ルーアン大聖堂」の連作を制作します。
積みわら連作
ポプラ連作
ルーアン大聖堂連作
出典:Claude Monet - Wikimedia Commons
59歳
「睡蓮」連作を描き始めます。
68歳
視力低下
1926年
86歳で亡くなります。
モネの最初の奥さんはカミーユ・ドンシューです。
カミーユがモデルになった作品はたくさんあります。冒頭の「ラ・ジャポネーゼ」のモデルもカミーユです。
カミーユは18歳頃モネのモデルを務めるようになります。
モネとカミーユは7歳差でした。
カミーユはパリでモデルをして食いつないでいたようです。
出典:Claude Monet - Wikimedia Commons
この恋愛を知ったモネの父親はモネへの援助を打ち切っていまいます。
モネの貧しい生活が始まります。
カミーユが長男を産んだあと、1870年に二人は結婚します。
出典:Claude Monet - Wikimedia Commons
カミーユは二人目の子供を産みますが、体調を崩してしまいます。
子宮がんになってしまったのです。
この時期、モネ家の経済状況は危機的なものでした。
モネを支援してくれていた画商は財政悪化によりモネを支えられなくなり、その後モネのパトロンとなった実業家のコレクターエルネスト・オシュデは破産してしまいます。
経済的な負担を軽くするためか、オシュデ家とモネ家は共同生活を始めます。
1880年ごろのモネとオシュデ一家。
モネ(左奥)、アリス(その手前)、ミシェル・モネ(左手前)、ジャン=ピエール(アリスの右後ろ)、ブランシュ(その右)、ジャン・モネ(その右)、ジャック(その後ろ)、マルト(その手前)、ジェルメーヌ(右後ろ)、シュザンヌ(右端)
エルネスト・オシュデの奥様はアリス・オシュデ。
アリスは六人の子供を産んでいます。
カミーユは子供たちやオシュデ家族に看病されますが、1879年、32歳のときに亡くなってしまいます。
そしてここから私の理解の苦しいことがあります。
いつ頃からかはわかりませんが、アリス・オシュデとモネは深い中になっていたようです。
カミーユはどんな気持ちで看病されていたのだろうか…もし自分だったらと考えると頭が爆発しそうですね。
そしてエルネスト・オシュデはなぜ容認してたんでしょうかは?カミーユの死後、モネ家族とアリスとオシュデの子供は同居し、おそらく一家を経済的に支えていたエルネストは別居していたようです。
エルネスト・オシュデは1891年に亡くなります。その翌年にアリスとモネは結婚します。
カミーユが亡くなったあとにモネはだんだん世の中に認められていき、経済的にも安定していきます。
ルノワールにモデルを雇うことを勧められたモネは、アリスに「モデルが家に入ってくれば出ていく」と言ったそうです。このようなこと言うなんて、本当にアリスはモネのこと好きだったんだなあ。
モネが睡蓮や自然を描いたのはアリスへの配慮も一因かも。
モネの作品は明るい色彩で鑑賞者の心まで照らしてくれますが、この明るい作品を描いたときのモネの生活は絵とは対照的に絶望的な状況だったのかもしれないと思うと、胸が苦しいです。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。