仙人の顔が怖いよ曾我蕭白(そがしょうはく)
今日も生きてます。
江戸時代に「平安人物志(へいあんじんぶつし)」というものが出版されていたそうです。
平安人物志はその時代の京都在住の文化人や知識人が掲載された人名録です。
弄翰子(ろうかんし・生没年不詳)という方が編纂しました。
京都へ学問修行に上洛する人々に向けて作られたそうです。
「学者」「書家」「画家」「篆刻者」「卜筮者」「相者」など、項目別にたくさんの有名人が掲載されており、画家研究の一次資料として大変貴重な資料となっているそうです。
明和五年(1768年)
安永四年(1775年)
天明二年(1783年)
文化十年(1813年)
文政五年(1822年)
文政十三年(1830年)
天保九年(1838年)
嘉永五年(1852年)
慶應三年(1867年)
ほぼ十年ごと順番に増補改訂されました。
安永4年版の『平安人物志』の中には、円山応挙、伊藤若冲、池大雅と妻の玉蘭(ぎょくらん)、与謝蕪村、呉春などのビッグネームが掲載されています。
そこには曾我蕭白(そがしょうはく)の名前もあります。
今日はそんな江戸時代中期に活躍した曾我蕭白いついてみていきます。
以前もブログで触れたこともあるので、今日は一つの作品をゆるゆると詳しく見ていきたいと思います。
〇曾我蕭白の人生
1730年 京都の染物屋に生まれる。(1歳)
1740年 江戸にて兄が亡くなる。(11歳)
1743年 父・吉右衛門が亡くなる。(14歳)
1746年 母・ヨツが亡くなる。(17歳)
29歳頃
伊勢を旅行する。
42歳頃
京都に居をかまえる。
1781年 亡くなる。52歳。
〇作品と表現
Soga Shōhaku (1730-1781) - google Arts & Culture, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42995770による
曾我蕭白 - 継松寺, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46648114による
曾我蕭白 - 『在外日本の至宝』<第6巻文人画・諸派> 毎日新聞社 昭和55年, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6632151による
とにかくアクが強い画風です。
絵に描かれたキャラクターたちの顔は個性的ですが、衣服の模様などは細かく緻密に描かれています。
実際に見た感想としては大胆な構図と、描くものに合わせ様々なタッチが使用されていたことが驚きでした。
赤や青の色が目を引きます。
〇仙人
群仙図屏風
↑は曾我蕭白(そがしょうはく)が35歳の時に描いた作品です。
この作品、仙人が描かれていることはわかりますが、内容は詳しく知りませんでした。
1人1人クローズアップしてみてみましょう。
巻物を持つ麻衣子(まいし)、あるいは戦国時代の名医・扁鵲(へんじゃく)、または三国時代の医術に優れた董奉(とうほう)
簫史(しょうし)あるいは簫簒(しょうさん)
李鉄拐(りてっかい)
呂洞賓(りょどうひん)あるいは陳楠(ちんなん)
林和靖(りんなせい)
左茲(さじ)
劉海蟾(りゅうかいせん)
西王母(せいおうぼ)(長寿の象徴)
描かれているものは龍や鯉、鶴や亀など…絵柄は怖いですが、縁起物のオンパレードです。長寿や出世を祝うために描かれた絵だと推測されます。
〇池大雅とのほのぼのエピソード
キテレツな逸話をたくさん残している蕭白ですが、池大雅とも交流があったようです。
ある日そば粉を手に入れた池大雅。
手打ちそばをごちそうすると蕭白を誘います。
そば好きの蕭白、すぐさま大雅宅に訪問します。
しかし二人ともそばを忘れて話し込んでしまします。
日が暮れ、大雅は妻の玉蘭に茶粥を用意させて振るまいます。
(あれ?そばは?)
さらに話し込んでいると、いつの間にか夜です。
そろそろ帰るわという蕭白に
大雅は「この闇夜に提灯(ちょうちん)がなくてはと思うが、我が家にはこれしかない」と、行燈を持たせます。
蕭白はこれを提げ行燈にして家に帰りました。
結果、当初の目的であるそばを完璧に忘れてるという話です。
曾我蕭白って性格もきつそうだな~と思っていましたが、池大雅とは仲良しだったんですね。
何をそんなに話し込んでいたのかが気になります。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。