「竹林の七賢」ー優雅なおじさまたちー
今日も生きてます。
今日の一枚↓
絵に描かれているのは竹林の中に着物を着たおじさまたち七人。
何か特別な人たちなのでしょうか?
この人たちは題名の通り「竹林の七賢」という画題の作品です。
中国に実在した七人の賢人が、竹林の中で自由に議論している様子を描いたものです。
それってわざわざ何人もの画家が描くほどの画題なの?と思われるかもしれませんが、
(私は思った。)
この人たちが画題になった理由は、彼らが生きた時代が、社会が不安定であった魏・晋の時代であったからです。
三國志として後世に語り継がれるほどドラマチックな時代、政治的な迫害は強く、自由に議論したり、発言したりすることは命懸けの行為でした。
なので絵の中では優雅にお酒を飲んだり、音楽を楽しんだりしているように表現されますが、身を守るための手段でした。
ただ遊んでるわけではないのです。
理由があるのです。
(私は遊んでると思ってしまいした。すみません。)
でも楽しそうに描かれてるなあ…
↑は雪村が描いた「竹林七賢図」
⚫実在した七人のモデル
阮籍(げんせき)
「白い目で見る」
(冷淡な、悪意のこもった目で人を見ること。)
という言葉のもとを作った人物。
気に入らない人物に対しては白眼で、気に入った人物に対しては青眼で対応したそうです。
いやいや国に仕えますが、歩兵校尉の役所に酒があると聞きつけたら、希望してその職になり、仲間と酒を飲んでいたそうな。
政治家の幕僚になっていたときも常に酔っぱらい、失脚を狙われ、失言を導きだされそうになっても、のらりくらりしていたそうです。
また、娘のところに政治家からの政略結婚の話の使者が来たときは、60日間酔っぱらい続け(!?)、使者を諦め帰らせました。
嵆康(けいこう)
才能のある人で、人とあまり接せず、山で仙薬を探し、老荘思想に没頭しました。
気心の知れた少数の人々と哲学論議を交わしていたそうです。
お兄さんとのいさかいがきっかけで死罪になりました。
山濤(さんとう)
老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人となります。
40歳を過ぎて役人になり、その後国の役人として生きていきます。
友達の一人である嵆康(けいこう)を、役人として推薦して嵆康から絶交の文が届くこともありましたが、生き方は違えど、友情のある関係は続きました。
劉伶(りゅうれい)
身長が約140cmと低く手押し車に乗り、シャベルを携えた下僕を連れて、「自分が死んだらそこに埋めろ」と言っていたそうです。
酒浸りで、素っ裸でいることもあったようで、ある人がそれをとがめると…
「私は、天地を家、部屋をふんどしと思っている。君らはどうして私のふんどしの中に入り込むのだ。」
と言ったそうです。
阮咸(げんかん)
阮籍の従子。
若くして叔父の阮籍と共に飲酒宴遊したそうです。(DNA!)
仕事を推薦されたとき、酒が過ぎるという理由で用いられなかったそうです。
琵琶が得意で、音楽に精通していました。
そこから、阮咸が亀茲(アジアにあったふるい王国)伝来の琵琶を改造した、という説が生まれました。
後に長寿で亡くなりました。
向秀(しょうしゅう)
嵆康・呂安と親交が深く、共に富貴を求めず悠々自適の生活を送っていました。
向秀は読書が好きでした。そして『荘子』や『周易』の注釈書を作ります。
景元4年に親友の呂安と嵆康が「官職にもつかず、世間を馬鹿にしておごり高ぶっているような人間は、無用な人間である」という理由でで処刑されると、すぐに国に仕えるようになりました。
(死にたくないよね)
王戎(おうじゅう)
神童として明帝や阮籍にも認められていました。
阮籍は自分よりも20歳若い王戎と語らうことを楽しんでいたそうです。
王戎の体格は小柄でしたが、堂々と振舞い、必ずしも礼に拘ることはありませんでした。
話し好きで知られ、酒を嗜みながら阮籍達と竹林で遊んだそうです。
国に仕え、罪を咎められるなどピンチも多少ありましたが、順調に出世してなくなりました。
実際この七人全員が竹林に集まったことはありません。
なぜこの画題ができたかというと、劉義慶:りゅう ぎけい(403年 - 444年)という文学好きの皇族が、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた『世説新語』(せせつしんご)をつくったのがきっかけです。
その中に竹林の七賢について記述があったそうです。
画題のパロディは良く見られますが、この竹林の七賢図も浮世絵や美人図などに応用されています。
鈴木春信の横大判紅崩絵
「見立竹林七賢」
言論の自由がある今の時代の日本に生まれてよかったなあ。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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