累の幽霊
今日も生きてます。
稲城なしのすけです。
なんとなくガンダムのハロっぽいのは稲城なしのすけをデザインしたのがガンダムのメカデザインをしている人と同じだからです。
稲城市にはなしのすけの像が建っている駅が何個かあります。
稲城市を歩いているとそこかしこにこのキャラクターを見ますが、今日病院にいったらキーホルダーをもらいました。
手元にあると愛着がわきます。
さて、今日も「あやしい美人画」(東京美術 松嶋雅人著)を読んでます。
きょうの一枚↓
あやしいどころか怖い。
こわすぎる。
かおこわい。
手に持ってる首も持ってる人の目付きもやばい。
あり得ない怖さではなく、こういう人いそうなこわさですね。
これを描いたのは渓斎 英泉(けいさいえいせん)で、題名は幽霊図です。
渓斎英泉(1791-1848)は江戸市中に下級武士の子として生まれました。
12歳から狩野派の画家に画を学びます。
16ー17歳で侍奉公しますが、不向きだったか上役と喧嘩沙汰となり浪人になります。
その後狂言作者に狂言作者見習いとして出入りします。そして狂言役者篠田金治(2世並木五瓶)に就いて千代田才市の名で作を為しました。
浮世絵師菊川英山の門人格として本格的に絵筆を執るようにもなります。
同時に遊女屋を経営した他、坂本町では白粉「かをり香」を販売していました。
文筆家にして絵師であった英泉は、数多くの艶本(好色本)と春画も世に送り出していました。
娯楽全般が厳しく統制された天保の改革の時勢は、画業は門人に任せて自らは描く事は減少し、滑稽本を主とする文筆業に専念します。
さらに娼家も経営したりしていたそうてす。
嘉永元年59歳でなくなります。
絵だけではなく、色々な才能が溢れる方であったんですね。
猫背でつき出された下唇が特徴的な美人画で一世を風靡しました。
きょうの一枚の「幽霊図」は何の幽霊を描いたものかというと、累の霊をモチーフにしています。
わたしは知らなかったのですが、江戸時代には大変有名な怪談であったそうです。
累ヶ淵は茨城県の鬼怒川沿岸の地名で、この地を舞台とした累(かさね)という女性の怨霊とその除霊をめぐるお話です。
歌舞伎や落語、文楽など、様々なものの演目のテーマにもなっています。
元々は、慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの60年にわたって繰り広げられた実話から派生したものであったそうです。
ざっくりあらすじ↓
百姓の与右衛門と、その後妻お杉の夫婦があった。
お杉の連れ子である助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であった。
助を嫌っていた与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。
その後与右衛門とお杉に子供が生まれ、累(るい)と名付ける。
累は助にそっくりであったことから、村人は「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼んだ。
両親が亡くなり累は独りになる。
病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。
しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。
1647年、谷五郎は累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
その後谷五郎の後妻は次々に死んでしまう。
6人目の後妻であるきよとの間に娘が生まれ、菊(きく)と名付ける。
1672年、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめる。
近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累と助の供養をする。
舞台となった法蔵寺には累を弔った墓がある。
といような事です。
こわいですね。
死んだ人間が祟るというのは日本独自の考え方だと何かの本で読みました。(日本国旗?)
これが本当だとすると怪談って独特なものなのかなと思います。
そして醜く生まれただけで殺されてしまった助が可哀想だな。
話を知ってから絵を見るとやばい目付きの女の人が被害者に思えてくる。
でもこわい。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。