202問題
今日も生きてます。
頑張れ!金足農業高校!
さて、背景がいい感じに平滑になりました。
手前は手作り型でステンシルの要領で型をとってかたちを整えたもの。
背景部分をやする間に顔予定部分や服装飾予定部分が汚れてしまって少し反省。
上から暗い絵の具を塗る場合はいいが明るい絵の具だと結構響きます。
さてさて、今日も池上英洋さん著「西洋美術史入門<実践編>」を読んでます。
前々回はナチスが今では有名作家の作品(クレーやピカソ)を退廃芸術としたこと。それらを「退廃美術展」の中で陳列し、全土を大巡回したことなどをかきました。
美術の評価や価値観が戦争の中でめくるめく変えられてしまうことがわかります。
今日は第二次世界大戦後戦勝国の美術品に対する動きはどのようなものだったのかについて書きたいと思います。
ソビエト連邦は大量の作品を持ち帰り、エルミタージュ美術館とプーシキン美術館のコレクションを一気に増大させました。
私も見に行きましたが、前上野でやっていたプーシキン美術館展の作品の中にも終戦間際にドイツから奪われた作品が入っていたかもしれないですね。
横流しされたものも多かったそうな。
東西冷戦が始まるとソビエト連邦の中では思想統一が進みました。作曲家や画家や、あらゆる文化活動が基準にあうように厳しく制限されます。
ナチスの暴力から守った(ドイツから奪った)作品の中にラファエロのシスティーナの聖母がありました。この作品の人気はすさまじかったそうです。
そしてラファエロが美の規範となり、ソビエト連邦の美術アカデミーの会長はゴッホやピカソの作品を焼却するように提案するなど美への価値観が今とは大分違いますね。
↑の作品はソビエト連邦の国民の画家ナルバンジャンによるもの攻勢からの想像図ですが、ラファエッロの人気ぶりをうかがわせます。
連邦政府は寛大さをアピールするためか、ラファエッロの作品はドイツに返還されました。
一方、アメリカはどうかというとドイツの管理下にあった202点の絵画を本国に移送していました。ヤン・ファン・エイクやボッティチェッリ等の著名な作家の作品です。
しかしこの移送の是非を問う論争がアメリカ国内から出てきます。202問題といわれるものです。作品はまだアメリカにあるままです。
その後敗戦後の日本でも作品が流出すると思いきや、202問題が起こったことと、アメリカで急遽制定された「極東における古物、美術品、図書、文書、その他文化財に関する規則」によって日本の美術品はGHQによって守られました。
改めて美術評論も評価も価値も、時の世相に振り回されることがわかります。
今は果たしてどうなんだろうか…
何かが評価されるのには訳があるかもしれない。
深く絵画鑑賞するには世の中の動きも知らないとですね。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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