サンティーニャーツィオ教会ー天井画がなぜだまし絵なのかー
今日も生きてます。
インスタグラムやTwitterやってみようかなと思い始めてる今日この頃です。
私はSNS関係疎いアナログな人間で、暇さえあればスマフォを見るといったタイプではありません。
ただ会話が続かない為、何かチェックしてる風を装うときがたまにあります。
話し上手になりたい…。
さて、池上英洋さん著の「西洋美術史入門〈実践編〉」からローマのサンティーニャーツィオ教会の天井画についていろいろ見てきました。
↓リンクは過去のサンティアーツィオ教会の天井画について書いたものです。
②サンティーニャーツィオ教会ー天井画を読み解くー - リアル絵描き日記
③サンティーニャーツィオ教会ー天井画の謎ー - リアル絵描き日記
④サンティーニャーツィオ教会ー天井画に迫るー - リアル絵描き日記
⑤サンティーニャーツィオ教会と二分の一成人式 - リアル絵描き日記
そもそもなぜこのような天井画を描くことになったのかというのが今日の話です。
サンティーニャーツィオ教会は1640年の完成を目指して1626年から建設が始まりました。
池上英洋さんの本を読んでいて思ったのですが、ヨーロッパの過去の美術作品をみるときに、その作品がルターの宗教改革前につくられたものか後に作られたものかは一つの確認ポイントなのかなと思います。
サンティーニャーツィオ教会はカトリックでイエズス会の教会です。
そしてこの教会は宗教改革の後につくられたものです。
時代背景としては1555年にドイツでルター派が容認され、1598年にはフランスでもプロテスタントとカトリックに同じ権利を認める勅令がだされ、プロテスタントの勢いがのりのりの時代でした。
プロテスタント圏に入った地域はローマ教会から分離し、今までローマに送られていた資金がストップしてしまったそうです。
そしてイエズス会はもともと清貧をモットーの一つにしていたため、慢性的な資金不足でした。
そしてそしてサンティーニャーツィオ教会建設の資金を提供していた枢機卿が亡くなってしまい、教会は未完成のまま完成予定の年を通り越し1650年を迎えてしまいました。
交差部に穴が開いたままミサを行っていたそうです…。
晴れの日ならいいけどね。
そこで遠近法の作品で有名だった画家兼建築家のポッツォが呼ばれました。
本物のクーポラ(丸天井)をつくるよりも絵にしてしまった方がコストがかからなかったということが、天井画がだまし絵である理由だったんですね。
ポッツォはだまし絵によるクーポラが評価され、より大きな天井画「四大陸の寓意〈イエズス会の伝道の勝利〉」も任されました。
ちょっぴし悲しい話です。
イエズス会が世界各地に積極的に布教活動をしていた背景には信者・地域・資金を補うためという側面がありました。
もし潤沢に資金があったらこの天井画はなかったのかもしれない。
やたら金とか銀とか装飾的な(全面ステンドグラスとか)内装になっていたかもしれないんだなあ。
まあでも屋根がないよりはだまし絵でもあった方いいかな。
きらびやかな天井画だけに内情を知ってしまうと精一杯の背伸びした絵に見えてきてしまう。
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。