リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

宮廷画家?国王主席画家?って何?ー陰謀と策略の世界に巻き込まれた巨匠プッサンー

今日も生きてます。

 

地元秋田が大変です。

実家が雪に埋もれないか不安だ…。

家潰れたりしないよね…

 

 

さて、今日は国王主席画家であったプッサンについて取り上げます。

 

ニコラ・プッサン画『フローラの王国』1630年-1631年

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出典:ニコラ・プッサン - Wikipedia

 

西洋美術の本を読んでいると「宮廷画家」「国王主席画家」といったような肩書を見かけることがあります。

 

なんとなく意味は分かるのですが、いまいちどんなものかわからないので、今日はそこを確認しつつ国王主席画家であったプッサンについてみていきます。

 

 

 

 

 

宮廷画家とは?国王主席画家とは?

宮廷画家は、王侯貴族の依頼に応じて作品を制作する芸術家です。

 

王侯貴族に雇われ、固定給を受けていることが多かったようです。

しかし雇い主以外からの美術品制作依頼を受けることが制限されている場合もありました。

 

宮廷画家は固定給と宮廷内における正式な地位、さらには邸宅も与えられることもありましたが、待遇は人それぞれなようです。

おそらくどれだけ気に入られるかで違ってきたのでしょう。

 

外交官や行政官としての役割を兼務していた宮廷画家もいます。

アーティストというよりも公務員的ポジションなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

日本にもあったのか?

宮廷画家という名称ではありませんが、日本には「御用絵師」(ごようえし)や「絵所/画所」(えどころ)がありました。

 

日本の絵所は、平安時代から江戸時代まで続いた絵描きの公的な職業です。

 

ここに選ばれるということは、世の中に認められると同時に身分が保証され生活が安定することを意味しました。

 

絵所は宮廷、社寺、院、幕府などに置かれました。

 

 

 

 

プッサンとは?

ニコラ・プッサン画『自画像』(1649-1650)

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出典:ニコラ・プッサン - Wikipedia

 

二コラ・プッサンは17世紀のフランスを代表する画家です。しかし人生の大半をローマで過ごしています。

 

1594年フランス・ノルマンディー地方のレ=ザンドリに近いヴィレという村で生まれます。

 

29歳の時、プッサンはローマに出てきています。

 

ローマで教皇の甥にあたるフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿に気に入られます。

そして枢機卿を通じてフランスに送られた絵画を通じて、プッサンの名声は母国にも広まりました。

 

二コラ・プッサン画『アルカディアの牧人たち』1638 - 1640頃ルーヴル美術館

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出典:ニコラ・プッサン - Wikipedia

 

 

 

 

 

プッサンが巻き込まれた画家たちの権力闘争

二コラ・プッサン画『人生の踊り』1640年 ウォレス・コレクション所蔵

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出典:ニコラ・プッサン - Wikipedia

プッサンが生きた17世紀のフランスで、公的な物の美的価値を左右していたのは「王室建造物局総監」でした。

 

ここの担当が変わると、公の美術の価値観が大きく変わります。

つまり、宮廷画家たちの権力闘争にも影響を与えます

 

1638年にはアンリ・ド・フルシーという総監が亡くなり、新しくフランソワ・シュプレ・ド・ノワイエが新総監になりました。

 

以前の総監フルシーのもとでルイ13世の国王主席画家の地位にあったシモン・ヴェーエは地位が弱まります。

 

シモン・ヴーエ画「自画像」

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出典:シモン・ヴーエ - Wikipedia

シモン・ヴーエ画「Madonna and Child」

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出典:シモン・ヴーエ - Wikipedia

 

それには、フランスに新しい芸術様式を作ろうとしていたリシュリュー枢機卿の意図を汲んだ新総監ノワイユが、芸術の本場ローマで名声を得ていたプッサンを呼び寄せたからです。

 

お誘いされたプッサンの方は、なかなか腰を上げなかったのですが、説得されて(圧力?)パリに向かいます。

 

1640年パリで大歓迎を受けたプッサン国王主席画家に任命されます。

宮廷画家の新参者に対して、破格の待遇です。

 

それから国王のための仕事はすべてプッサンの承認が必要になります。

 

それまで幅を利かせていたヴェーエは立場が危うくなりました。

しかもヴェーエとプッサンは相性が悪く、芸術の方向性も違いました。

 

重要で大きな仕事の数々がプッサンに奪われます。

 

しかし意外にもプッサンはたくさんの仕事が舞い込んでいる状況を喜んでいませんでした。

 

それはパリ行きを同意した理由の一つに祭壇画のような大きな室内装飾には関わらず、国王の注文制作だけをうけるという話であったはずなのに、祭壇画などの注文が続いていたからです。

 

そしてついに事件が起こります。

問題となったのはこの作品です。

 

二コラ・プッサン画「鹿児島で少女を蘇らす聖フランシスコ・ザビエル」

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出典:「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

 

イエズス会の修練聖堂の主祭壇画です。

 

描かれているのはザビエルが鹿児島県で起こした奇跡です。

17世紀の巨匠プッサンは日本を描いているんですよ。驚き。

 

この祭壇画にヴェーエはいちゃもんをつけます。

それはこの祭壇画が異端の神ユピテルを彷彿とさせ、不敬であるということです。

その批判はプッサンがデザインした大ギャラリーの装飾にまで及びます。

 

この宮廷内の権力闘争に嫌気がさしたプッサン

1642年には妻を迎えに行くという理由でローマにもどり、二度とフランスには来ませんでした。

 

 

 

絵を描く人でも、ピュアな人もいれば政治家のように権力闘争で足を引っ張る人もいる。

 

やはり強力な権力の恩恵を受けていると、それに固執するようになってしまうんですかね。画家の問題ではなく、普遍的な人間の問題ですね。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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ゴッホは何故自殺したのか?…結果、生きよう!!!!!

今日も生きてます。


前回はゴッホの転職について取り上げました。

 

画家になる前のゴッホが、牧師や書店員など…意外な職業を目指したり、就労したりしていたのが驚きでした。

 

その後画家を目指したゴッホゴーギャンと共同生活の末、耳を切り、自殺しようとして亡くなってしまったのは有名な話です。


ゴッホは何故亡くなってしまったのか?

何が彼をそこまで追い詰めたのか?

 

今日はその理由を、弟テオとの関係から見ていきたいと思います。

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ画「自画像」

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

 

弟テオからの送金で生活をしていたゴッホ

 21歳の弟テオ。イケメン。

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

ゴッホ(弟もゴッホなので以下フィンセントと表記します。)は6人兄弟の長男です。

 

フィンセントと関係の深かったテオばかり取り上げられるため、私は二人兄弟と勘違いしていました。

 

兄弟皆がゴッホの理解者であったわけではなく、テオが家族の中で唯一の理解者であったことがわかりますね。

 

転職の失敗を繰り返していたフィンセントは画家になることを決意します。

いつ頃からかは定かではありませんが、フィンセントが27歳頃には、弟テオが月100フランのお金の仕送りしていました。

 

その頃テオは画商のお店に勤めていました。

 

最初テオは親からの送金と偽っていたそうですが、後に真実を父親がフィンセントに打ち明け、テオに感謝したそうです。

 

ちなみに前回のブログでも触れましたが、テオからの送金が周りの人間から「お情け」と認識されることを不満に思ったフィンセントは、

 

作品を規則則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい

 

という申し入れをしています。

 

あれですね、もはや何か開き直ってますね。

 

 

 

 

なぜテオはフィンセントを支援したのか

 フィンセント・ファン・ゴッホ

『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

兄が弟を援助するならまだしも、弟が兄を金銭的に援助することに少し違和感を感じてしまうのは、私だけではないはず。

 

なぜテオはフィンセントを応援したのか?

それはテオが画商であったからにほかなりません。

 

もちろん兄弟愛もあったかもしれませんが、テオが画商として芸術に深い理解があったため支援していたのだと思います。

 

もしフィンセントがパン屋になると言ったらおそらく仕送りはしなかったでしょう。

 

また、普段から画商として画家たちと交流することがあり、画家が作品を制作するのに画材代などの経費が掛かることや、表現が認められるまで時間がかかることを知っていたのだと思います。

 

(個人的な憶測ですが。)

 

 

 

一緒に暮らすテオとフィンセント

 フィンセント・ファン・ゴッホ

ムーラン・ド・ラ・ギャレット1886年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

画家になることを志したフィンセントは、家族が住む家で過ごしたり、ベルギーに移り住んで浮世絵にはまったりします。

 

しかし1886年、33歳のフィンセントは、前触れもなくいきなりパリでテオが住んでいる家に転がり込みます。

 

ちなみにテオとフィンセントは、16歳頃から頻繁に文通しています。文通しているのにいきなり転がり込んでくるとは…どっきり案件ですね。

 

テオは驚きますが、それまで住んでいた家ではアトリエとして使えないため、もう少し広い部屋へ引っ越しします。

優しすぎるぞ!テオ!!!!!

 

しかしこの同居はテオにとってはストレスフルだったようで、兄弟喧嘩の口論もしていました。テオは妹への手紙の中で兄のことを愚痴っています。

 

 

 

 

耳切り事件

 フィンセント・ファン・ゴッホ

夜のカフェテラス1888年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

1888年、フィンセントは突然アルルへ向かいます。理由は日本沼にはまっていたフィンセントが、アルルの地に日本と近いものを感じたからです。

 

そこで後の巨匠になるゴーギャンと共同生活を始めます。

 

理由はゴーギャンがお金が無かったからです。

 

ゴーギャンお金無いの?じゃあフィンセントと二人、テオからの仕送りで暮らせば良くね?というような感じでしょうか。

 

しかし2人とも一癖も二癖もある芸術家です。

次第に仲は悪くなっていきました。

芸術の方向性の違い(バンドかい)で口論をするようになります。

 

そこで起きたのがゴッホの耳切り事件です。

エキサイトしたゴッホは自分の耳を剃刀で切るという行動に出てしまいます。

 

 

 

 

フィンセント絶望のはじまり

 

  フィンセント・ファン・ゴッホ

『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

耳切り事件の後、フィンセントはサン・レミの療養所で一年ほど過ごします。

 

1890年にはパリで結婚していたテオに子供が生まれます

しかも名前は兄と同じ名前であるフィンセントです。

 

これを喜んだフィンセントはテオ夫婦に絵を贈ります。

 

  フィンセント・ファン・ゴッホ画「花咲くアーモンドの木の枝」

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

 

しかしフィンセントの症状は発作が続くなど、良くなりません。そこで画家ピサロに勧められて芸術に理解のある博士のもとで療養することになります。

 

博士のもとへ向かう途中、お祝いもかねてフィンセントは数日間テオ一家の家に泊まります。

 

そこで待っていたのは、フィンセントにとってつらい現実でした。

 

 

 

テオの経済的苦境

フィンセント・ファン・ゴッホ画 『糸杉のある小麦畑』1889年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

テオ一家の家に泊まりに来たフィンセントにテオは辛い現実を話します。

 

それは、これまで勤めていたお店を辞めて独立をするため、これまでのように安定した収入が見込めなくなるということです。

 

実はテオはフィンセントだけではなく、実家にも送金していました。

 

テオの妻は自立する気配がなく、金銭感覚もない兄へ送金を続けることを受け入れられませんでした。

(当然ですね)

 

フィンセントのせいでテオの夫婦関係に影が落ちていたのです。

 

それに加え、元来病弱なテオは体調が芳しくなく、妻は病気の赤ん坊の世話で疲れ切っていました。

 

ここでフィンセントは悟ります。

 

今までのやってきたわがままはテオに通用しない。

テオには自分よりも大切な存在(家族)がある。

テオの援助がなくなったら、いったいどうすれば…

 

 

 

フィンセントの自殺

 フィンセント・ファン・ゴッホ画 『オーヴェルの教会』1890年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

絶望したフィンセントはパリから療養所に行きます。

しかし病状は良くなるどころか悪くなる一方です。

 

そして1890年7月、外出したゴッホは自分に向けて拳銃を発砲します。

 

弾は急所を外したものの、病院に運ばれたフィンセントはテオが急いで駆け付けたその夜に亡くなってしまします。

 

 

 

フィンセントが自殺したのはなぜか?

フィンセント・ファン・ゴッホ画 『ドービニーの庭』1890年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

夢を何度も挫折し、失恋を重ね、周囲との衝突を繰り返していても、死ぬことは無かったフィンセント。

 

なぜ自殺してしまったのか。

 

やはりそれはテオにとって自分がお荷物になってしまっている現実と直面してしまったからでしょう。

唯一の理解者を失い、この世界に居場所がなくったと感じたのかもしれません。

 

普通とは違うフィンセントですが、「居場所がなくなった」「理解者がいなくなった」=「孤独」が理由で亡くなったところは凡人の私でも共感できる点です。

 

 

今緊急事態のため、家で自分と向き合う時間が増えてる人も多いのではないかなーと思います。なぜか一人で考え込むと、悪いほうに悪いほうにもっていってしまうのは私だけでしょうか?

人に迷惑をかけたらいけないのは常識ですが、迷惑をかけた方が良い時もありますよね。(ここはフィンセントを見習ってもいいかも)

抱え込まないのも大事なことですよね。

 

お正月の残りのお餅でも食べて明日も生きましょう!

 

 



なぜかフィンセントの話から最後少しそれてしまいましたが、今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com

 

 

参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)

「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)

教師・本屋・牧師・パラサイト…ゴッホは何回転職したのか?巨匠に学ぶチャレンジ精神♪

今日も生きています。

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホ画『ひまわり』1888年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

↑の作品はゴッホの代表作として有名な「ひまわり」。

 

ゴッホは激情的な画家として有名ですが、画家として活動した期間は10年程度。

 

現在の名声や作品数を考えると意外に短いと思いませんか?

 

実は画家になる前のゴッホ教師や本屋など…様々な職業に就いています。

 

あまり知られていない画家になる前のゴッホを見てみましょう。

 

 

 

画家になる前のゴッホ

 

グーピル商会の画廊で働いていた

19歳頃のファン・ゴッホ

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

1853年オランダに生まれる。

父が牧師の家の長男です。

 

ゴッホエピソード

ある日教会裏の墓地にて、自分が生れる一年前に亡くなった同じ名前の人のお墓を見つけます。

それは生まれてすぐ亡くなってしまった兄でした。

ゴッホはこのお墓の前に来ると「ここで眠っているのは僕なのでは…⁉」と、泣き出すなどエキサイトするようになります。

 

 

人とうまくやれないゴッホは地元の小学校を退学し、隣の町の寄宿学校に行きます。

そこも16歳で中退します。

 

 

ゴッホ職業①画商の店員

ゴッホが16歳から20歳まで勤めたグーピル商会ハーグ支店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

そこで伯父のつてをたよりに画商グーピル商会のハーグ支店の店員として働き始めます。意外とそこでは勤勉に4年間働いていました。

 

しかし失恋を境に仕事に身が入らなくなります

(乙女ですね。)

 

 

伯父との関係も悪化し、ロンドン支店に転勤します。

 

グーピル商会のパリ・シャプタール通り店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

しかしトラブルが続き、画商グーピル商会を解雇されてしまいます。

 

 

 

 

ゴッホ職業②教師(無給)

 

 解雇されたファン・ゴッホはイギリスに戻ります。

そこで小さな寄宿学校で無給で教師として働きます

少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えました。

 

 

 

ゴッホ職業③伝道師見習い

 ゴッホは画商の店員として働いている頃から伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持ち始めていました。

 

寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをするようになります。

 

 

 ゴッホ職業④本屋の店員

 

左から三番目の建物がゴッホが働いた書店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

ゴッホ牧師になりたいという夢を抱くようになります。

 

しかしその年のクリスマスに帰省したときに、父のエッテンから「聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だ」と説得されます。

 

そしてゴッホドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働き始めます

 

しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたそうです。

 

聖職者になる夢は捨てられませんでした。

 

 

 

ゴッホ職業⑤伝道師(失敗)

フィンセント・ファン・ゴッホ

『父テオドルス』1881年、エッテン。鉛筆。

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

牧師への思いを断ち切れないゴッホ受験頑張るから!と父親を説得します。

 

知り合いの協力のもと、王立大学での神学教育を目指して勉学に励みます。

勉強科目はギリシャ語とラテン語、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など…

 

思いのほか難しかったのか、ゴッホうまく勉強が進まなくなってしまいます。そのことを父親からも指摘されたゴッホは勉強から遠ざかるようになります。

 

そしてアムステルダムで布教しようとしている牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めます。

 

やがてベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごしました。

 

1878年12月、ベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方のプティ=ヴァムの村で、伝道活動を始めます。熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになります。

 

彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになります。

 

ゴッホは苛酷な労働条件で労働争議が巻き起こる炭鉱の町の中で社会的不正義に憤るというよりも、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたため、人々の理解を得られませんでした

 

教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られてしまいます

 

 

 

 

ゴッホ職業⑥画家?(弟にパラサイト?)

 

伝道師にもなれなかったゴッホ

1880年10月、突然ブリュッセルに行きます。

なぜかというと、絵を学ぶためです。

 

そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けます。

 現地の画家たちと交友も持ち、アカデミーの素描コースのレッスンを受けます。

 

 

1881年4月、お金が無くなったファン・ゴッホはエッテンの実家に戻ります。

田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けました。

ちなみにここで未亡人に恋に落ちて失恋します。

 

 

1882年1月、彼はハーグに住み始めます。

そこにはゴッホを親身に世話してくれる画家モーヴがいました。

 

ゴッホに絵の指導をした

画家アントン・モーヴ

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をしたり、アトリエを借りるための資金を貸し出したりするなど、面倒見がいいタイプだったのでしょう。

 

しかしやがてモーヴともうまくいかなくなります。

原因として考えられるのは

 

ゴッホはがこの頃にシーンという身重の娼婦をモデルとして使っていて、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚まで考えていたこと。

 

石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致。

 

個人的な推測ですが、おそらく最初は熱意に圧倒されて支援していたものの、ゴッホと付き合ううちにその難解なパーソナリティに気が付き、やけどしないように距離をとっていったのが事実では?と思います。

 

ゴッホは、わずかな意見の違いも全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させるてしまい、ハーグで知り合った人々ともだんだん疎遠になります。

 

さて、この頃ゴッホは何で生計をたてていたのか…?

それは弟テオの仕送りでした。

月100フランをテオはフィンセント兄さんに送っていたのです。

 

ゴッホはこの仕送りの大部分をモデル料にし、少しでも送金が遅れるとテオをなじったそうです。

 

この頃テオは画商として画商グーピル商会のパリのモンマルトル大通り店 に勤めていました。

 

イケメンの弟テオ

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 そして1883年にゴッホドレンテ州へ発ちます。

泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描しました。

 

 

 

ゴッホ職業⑦画家

 

フィンセント・ファン・ゴッホ画『開かれた聖書の静物画』1885年10月

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

1883年12月5日、ファン・ゴッホは父親が仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に初めて帰省し、ここで2年間を過ごします。

 

 

引き続きテオからの送金してもらっていたゴッホ

 

それをが周りから「お情け」と見られていることには不満を募らせます。

 

テオに「今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい」という申入れをしました。

 

ということで、ゴッホはここから画家になったといってよいでしょう。

 

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ画『ジャガイモを食べる人々』

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

 

 

 

ゴッホって人生でやりたいと思ったものに全てチャレンジしているんですよね。

 

ほとんど挫折に終わっていますが、周りから反対されているにもかかわらず挑戦できているのがすごいです。

 

正直周りの人にとってはちょっと扱いが難しいトラブルメーカーだったかもしれませんが、何か始めたゴッホに必ず手を差し伸べる人がいるのは、ゴッホに強烈魅力&熱意があったからなんだろうなあ。

 

世界的な巨匠もこんなに失敗しているなら、私もダメもとで何かやってみようかな♪と思いませんか?

 

(死後祀り上げられるかも♪)

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com

 

 

参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)

「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)

雅宴画とは何か?絵画新ジャンル生みの親 巨匠ヴァトーについても知ろう!!!

今日も生きています。

実家から届いたオイル漬けの牡蠣が美味しくて白米が進みます。 

 

ということで、今日は「雅宴画」と、生みの親である「ヴァトー」について見ていきましょう!

 

アントワーヌ・ヴァトー画『愛の祝祭』

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 

アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)

 まずは雅宴画を生み出したヴァトーの生涯を紹介します。

 

 ロザルバ・カリエラ画

アントワーヌ・ヴァトーの肖像

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

ヴァトーの成り上がり人生

1684年

ヴァトーはフランドル地方ヴァランシエンヌに生まれます。

屋根葺き職人の家の次男でした。

 

11歳

看板などを描く田舎画家に弟子入りします。

 

17歳

パリのサンジェルマンのフランドル人街に行き、そこで絵描きバイトをして日銭を稼ぎます。

 

分業制のバイトでしたが、ヴァトーは才能があったので一人で仕上げまで任されました

 

19歳

舞台装飾の専門画家クロード・ジローに弟子入りします。

 

アントワーヌ・ヴァトー画 オーベール版画

クロード・ジローの肖像

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出典:クロード・ジロー - Wikipedia

 

クロード・ジロー画「イタリア喜劇の場面」

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出典:クロード・ジロー - Wikipedia

 

 

ここで洗練された芸術を知ることになります。

 

ちなみにヴァトーはあっという間に師を追い越し、クロード・ジローは筆を折ってしまいました。

 

24歳

当時一流の装飾画家オードロンに弟子入りします。

 

ある日、オードランの宮殿の中でルーベンスの絵を見ます。

その作品からヴァトーはショックを受けます。

 

25歳

オードランのとこの仕事を辞め、ローマ賞コンクールのため絵を描きます。

優勝を目指した作品は、準優勝(二番)でした。

 

ヴァトーは一度故郷に帰ります。

 

26歳

再度パリへ出て、画商のシロワの家に下宿します。

ここで実業家&美術コレクターのピエール・クロザに気に入られます

 

ちなみにピエール・クロザは裕福な金融業者で、王や王室の会計としても働いたこともあり、有名な芸術のパトロンでした。

 

ロザルバ・キャリアーア画 

ピエール・クロザットの肖像

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出典:Pierre Crozat - Wikipedia

 

クロザに気に入られたことがきっかけでヴァトーの人気は急上昇しました。

 

 

28歳

ローマ賞にリベンジ!

今回は優勝をつかみ取ります。

 

通常ローマ賞に選ばれるとイタリアに留学することになるのですが、ヴァトーはクロザの膨大なコレクションを見ることができたので、必要ないということになり、これを断ります。

 

 

 

33歳

アカデミー会員になるためには「入会申請作品」が必要でした。

ヴァトーは「シテール島への巡礼」という作品を提出します。

 

アントワーヌ・ヴァトー画「シテール島への巡礼」

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 

 

当時のパリ美術業界事情について

 

パリの美術の権威は三つ。

 

エコール・デ・ボザール

(17世紀に設立されたフランスの美術の教育機関)

 

芸術アカデミー

(会員制の芸術家団体

 

サロン

(アカデミーが開催した公募展)

 

 芸術アカデミーの会員になることが、画家として認められることでもありました。芸術アカデミーに画家(会員)として登録する時には、「何の画題を描く画家か」ということも同時に登録されます。

 

アカデミーの画題とヒエラルキーについて

 

〇画題とは

歴史画や静物画など…絵画には描かれるテーマによっていくつか種類があります。

 

現在はありませんが、当時パリのアカデミーにはその画題によって階級がありました。

階級が高い順から、「歴史画」>「肖像画」>「静物画」、「風景画」です。 

 

 

さて、話は戻ります。

ヴァトーがアカデミーに登録するために提出した作品を見てみましょう。

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これは風景画?肖像画

絵を審査する側だったアカデミー会員たちは悩みます。

 

そしてヴァトーのために新しい絵画のジャンル「雅宴画」を新設。

ヴァトーは「雅宴画の画家」としてアカデミーに登録されます。

 

 

35歳

ロンドンで結核を治療します。

治らないことを悟り、パリに帰ります。

 

1721年

36歳

迫る死への不安に駆られて家を転々とします。

弟子に指導するため筆を握ったまま亡くなります。

 

 

 

 

 

雅宴画とは?

 

アントワーヌ・ヴァトー画『舞踏』

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 


雅宴画とはヴァトーがアカデミーに登録するときに新設された絵画のジャンルです。

 

屋外で談笑する当世風の衣装で着飾った男女の集いを描いたものです。

 

雅宴画の世界観は、華やかな生活をする貴族たちを、メランコリーとエロティシズムをほのかに漂わせたものです。

 

娯楽に興じるお金持ちの日常を、ヴァトーが哀愁に満ちた感性でとらえ、洗練された表現で繊細に描きます。

 

システィーナ島の巡礼も、題材は上流階級の合コンですがヴァトーが描くとどことなく哀愁に満ちています。

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ヴァトーとピエロ

アントワーヌ・ヴァトー画『ピエロ』(旧称ジル)

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

生まれつき病弱だったヴァトーは、1711年には結核の症状が現れます。

孤独で陰気だった彼は、芝居装飾専門画家クロード・ジローのもとに弟子入りしたことがきっかけで、芝居に夢中になっていきます。

 

そんなヴァトーはピエロの作品を何枚か描いています。

 

アントワーヌ・ヴァトー画『ピエロ』

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

アントワーヌ・ヴァトー画「メズタン」

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 

華やかな社交界と距離を置き、浮いた話一つもなかったヴァトー。

結核で社会から距離を置いていた彼は、劇のストーリーとは関係なく登場するピエロにシンパシーを感じていました。

 

絵の中に描くピエロに自分を重ねていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)

「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)

19世紀パリ、バレリーナの現実を描いたドガの作品をみてみよう。絵の中には愛人を探しにオペラ座に来た成金紳士たちがちらり。

今日も生きてます。

 

ネットフリックスにて映画「パラサイト」を視聴しました。

めちゃくちゃ面白く、ユーチューブで考察動画も見まくってしまいました。

THE CALLも面白かったし、韓国の映画もいいですね!

 

もう5日か…

お正月気分もそろそろやめないとなあ。

しゃっきりするぞー

 

でもその前にパラサイトと同じポン・ジュノ監督の作品を全部みたいな。

(終わらない正月気分)

 

 

 

今日は19世紀のパリで活躍した画家エドガー・ドガの作品を見ていきましょう。

 

 

 

エドガー・ドガって誰?

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

ドガ1834年から1917年までパリで活躍した画家です。

バレリーナを描いた作品が有名です。

 

銀行家の父を持つ家に生まれ、40歳辺りまで「働いて収入を得る」という意味さえ分からなかったほどお金に困らない生活をしていました。

 

しかし父が亡くなった時に負債が見つかったり、兄の事業の失敗があったり、人生の後半は悠々自適とはいかなかったようです。

 

マネの仲間の作家たちや印象派の画家たちと程よい距離感を保ちつつ交流していました。

 

ドガの作品はのモチーフはバレエや娼婦、室内風景、体を洗う女性を描いた作品も多いです。

 

オペラ座の定期会員のなっていたドガは、バレエの舞台裏なども見ることができました。(現在は禁止されている。)

なので作品の中には練習するバレリーナや、休憩するバレリーナを描いたものもあります。

 

エドガー・ドガ画「バレエのレッスン」(1874年頃、オルセー美術館所蔵)

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

アメリカ人に人気のあったドガの作品

 エドガー・ドガオペラ座のオーケストラ」(1870) オルセー美術館

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

ドガ印象派たちの作品は、アメリカ人の富裕層に受けたようです。

 

南北戦争以降に莫大な資産を持ったアメリカ人の富裕層たちは、ヨーロッパ文化に魅力を感じていました

 

ヨーロッパの美術品から学ぼうという姿勢があったようです。

 

その中でもドガのバレエを描いた作品はアメリカ人に特に人気でした。

 

バレエの作品を自宅の壁にかけることで、文化レベルが高いように演出し、自分たちのイメージも上げようとしていたようです。

 

現代の私たちもバレエと聞くと高等なイメージありませんか?

 

小さなころ、バレエやピアノをしていた人って文化的で教養のある家だと感じていました。実際に費用は掛かりますし、大人になった今ではよりそう思うようになりました。

 

これは当時のアメリカ人も同じであったようです。

 

 

 

 

 

19世紀パリのバレリーナたちの実情

 

エドガー・ドガ作「14歳の小さな踊り子」(1881) ナショナル・ギャラリー

ドガの生前に唯一発表された彫刻作品

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 
 

しかし19‐20世紀、ドガの生きた時代のパリのバレエの実情はそんなイメージとはかけ離れたものでした。

 

バレエの観客はほとんどが男性。

愛人を探しに来ていたのです。

 

踊り子たちは技術よりも容姿の良さでバレリーナに選ばれました。

バレリーナのほとんどは貧しい家庭の出身で、成り上がるためには良いパトロンを探す必要がありました。

 

そして愛人を選ぶときに交渉するのはバレリーナの母親でした。

娼婦と同じように認識されていたのかもしれません。

 

悲しい現実ですね。

 

 

 

 

 

バレエの現実を描いたドガ

 

 エドガー・ドガ画「踊りの花形(エトワール、舞台の踊り子)」

(1878年頃) オルセー美術館

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

 

ドガの作品にはそんなバレリーナたちの実情が描かれている作品があります。

 

踊り子の後ろに見える黒い人影。

これはこの踊り子を買ったパトロンの存在です。

 

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純粋にバレエが好きでその踊りの世界を表現したいならこういうものは排除しますよね。

 

エドガー・ドガ画『舞台のバレエ稽古』(1874) メトロポリタン美術館

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

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ドガオペラ座の実情をどう思っていたのでしょうか?


バレリーナたちの現実が悪いとか、良いとか、そのようなことは考えてなかったのだろうなと思います。同情とかはしてなさそう。

 

ドガは現実として普通にあることを画面の中に取り入れることが自然だと思っていたんじゃないかな。

 

個人的には画面の隅に描かれた紳士たちと同じような目線でバレリーナたちを見ていたのではないのかなと思います。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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 参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

祝2021年♪ 日本を愛した巨匠 横山大観の描いた富士山をみて今年の運気を上げましょう!

今日も生きています。

 

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

2021年ですね。

 

今日は縁起の良いと言われている「富士山」を紹介して、このブログを見に来てくださった方々と一緒に今年の運気を上げていきたいと思います。

 

富士山をモチーフにした画家(特に日本画家)はたくさんいますが、今日は横山大観の富士山を見ていきながら、大観あれこれも紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 横山大観とは

 

横山大観は、19世紀ー20世紀に日本で活躍した日本画家です。

富士山の作品もたくさん制作しています。

 

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出典:横山大観 - Wikipedia

 

横山大観のこの写真すごく好きだあ。(笑顔♪)

 

お酒好きで有名だった横山大観

宴会の席ではこのような楽しそうな雰囲気であったのでしょか?

 

 

 

 

 

横山大観画 「不盡之高嶺」(ふじのたかね)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 

 横山大観が富士山に取り組み始めた頃の初期の作品。

題名の「不盡之高嶺」(ふじのたかね)は、万葉集にある富士を詠んだ詩を意識していると言われています。

 

その詩とは、奈良時代歌人山部赤人(やまべのあかひと)の『富士山を望む歌』です。

 

山部宿祢赤人望不尽山歌一首 并短歌


天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎
天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利
時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不尽能高嶺者

 

〇大体の意味〇

 

世界が天と地と別れた時から神々しく、高く貴い駿河静岡県)の富士の高嶺を遙か遠くから振り仰いで見ると、空を渡る太陽も隠れ、照る月の光も見えない。

 

白雲も行く手を阻まれ、季節の区別なく雪は降り続いている。

この富士の高嶺を後世に語り継ぎ 言ひ継いで行こうではないか。

 

 

 

 

「群青富士」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

どことなく琳派風の屏風です。

 

 

芥川龍之介横山大観

 

横山大観は作家の芥川龍之介と交流がありました。

 

芥川龍之介は自画像の代わりに「河童」を描いたことで有名です。

 

その絵を見たからかはわかりませんが、大観は芥川に対して「絵をやれ」「みっちり三年間仕込んでやるがやる気はないか」口説いていたそうです。

 

弟子はとらない主義の大観が芥川を誘っていたとは驚きですね。

 

 

 

 

「霊蜂十趣・山」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

「霊蜂十趣・夜」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 

「霊峰十趣」は、それぞれ季節や時間帯によって変化する富士を10枚描き分けた連作です。

雰囲気はやまと絵風です。

 

 

〇レオナール藤田と横山大観。〇

 

レオナール藤田が横山大観と会ったときのことを書いた資料が残っています。

 

大観は私のことを藤田さんと呼ぶ 

私は大観先生と答へる。

 

大観さんに葡萄とレモン水馳走になった、

画はいい物丈残ると言ふ事を言はれ

 

にせは増えても真物は少なくと言ふ

 

(藤田嗣治資料FT00510,東京芸術大学蔵)

 藤田はエッセイ「日本画私観」の中で、横山大観について触れており、「娑婆気の多い政党人のような所」のせいで「本当の天才の境地に達することは出来ないように私には考えられる」と、少し厳しめの見方をしています。

 

横山大観氏の東洋精神主義という言葉をしばしば見聞する。無論日本画は西洋流の真似をしなくってもいい。然しそれと共に日本の伝統だといって、時代にさかろうてまで、旧臭い風習を固定しなくてもいいだろう

 

 日本の画壇の権力争いなどとは関係ないからこそ自由に横山大観の批判をできたんだろうなあ。

 

 

 

 

 

「朝陽霊蜂」(ちょうようれいほう)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 

宮内省から明治宮殿豊明殿を飾る作品を描くように依頼されて描いた作品です。

 

皇室への初めての献上作品です。

金色に輝く富士山と日輪は、「日本」のイメージそのものですね。

 

 

 

 

「山に因む十題・龍踊る」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

龍が雲のすきまから見えています。

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「山に因む十題・霊峰四趣 春」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

横山大観の富士山観〇

 

横山大観の富士山に対する思いを「私の富士観」から知ることができます。

 

富士を描くということは、つまり己を描くことである。

己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。

富士を描くには理想をもって描かねばならぬ。

私の富士も決して名画とは思わぬが、しかし描く限り、全身全霊をうちこんで描いている。

 

 

 

 

「正気放光」(せいきほうこう)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

かっこよい題名は、江戸時代末期の水戸藩士であり、学者の藤田東湖がつくった詩「正気の歌」が由来と考えられます。

 

横山大観も水戸生まれなので詳しかったのかも知れませんね。

「正気の歌」は皇室を護っていくぜい!という気合いに満ちた詩ですが、それをもとに富士山を描いた大観のこの作品には、愛国心が込められているのかなあと思います。

 

 

 

 

 

「日出処日本」(ひいずるところのにほん)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 この作品は横幅4メートル50センチという驚く大きさです。

紀元二千六百年奉祝展に出品されました。

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか?

日本を愛した横山大観の富士山はご利益がありそうです。

 

皆様にとって新しい年が良い年であることを祈っております。

 

 

 

 

 

 

 葛飾北斎の富士山はこちらで見られます。

akashiaya.hatenadiary.jp

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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参考

「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

実家あるある。家の謎コレクション紹介ーモナリザから日本人形までー

今日も生きてます。

 

晦日、皆様はいかがおすごしでしょうか?

 

わたしは雪国にいます。

庭は雪に埋もれてます。


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秋田はけっこう冷えてます。

 

うちの家はおじいちゃんが建てた家なので、おじさんとおばあちゃんのものとか、お母さんや私のものとか、いろいろなものが入り交じっています。

 

伝統工芸品とファンシー雑貨が融合された居心地の良い空間です。

 

ミニマリストも裸足で逃げ出す家ですね。

 

今日は実家に鎮座するコレクションを紹介していきます。


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まずモナリザ

もちろん複製です。

おじいちゃんのフランス土産です。


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いわさきちひろの色紙。

印刷です。


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たくさん文字がかかれているこけし

けっこう大きい。

 

 


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皆様を迎えるカエル。

こちらもけっこう大きい。

 


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隣に石もあります。

ずっとあるけど、なんの石かは不明です。

 


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急須がたくさんあります。

 


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手のひらサイズでかわいいです。

ちゃんと使えます。

 


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たなの上に愉快な仲間たち。


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「人間の運命」14冊

とても気になるタイトルですね

人生に迷ったらこの本を開いたら支えになりそうです。


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古典が並ぶ書籍の前にはファンシー雑貨たちが並んでます。

 

 


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ウサギと天使。

ファンシーです。


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居間の片隅に立ち並ぶ和風人形たち。


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おじいちゃんからこの人形もらったけど怖くて忘れたふりして置いて帰った記憶がある。

(ごめん。)


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家族が増えると増える日本人形たち。

けっこう美人さんです。


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帽子掛けにされてるスヌーピー

そういう用途の商品なのか?

 

 

 

断捨離が流行したときもありましたが、自分の気に入ったものや思いでの品に溢れた家も素敵ですよね。

 

 

さて、私の家とは違って実家はしっかり新しい年を迎える準備ができてます。

(偉大なる母)


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このブログは引き続き更新していこうと思います。

 

いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。

 

それでは良いお年を♪

 

 

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