リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

教師・本屋・牧師・パラサイト…ゴッホは何回転職したのか?巨匠に学ぶチャレンジ精神♪

今日も生きています。

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホ画『ひまわり』1888年

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

↑の作品はゴッホの代表作として有名な「ひまわり」。

 

ゴッホは激情的な画家として有名ですが、画家として活動した期間は10年程度。

 

現在の名声や作品数を考えると意外に短いと思いませんか?

 

実は画家になる前のゴッホ教師や本屋など…様々な職業に就いています。

 

あまり知られていない画家になる前のゴッホを見てみましょう。

 

 

 

画家になる前のゴッホ

 

グーピル商会の画廊で働いていた

19歳頃のファン・ゴッホ

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

1853年オランダに生まれる。

父が牧師の家の長男です。

 

ゴッホエピソード

ある日教会裏の墓地にて、自分が生れる一年前に亡くなった同じ名前の人のお墓を見つけます。

それは生まれてすぐ亡くなってしまった兄でした。

ゴッホはこのお墓の前に来ると「ここで眠っているのは僕なのでは…⁉」と、泣き出すなどエキサイトするようになります。

 

 

人とうまくやれないゴッホは地元の小学校を退学し、隣の町の寄宿学校に行きます。

そこも16歳で中退します。

 

 

ゴッホ職業①画商の店員

ゴッホが16歳から20歳まで勤めたグーピル商会ハーグ支店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

そこで伯父のつてをたよりに画商グーピル商会のハーグ支店の店員として働き始めます。意外とそこでは勤勉に4年間働いていました。

 

しかし失恋を境に仕事に身が入らなくなります

(乙女ですね。)

 

 

伯父との関係も悪化し、ロンドン支店に転勤します。

 

グーピル商会のパリ・シャプタール通り店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

しかしトラブルが続き、画商グーピル商会を解雇されてしまいます。

 

 

 

 

ゴッホ職業②教師(無給)

 

 解雇されたファン・ゴッホはイギリスに戻ります。

そこで小さな寄宿学校で無給で教師として働きます

少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えました。

 

 

 

ゴッホ職業③伝道師見習い

 ゴッホは画商の店員として働いている頃から伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持ち始めていました。

 

寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをするようになります。

 

 

 ゴッホ職業④本屋の店員

 

左から三番目の建物がゴッホが働いた書店

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

ゴッホ牧師になりたいという夢を抱くようになります。

 

しかしその年のクリスマスに帰省したときに、父のエッテンから「聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だ」と説得されます。

 

そしてゴッホドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働き始めます

 

しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたそうです。

 

聖職者になる夢は捨てられませんでした。

 

 

 

ゴッホ職業⑤伝道師(失敗)

フィンセント・ファン・ゴッホ

『父テオドルス』1881年、エッテン。鉛筆。

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

牧師への思いを断ち切れないゴッホ受験頑張るから!と父親を説得します。

 

知り合いの協力のもと、王立大学での神学教育を目指して勉学に励みます。

勉強科目はギリシャ語とラテン語、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など…

 

思いのほか難しかったのか、ゴッホうまく勉強が進まなくなってしまいます。そのことを父親からも指摘されたゴッホは勉強から遠ざかるようになります。

 

そしてアムステルダムで布教しようとしている牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めます。

 

やがてベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごしました。

 

1878年12月、ベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方のプティ=ヴァムの村で、伝道活動を始めます。熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになります。

 

彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになります。

 

ゴッホは苛酷な労働条件で労働争議が巻き起こる炭鉱の町の中で社会的不正義に憤るというよりも、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたため、人々の理解を得られませんでした

 

教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られてしまいます

 

 

 

 

ゴッホ職業⑥画家?(弟にパラサイト?)

 

伝道師にもなれなかったゴッホ

1880年10月、突然ブリュッセルに行きます。

なぜかというと、絵を学ぶためです。

 

そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けます。

 現地の画家たちと交友も持ち、アカデミーの素描コースのレッスンを受けます。

 

 

1881年4月、お金が無くなったファン・ゴッホはエッテンの実家に戻ります。

田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けました。

ちなみにここで未亡人に恋に落ちて失恋します。

 

 

1882年1月、彼はハーグに住み始めます。

そこにはゴッホを親身に世話してくれる画家モーヴがいました。

 

ゴッホに絵の指導をした

画家アントン・モーヴ

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をしたり、アトリエを借りるための資金を貸し出したりするなど、面倒見がいいタイプだったのでしょう。

 

しかしやがてモーヴともうまくいかなくなります。

原因として考えられるのは

 

ゴッホはがこの頃にシーンという身重の娼婦をモデルとして使っていて、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚まで考えていたこと。

 

石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致。

 

個人的な推測ですが、おそらく最初は熱意に圧倒されて支援していたものの、ゴッホと付き合ううちにその難解なパーソナリティに気が付き、やけどしないように距離をとっていったのが事実では?と思います。

 

ゴッホは、わずかな意見の違いも全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させるてしまい、ハーグで知り合った人々ともだんだん疎遠になります。

 

さて、この頃ゴッホは何で生計をたてていたのか…?

それは弟テオの仕送りでした。

月100フランをテオはフィンセント兄さんに送っていたのです。

 

ゴッホはこの仕送りの大部分をモデル料にし、少しでも送金が遅れるとテオをなじったそうです。

 

この頃テオは画商として画商グーピル商会のパリのモンマルトル大通り店 に勤めていました。

 

イケメンの弟テオ

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 そして1883年にゴッホドレンテ州へ発ちます。

泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描しました。

 

 

 

ゴッホ職業⑦画家

 

フィンセント・ファン・ゴッホ画『開かれた聖書の静物画』1885年10月

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出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

1883年12月5日、ファン・ゴッホは父親が仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に初めて帰省し、ここで2年間を過ごします。

 

 

引き続きテオからの送金してもらっていたゴッホ

 

それをが周りから「お情け」と見られていることには不満を募らせます。

 

テオに「今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい」という申入れをしました。

 

ということで、ゴッホはここから画家になったといってよいでしょう。

 

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ画『ジャガイモを食べる人々』

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 出典:フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

 

 

 

 

 

ゴッホって人生でやりたいと思ったものに全てチャレンジしているんですよね。

 

ほとんど挫折に終わっていますが、周りから反対されているにもかかわらず挑戦できているのがすごいです。

 

正直周りの人にとってはちょっと扱いが難しいトラブルメーカーだったかもしれませんが、何か始めたゴッホに必ず手を差し伸べる人がいるのは、ゴッホに強烈魅力&熱意があったからなんだろうなあ。

 

世界的な巨匠もこんなに失敗しているなら、私もダメもとで何かやってみようかな♪と思いませんか?

 

(死後祀り上げられるかも♪)

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

akashiaya.jimdofree.com

 

 

参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)

「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)

雅宴画とは何か?絵画新ジャンル生みの親 巨匠ヴァトーについても知ろう!!!

今日も生きています。

実家から届いたオイル漬けの牡蠣が美味しくて白米が進みます。 

 

ということで、今日は「雅宴画」と、生みの親である「ヴァトー」について見ていきましょう!

 

アントワーヌ・ヴァトー画『愛の祝祭』

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 

アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)

 まずは雅宴画を生み出したヴァトーの生涯を紹介します。

 

 ロザルバ・カリエラ画

アントワーヌ・ヴァトーの肖像

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

ヴァトーの成り上がり人生

1684年

ヴァトーはフランドル地方ヴァランシエンヌに生まれます。

屋根葺き職人の家の次男でした。

 

11歳

看板などを描く田舎画家に弟子入りします。

 

17歳

パリのサンジェルマンのフランドル人街に行き、そこで絵描きバイトをして日銭を稼ぎます。

 

分業制のバイトでしたが、ヴァトーは才能があったので一人で仕上げまで任されました

 

19歳

舞台装飾の専門画家クロード・ジローに弟子入りします。

 

アントワーヌ・ヴァトー画 オーベール版画

クロード・ジローの肖像

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出典:クロード・ジロー - Wikipedia

 

クロード・ジロー画「イタリア喜劇の場面」

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出典:クロード・ジロー - Wikipedia

 

 

ここで洗練された芸術を知ることになります。

 

ちなみにヴァトーはあっという間に師を追い越し、クロード・ジローは筆を折ってしまいました。

 

24歳

当時一流の装飾画家オードロンに弟子入りします。

 

ある日、オードランの宮殿の中でルーベンスの絵を見ます。

その作品からヴァトーはショックを受けます。

 

25歳

オードランのとこの仕事を辞め、ローマ賞コンクールのため絵を描きます。

優勝を目指した作品は、準優勝(二番)でした。

 

ヴァトーは一度故郷に帰ります。

 

26歳

再度パリへ出て、画商のシロワの家に下宿します。

ここで実業家&美術コレクターのピエール・クロザに気に入られます

 

ちなみにピエール・クロザは裕福な金融業者で、王や王室の会計としても働いたこともあり、有名な芸術のパトロンでした。

 

ロザルバ・キャリアーア画 

ピエール・クロザットの肖像

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出典:Pierre Crozat - Wikipedia

 

クロザに気に入られたことがきっかけでヴァトーの人気は急上昇しました。

 

 

28歳

ローマ賞にリベンジ!

今回は優勝をつかみ取ります。

 

通常ローマ賞に選ばれるとイタリアに留学することになるのですが、ヴァトーはクロザの膨大なコレクションを見ることができたので、必要ないということになり、これを断ります。

 

 

 

33歳

アカデミー会員になるためには「入会申請作品」が必要でした。

ヴァトーは「シテール島への巡礼」という作品を提出します。

 

アントワーヌ・ヴァトー画「シテール島への巡礼」

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 

 

当時のパリ美術業界事情について

 

パリの美術の権威は三つ。

 

エコール・デ・ボザール

(17世紀に設立されたフランスの美術の教育機関)

 

芸術アカデミー

(会員制の芸術家団体

 

サロン

(アカデミーが開催した公募展)

 

 芸術アカデミーの会員になることが、画家として認められることでもありました。芸術アカデミーに画家(会員)として登録する時には、「何の画題を描く画家か」ということも同時に登録されます。

 

アカデミーの画題とヒエラルキーについて

 

〇画題とは

歴史画や静物画など…絵画には描かれるテーマによっていくつか種類があります。

 

現在はありませんが、当時パリのアカデミーにはその画題によって階級がありました。

階級が高い順から、「歴史画」>「肖像画」>「静物画」、「風景画」です。 

 

 

さて、話は戻ります。

ヴァトーがアカデミーに登録するために提出した作品を見てみましょう。

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これは風景画?肖像画

絵を審査する側だったアカデミー会員たちは悩みます。

 

そしてヴァトーのために新しい絵画のジャンル「雅宴画」を新設。

ヴァトーは「雅宴画の画家」としてアカデミーに登録されます。

 

 

35歳

ロンドンで結核を治療します。

治らないことを悟り、パリに帰ります。

 

1721年

36歳

迫る死への不安に駆られて家を転々とします。

弟子に指導するため筆を握ったまま亡くなります。

 

 

 

 

 

雅宴画とは?

 

アントワーヌ・ヴァトー画『舞踏』

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 


雅宴画とはヴァトーがアカデミーに登録するときに新設された絵画のジャンルです。

 

屋外で談笑する当世風の衣装で着飾った男女の集いを描いたものです。

 

雅宴画の世界観は、華やかな生活をする貴族たちを、メランコリーとエロティシズムをほのかに漂わせたものです。

 

娯楽に興じるお金持ちの日常を、ヴァトーが哀愁に満ちた感性でとらえ、洗練された表現で繊細に描きます。

 

システィーナ島の巡礼も、題材は上流階級の合コンですがヴァトーが描くとどことなく哀愁に満ちています。

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ヴァトーとピエロ

アントワーヌ・ヴァトー画『ピエロ』(旧称ジル)

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

生まれつき病弱だったヴァトーは、1711年には結核の症状が現れます。

孤独で陰気だった彼は、芝居装飾専門画家クロード・ジローのもとに弟子入りしたことがきっかけで、芝居に夢中になっていきます。

 

そんなヴァトーはピエロの作品を何枚か描いています。

 

アントワーヌ・ヴァトー画『ピエロ』

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

アントワーヌ・ヴァトー画「メズタン」

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出典:アントワーヌ・ヴァトー - Wikipedia

 

 

華やかな社交界と距離を置き、浮いた話一つもなかったヴァトー。

結核で社会から距離を置いていた彼は、劇のストーリーとは関係なく登場するピエロにシンパシーを感じていました。

 

絵の中に描くピエロに自分を重ねていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

「鑑賞のための西洋美術史入門」(視覚デザイン研究所)

「101人の画家ー生きていることが101倍楽しくなるー」(視覚デザイン研究所)

19世紀パリ、バレリーナの現実を描いたドガの作品をみてみよう。絵の中には愛人を探しにオペラ座に来た成金紳士たちがちらり。

今日も生きてます。

 

ネットフリックスにて映画「パラサイト」を視聴しました。

めちゃくちゃ面白く、ユーチューブで考察動画も見まくってしまいました。

THE CALLも面白かったし、韓国の映画もいいですね!

 

もう5日か…

お正月気分もそろそろやめないとなあ。

しゃっきりするぞー

 

でもその前にパラサイトと同じポン・ジュノ監督の作品を全部みたいな。

(終わらない正月気分)

 

 

 

今日は19世紀のパリで活躍した画家エドガー・ドガの作品を見ていきましょう。

 

 

 

エドガー・ドガって誰?

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

ドガ1834年から1917年までパリで活躍した画家です。

バレリーナを描いた作品が有名です。

 

銀行家の父を持つ家に生まれ、40歳辺りまで「働いて収入を得る」という意味さえ分からなかったほどお金に困らない生活をしていました。

 

しかし父が亡くなった時に負債が見つかったり、兄の事業の失敗があったり、人生の後半は悠々自適とはいかなかったようです。

 

マネの仲間の作家たちや印象派の画家たちと程よい距離感を保ちつつ交流していました。

 

ドガの作品はのモチーフはバレエや娼婦、室内風景、体を洗う女性を描いた作品も多いです。

 

オペラ座の定期会員のなっていたドガは、バレエの舞台裏なども見ることができました。(現在は禁止されている。)

なので作品の中には練習するバレリーナや、休憩するバレリーナを描いたものもあります。

 

エドガー・ドガ画「バレエのレッスン」(1874年頃、オルセー美術館所蔵)

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

アメリカ人に人気のあったドガの作品

 エドガー・ドガオペラ座のオーケストラ」(1870) オルセー美術館

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

ドガ印象派たちの作品は、アメリカ人の富裕層に受けたようです。

 

南北戦争以降に莫大な資産を持ったアメリカ人の富裕層たちは、ヨーロッパ文化に魅力を感じていました

 

ヨーロッパの美術品から学ぼうという姿勢があったようです。

 

その中でもドガのバレエを描いた作品はアメリカ人に特に人気でした。

 

バレエの作品を自宅の壁にかけることで、文化レベルが高いように演出し、自分たちのイメージも上げようとしていたようです。

 

現代の私たちもバレエと聞くと高等なイメージありませんか?

 

小さなころ、バレエやピアノをしていた人って文化的で教養のある家だと感じていました。実際に費用は掛かりますし、大人になった今ではよりそう思うようになりました。

 

これは当時のアメリカ人も同じであったようです。

 

 

 

 

 

19世紀パリのバレリーナたちの実情

 

エドガー・ドガ作「14歳の小さな踊り子」(1881) ナショナル・ギャラリー

ドガの生前に唯一発表された彫刻作品

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 
 

しかし19‐20世紀、ドガの生きた時代のパリのバレエの実情はそんなイメージとはかけ離れたものでした。

 

バレエの観客はほとんどが男性。

愛人を探しに来ていたのです。

 

踊り子たちは技術よりも容姿の良さでバレリーナに選ばれました。

バレリーナのほとんどは貧しい家庭の出身で、成り上がるためには良いパトロンを探す必要がありました。

 

そして愛人を選ぶときに交渉するのはバレリーナの母親でした。

娼婦と同じように認識されていたのかもしれません。

 

悲しい現実ですね。

 

 

 

 

 

バレエの現実を描いたドガ

 

 エドガー・ドガ画「踊りの花形(エトワール、舞台の踊り子)」

(1878年頃) オルセー美術館

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

 

ドガの作品にはそんなバレリーナたちの実情が描かれている作品があります。

 

踊り子の後ろに見える黒い人影。

これはこの踊り子を買ったパトロンの存在です。

 

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純粋にバレエが好きでその踊りの世界を表現したいならこういうものは排除しますよね。

 

エドガー・ドガ画『舞台のバレエ稽古』(1874) メトロポリタン美術館

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出典:エドガー・ドガ - Wikipedia

 

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ドガオペラ座の実情をどう思っていたのでしょうか?


バレリーナたちの現実が悪いとか、良いとか、そのようなことは考えてなかったのだろうなと思います。同情とかはしてなさそう。

 

ドガは現実として普通にあることを画面の中に取り入れることが自然だと思っていたんじゃないかな。

 

個人的には画面の隅に描かれた紳士たちと同じような目線でバレリーナたちを見ていたのではないのかなと思います。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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 参考

「人騒がせな名画たち」(木村泰司著、マガジンハウス)

祝2021年♪ 日本を愛した巨匠 横山大観の描いた富士山をみて今年の運気を上げましょう!

今日も生きています。

 

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

2021年ですね。

 

今日は縁起の良いと言われている「富士山」を紹介して、このブログを見に来てくださった方々と一緒に今年の運気を上げていきたいと思います。

 

富士山をモチーフにした画家(特に日本画家)はたくさんいますが、今日は横山大観の富士山を見ていきながら、大観あれこれも紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 横山大観とは

 

横山大観は、19世紀ー20世紀に日本で活躍した日本画家です。

富士山の作品もたくさん制作しています。

 

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出典:横山大観 - Wikipedia

 

横山大観のこの写真すごく好きだあ。(笑顔♪)

 

お酒好きで有名だった横山大観

宴会の席ではこのような楽しそうな雰囲気であったのでしょか?

 

 

 

 

 

横山大観画 「不盡之高嶺」(ふじのたかね)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 

 横山大観が富士山に取り組み始めた頃の初期の作品。

題名の「不盡之高嶺」(ふじのたかね)は、万葉集にある富士を詠んだ詩を意識していると言われています。

 

その詩とは、奈良時代歌人山部赤人(やまべのあかひと)の『富士山を望む歌』です。

 

山部宿祢赤人望不尽山歌一首 并短歌


天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎
天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利
時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不尽能高嶺者

 

〇大体の意味〇

 

世界が天と地と別れた時から神々しく、高く貴い駿河静岡県)の富士の高嶺を遙か遠くから振り仰いで見ると、空を渡る太陽も隠れ、照る月の光も見えない。

 

白雲も行く手を阻まれ、季節の区別なく雪は降り続いている。

この富士の高嶺を後世に語り継ぎ 言ひ継いで行こうではないか。

 

 

 

 

「群青富士」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

どことなく琳派風の屏風です。

 

 

芥川龍之介横山大観

 

横山大観は作家の芥川龍之介と交流がありました。

 

芥川龍之介は自画像の代わりに「河童」を描いたことで有名です。

 

その絵を見たからかはわかりませんが、大観は芥川に対して「絵をやれ」「みっちり三年間仕込んでやるがやる気はないか」口説いていたそうです。

 

弟子はとらない主義の大観が芥川を誘っていたとは驚きですね。

 

 

 

 

「霊蜂十趣・山」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

「霊蜂十趣・夜」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 

「霊峰十趣」は、それぞれ季節や時間帯によって変化する富士を10枚描き分けた連作です。

雰囲気はやまと絵風です。

 

 

〇レオナール藤田と横山大観。〇

 

レオナール藤田が横山大観と会ったときのことを書いた資料が残っています。

 

大観は私のことを藤田さんと呼ぶ 

私は大観先生と答へる。

 

大観さんに葡萄とレモン水馳走になった、

画はいい物丈残ると言ふ事を言はれ

 

にせは増えても真物は少なくと言ふ

 

(藤田嗣治資料FT00510,東京芸術大学蔵)

 藤田はエッセイ「日本画私観」の中で、横山大観について触れており、「娑婆気の多い政党人のような所」のせいで「本当の天才の境地に達することは出来ないように私には考えられる」と、少し厳しめの見方をしています。

 

横山大観氏の東洋精神主義という言葉をしばしば見聞する。無論日本画は西洋流の真似をしなくってもいい。然しそれと共に日本の伝統だといって、時代にさかろうてまで、旧臭い風習を固定しなくてもいいだろう

 

 日本の画壇の権力争いなどとは関係ないからこそ自由に横山大観の批判をできたんだろうなあ。

 

 

 

 

 

「朝陽霊蜂」(ちょうようれいほう)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 

宮内省から明治宮殿豊明殿を飾る作品を描くように依頼されて描いた作品です。

 

皇室への初めての献上作品です。

金色に輝く富士山と日輪は、「日本」のイメージそのものですね。

 

 

 

 

「山に因む十題・龍踊る」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

龍が雲のすきまから見えています。

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「山に因む十題・霊峰四趣 春」

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

横山大観の富士山観〇

 

横山大観の富士山に対する思いを「私の富士観」から知ることができます。

 

富士を描くということは、つまり己を描くことである。

己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。

富士を描くには理想をもって描かねばならぬ。

私の富士も決して名画とは思わぬが、しかし描く限り、全身全霊をうちこんで描いている。

 

 

 

 

「正気放光」(せいきほうこう)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

かっこよい題名は、江戸時代末期の水戸藩士であり、学者の藤田東湖がつくった詩「正気の歌」が由来と考えられます。

 

横山大観も水戸生まれなので詳しかったのかも知れませんね。

「正気の歌」は皇室を護っていくぜい!という気合いに満ちた詩ですが、それをもとに富士山を描いた大観のこの作品には、愛国心が込められているのかなあと思います。

 

 

 

 

 

「日出処日本」(ひいずるところのにほん)

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出典:「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

 この作品は横幅4メートル50センチという驚く大きさです。

紀元二千六百年奉祝展に出品されました。

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか?

日本を愛した横山大観の富士山はご利益がありそうです。

 

皆様にとって新しい年が良い年であることを祈っております。

 

 

 

 

 

 

 葛飾北斎の富士山はこちらで見られます。

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今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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参考

「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい横山大観 生涯と作品」(監修著者 吉田亮 著者 鶴見香織 勝山滋 株式会社東京美術)

実家あるある。家の謎コレクション紹介ーモナリザから日本人形までー

今日も生きてます。

 

晦日、皆様はいかがおすごしでしょうか?

 

わたしは雪国にいます。

庭は雪に埋もれてます。


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秋田はけっこう冷えてます。

 

うちの家はおじいちゃんが建てた家なので、おじさんとおばあちゃんのものとか、お母さんや私のものとか、いろいろなものが入り交じっています。

 

伝統工芸品とファンシー雑貨が融合された居心地の良い空間です。

 

ミニマリストも裸足で逃げ出す家ですね。

 

今日は実家に鎮座するコレクションを紹介していきます。


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まずモナリザ

もちろん複製です。

おじいちゃんのフランス土産です。


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いわさきちひろの色紙。

印刷です。


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たくさん文字がかかれているこけし

けっこう大きい。

 

 


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皆様を迎えるカエル。

こちらもけっこう大きい。

 


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隣に石もあります。

ずっとあるけど、なんの石かは不明です。

 


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急須がたくさんあります。

 


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手のひらサイズでかわいいです。

ちゃんと使えます。

 


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たなの上に愉快な仲間たち。


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「人間の運命」14冊

とても気になるタイトルですね

人生に迷ったらこの本を開いたら支えになりそうです。


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古典が並ぶ書籍の前にはファンシー雑貨たちが並んでます。

 

 


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ウサギと天使。

ファンシーです。


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居間の片隅に立ち並ぶ和風人形たち。


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おじいちゃんからこの人形もらったけど怖くて忘れたふりして置いて帰った記憶がある。

(ごめん。)


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家族が増えると増える日本人形たち。

けっこう美人さんです。


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帽子掛けにされてるスヌーピー

そういう用途の商品なのか?

 

 

 

断捨離が流行したときもありましたが、自分の気に入ったものや思いでの品に溢れた家も素敵ですよね。

 

 

さて、私の家とは違って実家はしっかり新しい年を迎える準備ができてます。

(偉大なる母)


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このブログは引き続き更新していこうと思います。

 

いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。

 

それでは良いお年を♪

 

 

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画家の死を予言した絵「死と乙女」のホラー。エゴン・シーレが描いた作品は何を意味していたのか。通説と勝手な個人的新解釈披露。

今日も生きてます。

 

友人に占いの学校に勤めている人がいます。

 

私自身はスピリチュアル・占い・幽霊・魂・死後の世界・神…迷信や霊的なものなどは信じないタイプでした。

 

しかしその友人の影響を受けて、今では「私が感じられないものもこの世界には数多く存在しているんだ。」と、価値観が変わりました。

 

その友人の話では「作品を制作している人には、そういう(第六感的な)感覚があり、表現しているのは無意識的(神秘的)なところから影響を受けている」と言っていました。

(表現は違いますが大体このようなことを言っていました。)

 

なので芸術作品は霊的なものと通ずるものがあるのかもしれません。

 

今日は画家の死を予言したかのような作品 エゴンシーレの「死と乙女」を見ていきます。

 

エゴンシーレ画「死と乙女」

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出典:エゴン・シーレ - Wikipedia

 

 

 

 

 

エゴン・シーレ

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出典:エゴン・シーレ - Wikipedia

 

 

この作品を描いたのはエゴン・シーレです。

 

エゴンシーレは19‐20世紀のオーストリアで活躍した画家です。

 

幼少のころから美術の才能を認められていて、ウィーン美術アカデミーに進学します。しかし保守的な価値観が合わずに退学します。

 

その後クリムトのもとに弟子入りし、クリムトの支援のもと制作を続けます。

 

第一次世界大戦が勃発すると従軍します。

大戦が終わりに近づく頃、クリムトが開催した展覧会「第49回ウィーン分離派展」でエゴン・シーレの新作が50点以上展示されます。

 

それが評判を呼び、注文が舞い込むようになり、人気画家としての兆しが見え始めたころにスペイン風邪で亡くなってしまします。

 

エゴン・シーレ画「自画像」(1912年

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出典:エゴン・シーレ - Wikipedia

 

 

 

 

 

エゴン・シーレの男女関係

エゴン・シーレ画『裸体の女』(1917年)

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出典:エゴン・シーレ - Wikipedia

 

「死と乙女」が描かれた背景を語るには、エゴン・シーレの男女関係を話す必要があります。

 

描かれている女性はエゴン・シーレの彼女、そしてモデルであったのヴァリ・ノイツェルです。

 

彼女はモデルとしてエゴン・シーレの制作を支えていましたが、1914年に中産階級職人の家の娘であるエーディトと結婚します。

 

社会的に認知されやすい裕福な娘を選んだということです。

 

しかしモデルのヴァリ・ノイツェルに未練があり、愛人として関係を継続することを提案しました。

(なんてことしてるんだ…)

 

性的に奔放であったヴァリ・ノイツェルですが、エゴン・シーレの愛人契約をきっぱり断り、二度と姿を現さなかったようです。

 

「死と乙女」はこのときに描かれた作品です。

 

 

 

 

 

「死と乙女」に描かれているもの

エゴンシーレ画「死と乙女」

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出典:エゴン・シーレ - Wikipedia

 

 

西洋美術では、伝統的な画題のひとつにメメント・モリがあります。

メメント・モリラテン語「死を覚えよ」を意味します。

 

死を象徴するようなモチーフを描き、限りある生を示唆する表現方法です。

そのモチーフには若くて美しい乙女もありました。

 

これは若さも美しさも、いつかなくなり死によって連れ去られてしまうという「美の虚栄」や「儚さ」を意味しているからです。

 

エゴン・シーレの「死と乙女」にはそのメメント・モリの手法を使用しています。

 

描かれている男性はエゴン・シーレ

男性にしがみついているのはモデルのヴァリ・ノイツェルです。

 

これはエゴン・シーレは自分を「死神」に見立て、モデルのヴァリ・ノイツェルを生の儚さを象徴する「乙女」に見立てて表現しているのだと思われます。

 

ヴァリ・ノイツェルがシーレに捨てられたということを考えると、絵の中の女性であるヴァリがシーレに未練があるように腕を回しているように見えます。

 

しかし実際はシーレがヴァリ・ノイツェルに未練があり、愛人契約の提案までしたのにきっぱり断られています。

 

絵の中のエゴン・シーレは驚いた表情していませんか?

ヴァリ・ノイツェルに拒絶されて驚いている顔とも取れます。

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「人騒がせな名画」のなかで著者である木村泰司さんはこの作品のことを「男のエゴイズムによる自惚れと愚かさ」を象徴した作品ともいえる…と、少々厳し表現をされていました。

 

 

 

 

 

個人的解釈

 

ここから勝手な解釈です。

 

元カノであり、モデルであったヴァリ・ノイツェルは、シーレと別れた後は、従軍看護婦としてクロアチアに出向き、1917年に23歳で亡くなります。

 

そして翌年、結婚したエゴン・シーレと妻エーディトもスペイン風邪で亡くなってしまいます。エーディトにはおなかの中にクリムトの子供がいました。

 

エーディトが先に亡くなり、後にエゴン・シーレが亡くなっています。28歳でした。

 

画家としての成功が見えてきたとたんに本当に悲しいことです。

 

 

冒頭で芸術作品をつくっているような人は、無意識のような神秘的なものから影響を受けて作品を作っているという話をしました。

 

エゴン・シーレとヴァリ・ノイツェルのことを知ってからこの作品を見ると、なんだか先に亡くなったヴァリ・ノイツェルがシーレを捕まえにきたみたいに見えてきました。

 

だからこんなエゴン・シーレはびっくりした顔してるんじゃないかな。

 

病の床に臥せているエゴン・シーレをヴァリ・ノイツェルが引きずりこもうとしている。こわい。

 

シーレは無意識に死の直前に自分の身に起こる恐怖を描いてしまったんじゃないかな。

 

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めちゃくちゃ怖い絵に見えてきませんか?

ホラーですね。

 

全て私の勝手な妄想なので安心してくださいね。

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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誰の裸なのか。アウトかセーフかはそれで決まる。19世紀パリの美術事情とマネのスキャンダル作品。

今日も生きてます。

 

百貨店の美術画廊や、銀座のギャラリーに行かれる方ってどのくらいいるんでしょうかね

初心者からすると、とても入りづらい雰囲気ですよね(笑

 

私が大学一年生の時に初めて展示したのは東武池袋店の美術画廊でした。

 

事前に展示する作品が配達では間に合わず、渋々自分で手持ち搬入したのですが、あんまり「美術画廊」という看板が立派で、長い間怖くて入れずに、大きな荷物をもってうろうろしてました。(田舎者なので…

 

百貨店では絵画などの芸術作品は高い階で売られていて、同じ階には宝飾品や時計など、高級商品を取り扱っていることが多いです。

 

デパ地下や他のフロアと雰囲気が違うので慣れないときついです。

(今でも苦手かも)

 

芸術品のイメージって「高くて」「高貴」なものがありませんか?(訳が分からないという方もいらっしゃるかもしれない)

 

それは19世紀の西洋美術でも同じでした。

 

ということで、

今日は前回に引き続き19世紀パリの巨匠マネの絵画を見ていきましょう!

 

前回のブログ↓

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アンリ・ファンタン=ラトゥール画 マネの肖像画(1867年)

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

 

 

 

フランスの高貴な芸術と理想

 

マネの作品を理解するには、当時の美術の価値観を知っておくとわかりやすいかもしれません。

 

19世紀のフランスの美術業界の権威は3つありました。

 

エコール・デ・ボザール

 (17世紀に設立されたフランスの美術の教育機関)

 

芸術アカデミー

 (会員制の芸術家団体)

 

サロン

 (アカデミーが開催した公募展)

 

 

 

画家として成功するにはサロンに入選したり、芸術アカデミーの会員になることが近道でした。(貴族やお偉いさんのお客さんがつきやすくなる利点があったのではと推測します。)

 

このアカデミーで「良い」とされていた芸術は「古典主義」です。古典というのは古代ギリシャの芸術のことです。

古典主義のことをアカデミズムとも呼びます。

 

必然的に歴史画や神話などの画題が「良い&理想の美術」になっていきます。

 

 

 

 

 

描かれたのは「誰の裸」?

 

エドゥアール・マネ画「草上の昼食」

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出典:草上の昼食 - Wikipedia

 

前回取り上げたマネの作品は「草上の食卓」です。

この絵はサロンに落選してしまいました。

鑑賞者からは「不道徳」「いかがわしい」などと批判されてしまいます。

 

そして同じ年にサロンで絶賛されたのが↓の作品です。

 

 アレクサンドル・カバネル画『ヴィーナスの誕生』(1863年

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出典:アレクサンドル・カバネル - Wikipedia

 

 

現代日本に生きる私としてはこの作品の方がいかがわしいと思いますが、皆様どう思われますでしょうか。(エロス!)

 

当時フランスの美術アカデミーの考え方ですと、裸と言っても「神」の裸は描いてもいいし、それはいかがわしいものではないという考え方でした。

 

描かれた裸のヴィーナスを下から仰ぎ見る構図で描こうが、ヴィーナスが脇の下を見せてうふーんなポーズをとっていようが関係無かったようです。

 

絵画が裸婦をどれだけ官能的に魅力的に表現しても、それは神話の世界なのでセーフです。(ちなみに画題が神話ならモデルが現実の女性でもセーフ)

 

しかし、マネが絵画に描いたのは現実の女性でした。

しかも娼婦をにおわせるような描き方。

 

これは当時においては前衛的な画題でした。

 総括すると美術アカデミーがマネの作品を良しとしなかった理由は以下のようなものです。

 

当時の風俗を表現していること

現実の女性の裸を描いていること

高貴な芸術に不釣り合いな娼婦のような女性が描かれていること

 

 

 

 

 

マネ、開き直る。

 

1863年に草上の食卓が発表されてスキャンダルになったマネ。

たくさん批判されましたが、1865年にはもっと過激な作品を発表します。

 

エドゥアール・マネ画「オランピア

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 出典:オランピア (絵画) - Wikipedia

 

 チョーカーや腕輪を身に着けた裸の女性が、ベッドに横たわっています。

ぱっと見たところ、21世紀の現代の女性だよと言われても通じるほど現実的な裸婦です。

 

しかも題名のオランピアは当時のパリの娼婦たちの通称であったとか。

 

信念を貫いたのか、開き直ったのかはわからないが、マネは現代の女性の裸婦を発表することを止めませんでした。

 

もちろんこの作品もスキャンダルを巻き起こしました。

 

 ちなみにこのときのスキャンダルは相当心に負担がかかったようで、その後マネはスペインに傷心旅行をしています。

 

 

 

マネの影響

 

モネ、セザンヌゴーギャン

後に印象派として有名になっていく画家たちにマネは刺激を与えました。

 

セザンヌゴーギャンはマネの作品からインスピレーションうけた作品を制作しています。

 

セザンヌ画『草上の昼食』

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

 

ゴーギャン画『死霊が見ている』

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出典:エドゥアール・マネ - Wikipedia

 

 

 

 

 

マネが起こしたスキャンダルって現代日本でもありますよね。

見たこと無い、または見たくないような表現をした作家の作品を目前にすると、私たちは困惑してしまいます。

(むしろこのような手法の方が今においては主流なのかな?)

 

マネのスキャンダル事件を知ると、現代を表現する現代アートや、新しい価値観を重宝する西洋美術の流れが少し見えてきますよね。

 

 

 

今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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