リアル絵描き日記

画家明石恵のブログです。

洛中洛外図について知るー政治的な意図ありー

今日も生きてます。

 

 

 

洛中洛外図について取り上げます。

 

〇洛中洛外図とは?

 

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洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵です。

 

狩野永徳の作品が有名ですが、この洛中洛外図が描かれた作品は100点以上(!)現存しています。

 

思ったよりたくさんあって驚き!ですね。

 

 

いつ頃制作されたかというと、戦国時代にあたる16世紀初頭から江戸時代にかけて作られました。

 

 

 

 

〇洛中洛外ってなぜ京都のことを指すのか?

 

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そもそもなぜ京都のことを洛中洛外と呼ぶのでしょうか?

というかどこが中でどこが外なのでしょうか?

 

恥ずかしながら京都に行ったことはあれどあまり興味が無かった私は地理的に何が何やらわかりません。

 

 

この「洛」はもともと平安時代の文学が由来です。

 

平安文学の世界では、平安京のことを長安・洛陽」と表現することがありました。

 


長安・洛陽」は唐の都の名前です。

 

唐は、西の「長安」を都とし、

東の「洛陽」を副都としました。

 


そこから平安文学の中おしゃれな(?)愛称として、

朱雀大路から西を「長安城」と呼び、東を「洛陽城」と呼ぶようになったのです。

 

 

 

 

その後平安京の西側は災害などで廃れてしまいましたが、重要な施設は東側に移り、東側は発展を続けました。


そして平安京の東を意味していた「洛陽」が平安京の代名詞になり、洛陽を省略して「洛」といえば平安京という意味になりました。

 

 

 

 

 

 

〇洛中洛外ってどこからが中でどこからが外なの?

 

屏風を鑑賞する上ではあまり重要ではないことかもしれませんが、どこからが洛外で、どこからが洛中なのかという問題があります。

 

実はこの洛中洛外の範囲は厳密には決まっておらず、時代と共に変遷しています。

 

とりあえず京都御所の辺りは洛中と知っておくだけでいいかなと思います。

 

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現代で洛中洛外を意識している人は日本全体で少数派ですね

 

 

 

〇唯一の国宝「洛中洛外図屏風 上杉本」

 

 

たくさんつくられた洛中洛外図屏風

その数ある中で唯一国宝である上杉本についてみていきましょう。

 

 

 

 

 

  

右隻:京都東方面

内裏を中心に下京の町並みや、鴨川、祇園神社、東山方面の名所

 

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左隻:西方面

公方御所をはじめとする武家屋敷群や、船岡山北野天満宮などの名所

 

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 洛中洛外図の中でも、戦国時代の景観を描いたものは初期洛中洛外図と分類されます。

 

初期洛中洛外図では、右隻に春夏、左隻に秋冬の風物や行事が描かれています。

 

これは、五行説に従って四季を東西南北に配置しています。

 

北に冬(玄冬)

東に春(青春)

南に夏(朱夏

西に秋(白秋)

 

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五行の色、四季、方位を表した図。

上の画像はWuxing_fr_2.svg: Ju gatsu mikkaderivative work: Ju gatsu mikka - このファイルの派生元: Wuxing fr 2.svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21931939による

 

五行説ごぎょうせつ)とは、古代中国からの自然哲学の思想で、万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるというものです。

 

 

 

 

細部まで細かく細かく描かれていて、登場する人物は2479人(!)もいます。

 

 

抹茶を一服一銭で売る商人

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内裏の正月風景

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足利将軍邸

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祇園祭

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武衛門前の闘鶏

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細川殿(左隻第三扇)

 

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〇東西「写実」の違い

 

『マンガでわかる「日本絵画」の見かた』(矢島新監修 誠光堂新光社) の中で、日本と西洋の写実の違いを取り上げていました。

 

 

 

西洋の写実実物を忠実に画面に写す

 

『デルフト眺望』1660年-61年頃。マウリッツハイス美術館(ハーグ〉。f:id:akashiaya:20200229144328j:plain

 

 

一つの視点から見える世界を描く

遠近法を使って描く

最小限のタッチで描く

 

 

 

日本の写実部分の組み合わせで全体を表現

 

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 町並みは斜め上から、人は真横からなど、様々な視点から描かれている

金雲で場面を区切る&画面の歪みを隠す

遠近法的には見えない細部まで描く

 

 

 

 

 

 

〇制作背景

 

織田信長上杉謙信に贈った屏風として有名ですが、実はもともとこの屏風を注文したのは足利義輝です。

 

将軍の権威を高めていく中で、足利義輝上杉謙信に上洛して重要なポストについてほしいと思っていました。

 

この屏風には足利義輝が謙信に対して、この京都を一緒に治めていこうぜというメッセージを伝えるために作られたのではないかと思います。

 

しかし、この屏風が完成する前に足利義輝は亡くなってしまいます

 

 

屏風が完成した後も屏風は狩野永徳のそばに置いてありましたが、織田信長が勢力を伸ばしていく中で、狩野永徳は織田に近づき、織田はこの屏風の存在を知ります。

 

その時の織田は上杉謙信を絶対に敵に回したくないという情勢の中に居ました。

 

そこで織田信長上杉謙信と同盟を結び、

 

今度は俺と一緒に京都を治めようぜ!

(だから仲良くしようぜ!)

 

という気持ちを込めてこの屏風を贈ります。

 

謙信としては、この屏風を見て、織田だけではなく、亡くなった義輝のことも想ったかもしれません。

 

 

 

ちなみに織田信長安土城の屏風を狩野永徳に描かせ、ローマ教皇に献納したという記録もあります。

 

 

 

 

 

 

この土地が描かれた屏風というものは、単に町並みや四季の行事を楽しく描いたものではなく、

 

「これが俺の領土(領土と書いて、モノと読む)だ!これが俺の力だ!」

 

ということや、

 

「この土地を治めないか?」

 

などなど…強い政治的な意図が込められたものと認識した方がよいです。

 

 

 

 

 

 

 狩野派について

 

 狩野派は戦国時代を生き抜いた絵師集団であるからゆえに、その政治的な手腕はとても勉強になります。

 

ちなみに狩野派の二代目・狩野元信は、ライバルの土佐派の娘を嫁に迎えています。

絵の世界の政略結婚か?

狩野派は漢画を得意としていましたが、元信は土佐派の主流の画法であるやまと絵も取り入れて新しい表現スタイルを作り出しました。

 

狩野永徳も織田に近寄り、注文主が亡くなってしまった洛中洛外図を信長に買わせる営業的な意味でも優秀な孫です。(死因は過労死ともいわれてますが。)

 

ちなみ過去に狩野派についてはブログで取り上げました。

 

 

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今日はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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